とあるカフェオーナーの独り言・2
カフェ・リュールのドアが、控えめに開いた。
鈴の音が鳴る直前、古舘詩織は、その微かな気配に気づいて顔を上げた。
夏の名残を残した風が、入り口から一瞬だけ吹き込む。
入ってきたのは、スーツを着た長身の男だった。
ネクタイは緩めず、上着も脱がず、整えすぎない程度にきちんとした姿。
歳は四十代前半、だがその背筋はまっすぐで、靴音にもためらいがなかった。
詩織はカウンターの奥で、シロップの瓶を拭いていた手を止める。
ちょうど午後の混雑が終わり、店内には三、四人の客が、それぞれに時間を溶かしている。
男は一瞥だけで店内を把握した様子で、奥の窓際──いつも怜が案内していた席へと歩いていく。
席に着くと、視線を落としたまま、ゆっくりと上着の前を外した。
カウンター内で怜が、ふっとわずかに背筋を正す。
その仕草に気づいた詩織は、小声で言った。
「……へぇ、あの人が」
詩織は作業を再開しながら、小声でつぶやいた。
「何か?」
怜がさりげなく尋ねた。
「いや、なんか不思議な人ね。あの“歩き方”って、職業病よ。きっと一度でも荒場くぐってる」
怜は、少しだけ目を見開いて笑った。
「そう言えば、そんな気もします」
「それに──」
詩織は、少しだけ顔を上げて、スーツ姿の背中を見やった。
「他の人と、空気の“押し合い方”が違うわね。馴染まないんじゃなくて、“境界線”を引いてるのよ。自分の輪郭をちゃんと持ってる」
「それって、褒めてます?」
「半分だけね。もう半分は、“めんどくさそう”って意味よ」
冗談めかして肩をすくめたあと、詩織はグラスを棚に戻しながら怜の横顔をちらりと見た。
怜の目は真面目で、けれどどこか楽しげな色が混じっている。
「気になる?」
「……まあ、少しだけ」
「なら、気が済むまで見てれば?」
そう言って詩織は、棚の整理にとりかかる。
光が傾き始めた店内に、長い影が静かに落ちていく。
しばらくして、ふと詩織は思った。
(この人、静かに時間を使える人だな)
何かしてるわけじゃない。
本も読まず、スマホもいじらず、ただコーヒーを前に過ごしている。
空気を濁さず、焦りもない。ただ、そこに在る。それが不思議と場にしっくりとくる。
そういう客は、実はとても少ない。
リュールを訪れる人々は皆、居心地の良さを求めて来るけれど、どこかに“埋めたい何か”を持ち込んでいることが多い。
でも、この男は違った。
彼自身が、この店の“余白”を乱さずにいてくれる。
だからこそ、詩織はこう思ったのだ。
(たぶん、怜がこの人に少しだけ心を開いてる理由、分かった気がする)
そして、もし怜が「この人を見ていたい」と思っているのだとしたら、それはきっと、悪くないことだ。
外では、街路樹が秋の風に揺れていた。
カフェの中には、挽きたてのコーヒーの香りと、ゆるやかなジャズが漂っている。