ep.1 - 最初のコーヒー
風のない夜だった。
焚き火の炎が、ゆらゆらと不規則に揺れている。薪はもう細く、芯だけが赤く灯っている。ぱち、と小さな音がして、灰がひとつ舞った。
白川怜は、その火を見ていた。
焦げた空気の匂い、木の弾ける音、足元の灰の白さ。どれも肌には届いているのに、不思議と少し遠く感じられる。
「……焚き火って、こんなに静かだったっけ」
ぽつりと呟いた声に、返事はなかった。
誰に言ったわけでもない。ただ、焚き火の向こうに立っていた“誰か”の記憶に向けて、そう言いたくなったのだ。
(この火みたいだったな、あの人)
怜の目に、横顔が浮かぶ。
焚き火の奥に残る芯のように、誰にも見せない場所で、ずっと燃えていた。
そして、誰かに手を伸ばされるより先に、自分で灰になろうとした。
そういう人だった。
怜は、マグカップを手に持ち直す。ぬるくなったコーヒーの香りが、鼻をかすめた。
もう何年も経ったはずなのに。ふとした瞬間に、その人の気配が、火の粉みたいに舞い上がってくる。
どこか整いすぎたこの静けさに、ほんのわずかだけ、胸の奥がざわついた。影がくっきりと浮かびすぎている──まるで誰かが、「この瞬間」を見ているかのような。
怜は、反射的に少し身じろぎして、それを確かめるように空気をなぞった。
(……初めて会ったの、いつだったっけ)
怜は、目を伏せる。
そして、ゆっくりと記憶の扉を開けた。
──その日、冷たい風が街角の石畳をなでていた。
カフェ・リュールのドアが開いたのは、午後も深くなってきた頃。外気の寒さを連れて、男がひとり入ってくる。
上着の肩にはかすかに雪が残っていた。がっしりした体格に、どこか“無駄のない動き”をする人だった。靴の音も控えめで、背中をまるめるでもなく、威圧するでもなく、ただ、静かに、そこにいた。
白川怜は、いつもどおりに迎えた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「……ああ」
低く通る声。無愛想というより、無駄を削ぎ落としたような返事。
そのまま窓際の席へと歩いていく。
やがて運ばれたコーヒーに、男は礼も言わず──だが、受け取る手は丁寧で、カップを持つ仕草にも無意識の律儀さがあった。
しばらくの間、男は無言のまま、窓の外を見ていた。
カップを口に運び、また置く。
ときおり、本当にわずかに視線が店内をなぞるが、それも長くはない。
怜がカウンターの奥からグラスを拭いていると、ふと、その視線が自分のほうへ向いた。
ほんの数秒──言葉の代わりのように、ただ“見る”という動作だけがあった。
その目の奥にある静けさ。
「この人は、もう“誰にも何も求めていない”のかもしれない──」
そんな印象が、まるで冬の空気の中に染み込んだように、怜の胸に残った。
その視線には、何かを測ったり、見透かしたりする色がなかった。ただ、静かにそこにあるだけだった。
怜は、自分がいま、見られていることに気づいた。
不思議だった。これまで幾度となく、外見や声や、態度ひとつで“判断”されてきたはずなのに。
この人の目は、それとは違っていた。
ほんの少しだけ、なにかが引っかかった。ほんの少しだけ──興味を持ったのかもしれない。
その人が帰ったあと、怜は、カップの跡を拭く手を少しだけ止めた。
それが、白川怜にとっての桐島修司という男との最初の記憶だった。
何かが始まるとは思っていなかった。
でも、今ならわかる。あの静けさの奥に、すでに火種はあった。