時速150キロの悪意 〜高速道路を走行中、運転席に座るおれの幼馴染が突如暴走運転を始めた!彼女が囚われた狂気の正体は?〜
ETC専用の”時速20km以下に減速”の標識が掲げられたゲートを通過すると、おれの乗っているこの車は一気に速度を上げながら、加速車線から本線に滑らかに合流した。
「よくこんなにスピード出しながら合流なんてできるよな。周りの走ってる車にぶつからないか、怖くないのかよ」
助手席に座るおれは、隣の運転席でハンドルを握っている幼馴染の綾乃のほうを向いた。黒のタートルネックに薄い黒の上着を羽織っている、おれより一歳歳上の綾乃は、半年前に専門学校の夏休みの間に自動車学校で会得した車の運転スキルを十二分に発揮しているようだ。
「慣れだよ、慣れ」
綾乃はフロントガラスに映る光景から目を逸らさないまま、得意げに学ラン姿のおれに返事をした。
「それにおどおどして、恐る恐る進入するほうがよっぽど危ないし」
すでに何度もこの車を使って遠出しているという綾乃は、当然のことのように言ってみせた。普段この車は綾乃の父親が使っているものらしく、自分の娘のために父親は改めて綾乃のぶんの自動車保険をこの車に登録し直したそうだ。
「じゃあおれは車の運転に世界一向いてない人間かもな。おれにそんな度胸はないよ」
「弱気だなあ、凪斗は」
綾乃がそう言ってケラケラと笑うと、彼女の長い髪が軽く揺れ、最近入れたというブルーのインナーカラーがちらりと見えた。カーナビと無線通信で接続されている綾乃の携帯電話から再生中のラジオ番組の音声が、カースピーカーを通してこの四人乗りコンパクトカーの中で響く。
「これはものの例えなんだけどね」
綾乃が口を開いた。
「あした凪斗が大学で受ける試験の内容を、高校に入る前の凪斗が解けると思う?」
「ものによるだろうけど、解けない問題の方が多いかもな。で、それが車の運転とどう繋がるんだよ」
「つまりさ、高校に入る前は絶対解けないって思ってた問題が、高校で勉強した結果解けるようになったっていうのと同じように、自動車なんて運転できないと思ってる今の凪斗が、自動車学校に行って車の運転を習って二ヶ月もしたら、ちゃんと運転できるようになるかもしれないってことだよ」
「なるほど、それは一理あるな」
綾乃の言葉に、おれは軽く頷きながら返した。
「でしょ?」
「でも地元の学校に通ってる綾乃と違って、公共交通機関が充実した東京の大学に通うおれに、自動車の運転スキルを身につけたり、自動車学校に通う必要はないと思うね」
「よく言うわ。明日の試験でしくじれば浪人確定なのに」
綾乃は呆れたように言った。
「浪人確定じゃない。滑り止めだっていくつかもう受けてる」
「じゃあ少なくとも路頭に迷うことはないわけ?」
「結果がまだ来てないから何とも言えないけど。でも自己採点は悪くなかった」
「だとしてもその場合東京の大学に進学する道筋は途絶えるわけだ。そうなったらちゃんと自動車学校に通わないと。地元で車なしの生活は大変だよお」
「いまから試験に落ちた前提で話をしないでくれるかな」
おれがため息をつくと、綾乃は時速百キロメートルまで加速したこの四輪車を操縦しながら「あはは」と八重歯をちらりとみせて笑った。
「ごめんごめん。でも受かるといいね、明日の試験。それにもし凪斗が東京で暮らし始めたら、今回みたいにあたしがイベント目当てで東京行く時も、凪斗の借りてる部屋を宿代わりにしてホテル代節約できるし」
「タダで泊まる気満々かよ」
おれは苦笑して、目線を隣にいる綾乃から、道の先に掲げられている案内標識に目を移した。東京まであと三百キロメートル。まだまだ遠い。
