ep.6 - カフェオーナーの独り言(4)損して得るもの
昼の喧騒が過ぎたあと、閉店までのひととき。
カウンターの中では詩織がコーヒーサーバーを洗っていて、怜は客席を整頓しながら、クロスでテーブルを拭いていた。
「……ねえ、詩織さん。僕がいないときに、ちょっとした騒ぎがあったって……聞いた」
怜がぽつりとつぶやいた。
詩織は手を止めなかったが、少しだけリズムが緩んだ。
「ふうん」
「桐島さんに、誰か怒鳴り込んできたって」
怜は次のテーブルに向かい、その流れでちらと詩織を見た。
詩織は、タオルで手を拭いてから、怜に目を向けた。
「……誰から聞いたの?」
「……誰か、ってわけじゃない。空気の端に引っかかってた言葉を、たまたま拾っただけ」
詩織は、ほんの少し考える間を取ってから、言った。
「いたよ。声を荒げた男がひとり。……でも桐島さんは、怒らなかった。言い訳もしなかった」
その言い方は、記録を読むように簡潔だった。でも、そこには少しだけ温度があった。
言い訳しなかった、というのは、必ずしも立派だからではない。
詩織にはわかっていた。あれは、語らなかっただけだ。感情も立場も、まるごと飲み込んで、黙っていた。
怜はそれ以上、質問を重ねなかった。
詩織はそれを確認してから、少しトーンを落とす。
「でもね、怜。あの人、自分でちゃんと選んでやってるわけじゃないと思うよ。そういう受け止め方」
怜の手が、テーブルの上でふと止まる。
「じゃあ……?」
「たぶん、“そうするしかなかった”って思ってるんじゃない? ……自分の立場とか、背負ったものとか──それしか残ってなかった人が、とっさに取る態度って、あるから」
怜は目を伏せ、手の中のクロスをひと撫でしてから、また机に向かった。
「……優しいのか、弱いのか、わからなくなるときがある」
「そりゃ、あんたが見るからでしょ」
詩織は微笑みもせずに言った。
「見ない人は、そういうの、全部“無口で大人な人”って片づけるんだから。
見ちゃったあんたが、ちょっと損してるんだと思うよ」
怜はその言葉に、小さく苦笑した。
「……たぶん、僕は損してるんじゃなくて、見たいんだと思います。それって、ずるいことなのかもしれないけど」
詩織はその言葉に、ひと呼吸置いてから頷いた。
「そりゃまあ、桐島さんもだいぶずるいから、いいんじゃない?」
そう言って詩織はグラスを拭きながら、
(この二人、似てないようで、見るところが似てる)そんなことを思っていた。
店内には、閉店前の静けさがゆっくりと沈んでいく。
客の気配がすっかり消えたテーブルの上に、磨かれたグラスの光がぽつんと残っていた。その向こうで、怜の後ろ姿が静かに動いている。
── 見ようとする人がいる限り、言葉にされなかったものも、いつか誰かの目に映るのかもしれない。
詩織は、そんなことをぼんやりと思いながら、そっと視線を落とした。