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ep.6 - カフェオーナーの独り言(1)ベールの向こうにいた子

 カフェ・リュールの午後は、秋の名残をそっと引きずるような静けさに包まれていた。

 天井のファンはもう止まり、代わりに小さなストーブが低く唸っている。

 温かいカップのそばで、氷の代わりに添えられたレモンスライスが、グラスの縁に小さく影を落とした。


 カウンターの奥で、怜が静かに食器を洗っている。その口元がほんのわずか緩んでいるのを、入り口から見ていた女性は、ふっと口角を上げた。


「……あら、随分とご機嫌ね」


 怜が振り返るより前に、その声は、カフェ・リュールの空気になじんでいた。



 古舘詩織(ふるだてしおり)──この店のオーナーであり、怜の叔母にあたる人。


 ベリーショートの髪に、薄手のウールコートを羽織った詩織は、深い赤のワンピースを着ていた。柔らかな起毛素材に、白の刺繍が静かに浮かんでいる。足元は、落ち着いた色味のショートブーツ。

 主張しすぎず、それでいて、色も質感もきちんと選ばれている。


 ──そういう装いが、他人にどう見られるかより、自分に“しっくりくるか”で決めている。

 そんな彼女の流儀は、詩織自身も少し気に入っていた。


「なに、恋でもした?」


「してません」


「ほんと? その洗い方、明らかに“心に余白があります”って感じだけど」


「詩織さん、今日は僕で遊びたい気分なんですか?」


「さあ、どうかしら。……でも怜には、言いたくなるのよね。からかうと面白いから」


 カウンター越しに身を乗り出す詩織の目には、からかいと、もうひとつ、微かな観察の光が混じっている。

 大人の余裕──というより、大人の“体温のある洞察力”。



(でも、あの頃は──)


 ふと、記憶の底から小さな影が立ち上る。

 怜が初めて詩織のもとに預けられたのは、彼が十三歳のとき。

 母親の紗英が出張に出ていて、しばらくのあいだ詩織が引き取ったのだった。


 あのときの怜は、妙におとなしく、よく空気を読んでいた。食事の時も、寝る前も、何かを聞けば「うん」か「大丈夫」。

 言葉に乱れはないのに、いつもどこか、自分を包むベールの向こうにいた。

 けれどそのベールは、周囲の期待に合わせるために自分で選んでかぶったものだと、詩織には、なぜかすぐにわかった。


(……だから私は、なるべく何も言わずに一緒にいた。この子が、どこまで自分で輪郭を作ろうとしてるのかを、見ていた気がする)


 そんな昔の記憶を思い出しながら、詩織はふっと笑う。

 あれから十年以上。詩織自身も、四十代の後半に入った。いつのまにか、“見守る側”の時間のほうが長くなっていた。



「……まあでも、あの子、よかったわね。あんなふうにちゃんと、顔が晴れて」


「えりかさんのこと、見てたんですか」


「そりゃあ。女の子ってのは、目の端でいろんなものを見てるの。特に、誰かが誰かを“ちゃんと見た”あとの顔って、すごく変わるものよ」


 怜は、一瞬だけ黙って、手元の作業に戻る。そして、ぽつりと呟くように言った。


「……僕も、そう思いました」


 詩織はその声に、ふっと笑う。


「いいわね、若いって。ちょっと光をあてるだけで、ちゃんと芽が伸びる。……あんたも、ちょっと伸びたんじゃない?」


「……なんですか、それ」


「褒めてるのよ、いちおう」


 水音は、静かに流れていた。洗い場に立つ怜の手元から、控えめな音が、絶え間なく生まれては消えていく。

 リュールの午後はまた、ゆるやかに流れ出す。詩織はそのなかで、怜に気づかれないように、そっと目を細めた。



 ──変わっていくのは、悪くない。

 けれど、その変化を誰が見てくれるかで、きっと意味は変わる。


 そして今、怜の変化を見ていたのは、詩織自身だった。

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