ep.6 - カフェオーナーの独り言(3)嵐の手前で
十一月の終わり、日差しはまだあるのに、街にはもう冬の手前の気配が漂っていた。
風は乾いていて、扉の隙間から入り込むたびに、店内の空気をわずかに冷やす。
怜は仕入れで外に出ていて、店内は詩織ひとり。
数組の客が静かに過ごす奥、窓際の席で、桐島が手帳に何かを書き込んでいた。
音も言葉も、必要なぶんだけ。
詩織は、こういう時間の静けさが好きだった。誰にも邪魔されない、整った余白。
扉が、唐突に開いた。
「……桐島ってのは、お前か」
入り口に立っていたのは、三十代半ばの男。
ワイシャツの襟は乱れ、コートのボタンはかけ忘れたまま。
怒りの表情を浮かべ、額に薄く汗が浮かんでいた。その目は、まっすぐに桐島を射抜いている。
詩織はその場から動かなかった。けれど、一瞬で店全体の空気が張りつめるのを感じた。
数組いた客が、思わず顔を上げた気配。そういう変化を、彼女は何より早く察知する。
桐島は手帳から顔を上げ、静かに男を見た。
「ああ、俺だ」
低い声。柔らかくも、硬くもない。淡々としていて、けれど空気を揺らすだけの芯がある。
男が、肩で息をしながら一歩踏み出す。
「うちの嫁と──お前……っ!」
詩織は、まだ動かない。
代わりに、桐島がどう動くのかを見ていた。
(こういうとき、この男はどうするんだろう)
「……知らなかった。既婚者だとは」
言い訳じゃないが、説明でもない。口をついて出たその一言には、ただ“怒りを処理する”ための形だけがあった。
「それがどうした。理由になるかよ……!」
声が大きくなった瞬間、詩織はカウンターから出て、ゆっくりと前に出た。
店の空気を守るために、であって、桐島のためではない。
少なくとも、自分の中ではそう整理した。
「ここは喫茶店です」
張りはないが、抑制された芯のある声。
男の肩が、ほんのわずかに揺れた。
「怒る気持ちは、わかります。でも、ほかのお客様にまで届く声を、ここであげられるのは困るんです」
その声に、桐島が重ねるように低く言った。
「連絡先を渡す。……外で話すなら、それで構わない」
男は拳を握り直したが、それ以上は動けなかった。
やがて、振り切るように扉を開けて、ベルの音を残して出ていった。
静寂が戻る。
詩織は振り返らなかったが、客たちがそっと会話に戻る気配が、店内にゆるやかに広がっていくのを感じていた。
──嵐ではなかった。けれど、ざわりと通り過ぎた熱の帯は、確かに空間を揺らしていった。
しばらくして、桐島が小さく言った。
「……お騒がせしました」
その声に、詩織は返事をしなかった。けれど横から見た彼の表情に、ひとつだけ思った。
(“俺が悪い”って言い方じゃないのね)
あれは、“自分が悪い”と認める言葉じゃない。どちらかといえば、“迷惑をかけた相手に対して、自分なりに線を引いた”言い方だった。
誰かに弁明するつもりはない。でも、感情を飲み込むことには、慣れている。
詩織はその“慣れ方”に、少しだけ、危うさを見た。
他人の怒りを、自分の輪郭で引き受けて、語らない。
(……あの子、そういうとこ、気づいてるのかね)
怜の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。