いまおれたちはカーナビの案内に従って東京に向かっている。おれは東京の大学を受験するため、綾乃は遊びに行くために。
もともとこの受験旅行は、おれひとりが新幹線で向かってビジネスホテルに泊まり、翌日筆記試験を受け、そしてまた翌日に面接を受けて、その後少しだけ観光してまた新幹線で帰るというひとり旅の予定だった。
そこで出てきたのが綾乃だった。
おれと綾乃は家が隣同士だが、高校はそれぞれ別のところに通っていた。おれは自転車で片道三十分ほどの公立高校で、綾乃は家から電車で片道一時間ほどのところにある私立高校。全く違う場所だ。しかもおれは塾があって放課後遊びに出る時間もないので、ここ数年は綾乃とはほとんど顔を合わせる機会がなかった。
だからまあ、当然、最近どうしているのかお相手の近況も知ることもなかった。
状況が変わったのは去年、綾乃が専門学校に進学して向こうの生活サイクルが変わってからだ。おれが朝学校に出かけるときなど、たびたび家の前で顔を合わせるようになり、お互いにメッセージアプリのIDを交換してやり取りするようになったのだ。
今回の東京行きの一件も、夜中に綾乃と電話をしていた時に出た話だ。
一週間前、おれが受験で東京に行く話を綾乃にすると、綾乃はちょうど自分も東京で好きなアニメのイベントがあるので行きたいと思っていたと話し、もし自分と一緒に東京まで車に乗っていけば、本来おれが乗る予定だった新幹線のチケット代が節約できるのではないかと提案してきた。そしておれが親からもらうことになっていたそのチケット代を着服して、お互い山分けしようと。
おれはそのアイデアに乗り、秘密裡にこの計画は進められた。ホテルで一緒の部屋に泊まることも考えたが、さすがにそれは止めて別々の部屋を予約することにした。だいいちおれの泊まるホテルの予約をするのは、クレジットカードが使える母親なので、ふたり部屋を予約するよう頼めるわけがない。言ったら目当てのチケット代を手に入れ損なう。
というわけで、今ごろ母親はおれが新幹線に乗って東京に向かっているものだと思い込んでいるはずだ。そして使われるはずだったチケット代は、いまおれの財布の中に使われないまま入っていていて、東京に着いてから成功報酬として綾乃と山分けすることになっている。運転するのは向こうなので、その分割り増しで。
現在時刻は午前十時少し過ぎ。ここから目的地である東京のビジネスホテルへ車で時速百キロで向かっていることを考えると、到着するまで少なくともあと三時間、そこからさらにサービスエリアで休憩したり、高速道路から降りた後のことや渋滞に巻き込まれる可能性も含めれば、実際の到着時刻は午後三時から三時半頃というところか。チェックインの受付開始時刻が午後三時からということを考えると、ちょうどいい頃合いだ。
「サービスエリアはどこ寄る?」
車のハンドルを緩やかなカーブに合わせて軽く捻りながら綾乃が言った。スピーカーから流れるラジオの音声にぼんやりと耳を傾けていたおれは、綾乃のほうを向いた。
「ご飯休憩とかさ。せっかくだから大きいサービスエリアにして、フードコートに行ったついでに今晩ホテルの部屋で食べるお弁当とか、お土産屋さんで家に持って帰る用のお菓子とか買ってこうよ」
「それは帰りでいいんじゃないかな」
ラジオを聴きながらおれは深く考えずに返事をした。
「そう? 上りと下りでサービスエリアの中身って違うしさ」
「お土産のラインナップがそんなに違うことあるか?」
「ま、いいじゃない。ゆっくり行こうよ。試験は明日からなんだし」
「今日はホテルの部屋で、最後の予習をしようと思っていたんだけどな」
「ダメだよ。今日は勉強もほどほどにして、リラックスして早く寝なきゃ。寝不足でミスを連発して点数落としまくって、それで試験も落ちしたりしたら、目も当てられないじゃん?」
