表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/59

ep.6 - カフェオーナーの独り言(3)嵐の手前で

 十一月の終わり、日差しはまだあるのに、街にはもう冬の手前の気配が漂っていた。

 風は乾いていて、扉の隙間から入り込むたびに、店内の空気をわずかに冷やす。


 怜は仕入れで外に出ていて、店内は詩織ひとり。

 数組の客が静かに過ごす奥、窓際の席で、桐島が手帳に何かを書き込んでいた。



 音も言葉も、必要なぶんだけ。

 詩織は、こういう時間の静けさが好きだった。誰にも邪魔されない、整った余白。


 扉が、唐突に開いた。


「……桐島ってのは、お前か」


 入り口に立っていたのは、三十代半ばの男。

 ワイシャツの襟は乱れ、コートのボタンはかけ忘れたまま。

 怒りの表情を浮かべ、額に薄く汗が浮かんでいた。その目は、まっすぐに桐島を射抜いている。



 詩織はその場から動かなかった。けれど、一瞬で店全体の空気が張りつめるのを感じた。

 数組いた客が、思わず顔を上げた気配。そういう変化を、彼女は何より早く察知する。


 桐島は手帳から顔を上げ、静かに男を見た。


「ああ、俺だ」


 低い声。柔らかくも、硬くもない。淡々としていて、けれど空気を揺らすだけの芯がある。


 男が、肩で息をしながら一歩踏み出す。


「うちの嫁と──お前……っ!」



 詩織は、まだ動かない。

 代わりに、桐島がどう動くのかを見ていた。


(こういうとき、この男はどうするんだろう)


「……知らなかった。既婚者だとは」


 言い訳じゃないが、説明でもない。口をついて出たその一言には、ただ“怒りを処理する”ための形だけがあった。


「それがどうした。理由になるかよ……!」


 声が大きくなった瞬間、詩織はカウンターから出て、ゆっくりと前に出た。


 店の空気を守るために、であって、桐島のためではない。

 少なくとも、自分の中ではそう整理した。


「ここは喫茶店です」


 張りはないが、抑制された芯のある声。

 男の肩が、ほんのわずかに揺れた。


「怒る気持ちは、わかります。でも、ほかのお客様にまで届く声を、ここであげられるのは困るんです」


 その声に、桐島が重ねるように低く言った。


「連絡先を渡す。……外で話すなら、それで構わない」


 男は拳を握り直したが、それ以上は動けなかった。

 やがて、振り切るように扉を開けて、ベルの音を残して出ていった。



 静寂が戻る。


 詩織は振り返らなかったが、客たちがそっと会話に戻る気配が、店内にゆるやかに広がっていくのを感じていた。


 ──嵐ではなかった。けれど、ざわりと通り過ぎた熱の帯は、確かに空間を揺らしていった。



 しばらくして、桐島が小さく言った。


「……お騒がせしました」


 その声に、詩織は返事をしなかった。けれど横から見た彼の表情に、ひとつだけ思った。


(“俺が悪い”って言い方じゃないのね)


 あれは、“自分が悪い”と認める言葉じゃない。どちらかといえば、“迷惑をかけた相手に対して、自分なりに線を引いた”言い方だった。


 誰かに弁明するつもりはない。でも、感情を飲み込むことには、慣れている。


 詩織はその“慣れ方”に、少しだけ、危うさを見た。

 他人の怒りを、自分の輪郭で引き受けて、語らない。


(……あの子、そういうとこ、気づいてるのかね)


 怜の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