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ep.6 - カフェオーナーの独り言(2)気になる背中

 カフェ・リュールのドアが、控えめに開いた。

 冷たい風が店内に入り込み、木の扉の隙間から、ひとひらの落ち葉が滑り込む。風の中には、乾いた土と木の香りが混じっていた。


 入ってきたのは、スーツを着た長身の男だった。ネクタイは緩めず、上着も脱がず、整えすぎない程度にきちんとした姿。

 歳は四十代前半、だがその背筋はまっすぐで、靴音にもためらいがなかった。


 詩織はカウンターの奥で、グラスを拭いていた手を止める。

 ちょうど午後の混雑が終わり、店内には三、四人の客が、それぞれの静けさに身を委ねていた。


 男は一瞥だけで店内を把握した様子で、奥の窓際──いつも怜が案内していた席へと歩いていく。

 席に着くと、視線を落としたまま、ゆっくりと上着の前を外した。


 カウンター内で怜が、ふっとわずかに背筋を正す。その仕草に気づいた詩織は、小声で言った。


「……へぇ、あの人が」


 男は、遠目にも整った顔立ちをしていた。骨格がしっかりしていて、造形に派手さはないのに、妙に品がある。

 “整ってる”というより、“整って見える”のだ。それはおそらく、内側の張りつめたものが、外に滲んでいるせいだろう。

 たぶん、若い頃より今の方が、ずっと魅力的な顔をしている。詩織はそういう男を何人か知っていた。


「何か?」


 怜がさりげなく尋ねた。


「いや、なんか不思議な人ね。あの“歩き方”って、職業病よ。きっと一度でも荒場くぐってる」


 怜は、少しだけ目を見開いて笑った。


「そう言えば、そんな気もします」


「それに──」詩織は、少しだけ顔を上げて、スーツ姿の背中を見やった。

「他の人と、空気の“押し合い方”が違うわね。馴染まないんじゃなくて、“境界線”を引いてるのよ。自分の輪郭をちゃんと持ってる」


「それって、褒めてます?」


「半分だけね。もう半分は、“めんどくさそう”って意味よ」


 冗談めかして肩をすくめたあと、詩織はグラスを棚に戻しながら怜の横顔をちらりと見た。

 怜の目は真面目で、けれどどこか楽しげな色が混じっている。


「気になる?」


「……まあ、少しだけ」


「なら、気が済むまで見てれば?」


 そう言って詩織は、静かに並べたグラスを整える。

 陽の傾いた午後、店内には長い影が落ちていた。



 しばらくして、ふと詩織は思った。


(この人、静かに時間を使える人だな)


 何かしてるわけじゃない。本も読まず、スマホもいじらず、ただコーヒーを前に過ごしている。

 空気を濁さず、焦りもない。ただ、そこに在る。それが不思議と場にしっくりとくる。


 そういう客は、実はとても少ない。

 リュールを訪れる人々は皆、居心地の良さを求めて来るけれど、どこかに“埋めたい何か”を持ち込んでいることが多い。


 でも、この男は違った。彼自身が、この店の“余白”を乱さずにいてくれる。

 だからこそ、詩織はこう思ったのだ。


(たぶん、怜がこの人に少しだけ心を開いてる理由、分かった気がする)


 そして、もし怜が「この人を見ていたい」と思っているのだとしたら、それはきっと、悪くないことだ。


 外では、街路樹が秋の風に揺れていた。

 カフェの中には、挽きたてのコーヒーの香りと、柔らかくくぐもったジャズが漂っている。

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