「まあな」
考えうる限り一番間抜けな結末だ。勉強不足が原因のほうがまだマシだ。
「そんなに不安なら、ここで参考書読んだりしたら? 赤いシートで答え隠すやつなんか使ってさ」
「それは無理。車の中で携帯見るだけですごく酔うタイプだから」
「んー、じゃあ止めとこっか」
そこまで話すと、車は山を掘って造られたトンネルの中に入った。綾乃はハンドルを軽く握りながら、指先を軽く開いたり閉じたりを繰り返して弄んでいる。壁面に等間隔に付けられているライトが飛ぶような速さで過ぎ去っていく。あまり長いトンネルではなかったけれど、暗がりから外に出た時、目に射す光が少し痛かった。
「大学が終わったらこっちに戻るつもりはないの? Uターンとか、そういうので」
トンネルから出て目が光に慣れたあたりで、綾乃が訊いてきた。おれは「うーん」と唸った。
「どうかな。まだぜんぜん見通しは立ってないんだけど」
「凪斗は将来何になりたいとかないの?」
「判らないな」
おれは腕を組んだ。
「結局のところ明日受ける大学も、先生や周りの人たちに大変だけどやってみろって言われて、模試でB判定まで行ったから挑戦することにしただけだし」
「ふーん。さすが、出来杉くんのコトバは違うねえ」
「出来杉くん……」
おれはそう呟いて、綾乃の言っているのがドラえもんに出てくる彼のことだと理解した。
「昔は学校が終わったら、あたしの家で日が暮れるまで一緒にマリオパーティしてた仲なのにね。どこで差がついたのかな」
そんなことあったな、とおれは物思いに耽った。
綾乃の家の、綾乃の部屋で夕日の差すなか、おれと綾乃のふたりしかいなかったあの空間で、一緒にテレビ画面に向かってそれぞれゲーム機のコントローラーを握り、画面に表示される展開に笑ったり叫んだり大騒ぎしながら、綾乃の母親に早く家に帰るよう声をかけられるまで、時間を忘れて過ごしていた、穏やかで心地よい過ぎ去りしあの日々……本当に遠い昔のように感じられる。
最後にゲーム機に触れたのは何年前だろうか。中学三年の高校受験の頃から、ゲームとは縁がなくなってしまった。それに綾乃の家のあの部屋に最後に足を運んだのも、もう何年前のことだろうか。
おれは綾乃の横顔を眺めて、記憶の中にある過去の綾乃の横顔と較べようとした。あまり変わっていないような気がする。
いつだっておれにとって綾乃は少し大人びた感じの女性で、それはいまでもあまり変わらない。強いて言えば、髪を少し染めたことと、メイクをして目の周りにシャドウが入り、全体的に彫りが深くなったようにみえる、といったところか。
背丈はおれのほうがすこし高くなったが、それでもいつも落ち着いた物腰で、それでいてどこか茶目っ気を含んだ雰囲気を身に纏う綾乃と同じ高さでいるためには、ほんの少し背伸びをしなければいけないような、そんな気がしてならない。
「凪斗と一緒に遊ばなくなったの、いつ頃からだっけ」
綾乃は少し寂しげな顔をして言った。おれは頭の中の記憶を辿ろうとした。
「いつだったかな。小学校の、高学年になったあたり?」
「歳上のお姉さんと一緒にいるのが恥ずかしくなっちゃった?」
綾乃はニヤニヤしながらこちらを一瞥した。
「いや、塾に通い始めて遊びに行く暇がなくなっただけ」
「あっそ、つまんないの」
おれの現実的な返答に、綾乃は失望の色を隠そうともしなかった。だけどおれとしては正直、図星なところもあった。歳上の女性といることが、男子小学生にとってどんなに気恥ずかしいことか。学校でクラスメイトの女子と少し話しただけでも、男友だちに揶揄われる対象になったというのに。
「まあ、同い年の友だちとの付き合いもあったから、っていうのもあるけどさ」
