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とあるカフェオーナーの独り言・1

カフェ・リュールの午後は、夏の光にすこしばかり疲れたような静けさをまとっていた。

天井のファンがゆっくりと回り、氷の入ったグラスが、ときおりやわらかく音を立てる。


カウンターの奥で、怜が食器を洗いながら、小さく口元を緩めているのを見て、入り口からその様子を見ていた女性は、ふっと口角を上げた。


「……あら、随分とご機嫌ね。なに、恋でもした?」


怜が振り返るより前に、その声は、カフェ・リュールの空気になじんでいた。



古舘詩織(ふるだてしおり)──この店のオーナーであり、怜の叔母にあたる人。


ベリーショートの髪に、リネンのシャツワンピース、足元はレザースリッポン。

アンティーク風のブローチを胸元にひとつ。素っ気ないようで、色も質感もきちんと選ばれている。


──そういう装いが、他人にどう見られるかより、自分に“しっくりくるか”で決めている。

そんな彼女の流儀は、詩織自身も少し気に入っていた。


「してません」


「ほんと? その洗い方、明らかに“心に余白があります”って感じだけど」


「詩織さん、今日は僕で遊びたい気分なんですか?」


「さあ、どうかしら。……でも怜には、言いたくなるのよね。からかうと面白いから」


カウンター越しに身を乗り出す詩織の目には、からかいと、もうひとつ、微かな観察の光が混じっている。

大人の余裕──というより、大人の“体温のある洞察力”。




(でも、あの頃は──)


ふと、記憶の底から小さな影が立ち上る。

怜が初めて詩織のもとに預けられたのは、彼が十歳のとき。

母親の紗英が出張に出ていて、生活力に欠ける父親・鷹彦では心もとなく、しばらくのあいだ詩織が引き取ったのだった。


あのときの怜は、妙におとなしく、よく空気を読んでいた。

食事の時も、寝る前も、何かを聞けば「うん」か「大丈夫」。

言葉に乱れはないのに、いつもどこか、自分を包む“ヴェール”の向こうにいた。

けれどそのヴェールは、周囲の期待に合わせるために自分で選んでかぶったものだと、詩織には、なぜかすぐにわかった。


(……だから私は、なるべく何も言わずに一緒にいた。

この子が、どこまで自分で輪郭を作ろうとしてるのかを、見ていた気がする)


そんな昔の記憶を思い出しながら、詩織はふっと笑う。




「……まあでも、あの子、よかったわね。あんなふうにちゃんと、顔が晴れて」


「えりかさんのこと、見てたんですか」


「そりゃあ。女の子ってのは、目の端でいろんなものを見てるの。特に、誰かが誰かを“ちゃんと見た”あとの顔って、すごく変わるものよ」


怜は、一瞬だけ黙って、手元の作業に戻る。

そして、ぽつりと呟くように言った。


「……僕も、そう思いました」


詩織はその声に、ふっと笑う。


「いいわね、若いって。ちょっと光をあてるだけで、ちゃんと芽が伸びる。……あんたも、ちょっと伸びたんじゃない?」


「……なんですか、それ」


「褒めてるのよ、いちおう」


水音は、静かに流れていた。

洗い場に立つ怜の手元から、控えめな音が、絶え間なく生まれては消えていく。

リュールの午後はまた、ゆるやかに流れ出す。

詩織はそのなかで、怜に気づかれないように、そっと目を細めた。




──変わっていくのは、悪くない。

けれど、その変化を誰が見てくれるかで、きっと意味は変わる。


そして今、怜の変化を見ていたのは、詩織自身だった。

 

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