おれは言い訳をするように言葉を付け足した。しかし綾乃はそれを察したのか、「ふーん」とこちらに訝しげな眼差しを向けてきた。
「で、塾は自分で行きたいって言ったの?」
「母さんに行けって言われたんだよ。みんな通ってるからって」
「おばさん、意外と教育ママなところあったんだ」
綾乃は視線をフロントガラスの外側に戻した。
「綾乃は塾行ってた?」
「行ってない。めんどくさかったから。こういうところで差が出たのかな」
「後悔してるのか?」
「さあ、どうだろ。別に今の生活に不満があるわけじゃないしさ」
綾乃が通っているのはデザイン系の専門学校だ。詳しくは知らないけれど、パソコンのソフトを使った絵の描き方について勉強しているらしい。将来的にはそれを活かして、デザイン会社や、できればゲームの制作会社に就職できればと思っているらしい。
「それならそれでいいんじゃないか。綾乃はやりたいことがあって今の学校に行ってるんだろ」
「そんな立派なもんじゃないよ。あたしは勉強が嫌いで大学受験とかしたくなくて、でも学校には行ったほうがいいって親とか先生が言うからどうするかって、じゃあ絵はそんな上手くもないけど、描くのは好きだからって、消去法で今の学校選んだだけだし──」
「でもおれは憧れるな」
おれは思わず綾乃の言葉を遮って言った。
「おれは絵を描くとか、そういうのをやりたいと思ったことがないし、出来るとも思わない。美術の授業なんか大っ嫌いだったし」
「あたしも美術の授業は嫌いだったよ」
背もたれにも身体を預けていたおれは上体を起こして、綾乃のほうを見た。
「そうなの?」
「ほら、鉛筆や絵の具で紙に絵を描くのって、iPadで描くのと違ってボタン押すだけで巻き戻しとかできないじゃん? ミスってもサクッと取り消せないから、もうフラストレーションが溜まって」
「ああ、それは判るかも」
原稿用紙や解答用紙に手で文章を書くのと、携帯で文章を入力するのとでどっちが楽なのかということと同じ話だ。
「でもなによりキツいのはさ」
綾乃は声の大きさを少し落とした。
「近くの席にいた、大して仲良くない人たちがあたしの描いた絵を見て、絵上手いねとか、上手だねとか言ってきたことかな」
そう語る綾乃の顔に照れだとか、そういったものはなかった。綾乃は氷のように冷たい表情で淡々と話を続けた。
「あたしの絵なんて大して上手くもないし、そもそもあんた誰? って。だからってそんなこと面と向かって言えるわけないし、向こうは褒めてるつもりで言ってるわけだから、いちおうありがとうって言ったけど、そうやって無理やり取り繕うのが余計体力使って、ストレスで、疲れる」
綾乃はそこまで一気に言うと少しだけ黙って、吐き捨てるように短く言葉を続けた。
「だからあたし、美術の授業、嫌い」
それを聞いて、おれは喉の奥に鉛のように重い塊が沈み込むような感じがした。
こんな綾乃の姿を見たのは初めてだった。おれは綾乃にとって、触られたくないものに触れてしまったのかもしれない。
おれに今の綾乃の感情を汲み取ったり、思っていることを完璧に理解することはできないけれど、少なくともおれが何かを言ったところで、綾乃が今まで感じてきた苦しみは癒せないということだけは判った。
どう返すべきか散々悩んだ挙句、おれは口を開いて、絞り出すように声を発した。
「ごめん」
「いや、なんで謝るの」
「考えなしに憧れるとか言ってさ。無神経だったかもしれない」
「いいよ、自分を責めなくっても」
「でも」
「いいんだよ、凪斗にだったら」
綾乃はこちらをちらりと向いて微笑んだ。
「学校の人と違って、凪斗とあたしは古い付き合いだよ? 凪斗にだったら、あたし、褒められて悪い気しないからさ」
綾乃はおれに向かって、歯を見せてニカッと笑った。
「ならいいんだけど」
綾乃の表情がいつも通りに戻ったのを見て、おれは強張っていた肩のあたりの筋肉から、力が抜けたのを感じた。
「そういえばおれ、綾乃の描いた絵って見たことないな。今度見せてくれない?」
「絶対やだ」
綾乃はきっぱりとした口調で言った。
「どうして」
「見られたら恥ずかしくて死ぬ」
「なんで恥ずかしいんだよ」
「自分が描いた絵とか、自分で見返すのも恥ずかしい。駄目なとこばっかり目につくから」
「はあ」
おれには綾乃の言っていることがいまいち理解できなかったが、とりあえず心の底から嫌なのだろうなということは感じ取れたので、これ以上この話題について深追いはしないことにした。
「じゃあ、そうしとくけどさ」
おれは窓の外の流れる景色を眺めながら、少し落ち込んだ。
「おれ、綾乃のこと何も知らなかったかもしれない。幼馴染なのに」
「ここ数年はそんなに付き合いあったわけじゃないしね。逆に凪斗のほうは最近どんな感じ?」
綾乃にそう訊かれて、おれは少し困ってしまった。
「別にどうってことないけど」
「それが知りたいんだけどな。学校じゃどうしてるとか」
おれは「ううん」と唸った。
「基本勉強かな」
「そりゃ学校なんだからそうでしょ」
「強いて言うなら最近はみんな、ちょっとピリついてる雰囲気だな。夏休みのあたりからずっとそんな感じだけど、今年に入ってからは特に。もう進路決まったやつもいるけど、おれみたいにこれから二次試験って奴が多いから」
「二次試験って? 追加募集の枠のこと? ならみんな焦るわけだよね、ここで受からなかったらアウトなわけだから」
「いや、共通テストが終わって、その次の大学ごとにやる二段階目のテストのことだけど。後期日程の話じゃない。綾乃、二次試験のこと、知らないのかよ」
おれがそう言い返すと、綾乃は「ああ、うん」と声を漏らした。
「そう、知らなかったんだよ。あたし専門学校で、共通テスト受けなかったからさ」
「ああ、そうか。でも周りに大学行く奴はいなかったのか? 友だちとかでさ」
「……あたしの周りにいなかったな、そういう人は」
「ふうん」
みんな綾乃みたいに専門学校や、あるいは二次試験のない大学に進んだり、進学せずに就職したかのどれかということか。
「おれの場合だと友だちでも結構いるからさ、二次試験受ける奴。共通テストの自己採点の結果がちょっとマズくて、志望校を文字通り泣く泣く変えた奴もいるし、そうじゃなくてもやっぱり本番が近づいてくると、誰でも不安にはなるし……これまで楽しいこととか色々我慢して死ぬほど勉強してきたのが、ちゃんと報われるのかって。だからさ、愚痴を言い合ったり本番は頑張ろうってお互い励まし合ってる。やっぱり一人で悶々とするのは辛いからな。辛いのは自分だけじゃないってだけで、少し気が楽になる気がする」
「そう」
「あと同じ塾の奴でひとり、おれと同じところ受ける奴がいる」
「へえ。じゃあその人、凪斗と同じくらい頭いいんだ」
「どうかな」
おれは頭を掻いた。
「模試でようやくB判定までいけたおれと違って、向こうはいつもA判定だったから」
「じゃあどうする? その子だけ受かって凪斗だけ落ちたら。目も当てられないよね」
「一番悲惨なのは、二人とも落ちるってパターンかな」
「確かに」
綾乃は「あはは」と小さく声をあげて笑った。
「でもいいんじゃない? 凪斗は滑り止め受けてるんだし、いっそのこと大学も地元の大学通ったら?」
「いいわけないだろ。一番ベストなのはふたりとも受かることなんだから」
「その子も明日同じ試験を受けるの?」
「そう。明日の朝は大学の近くの駅で集合する」
「あさっての面接も?」
「そう」
「ふうん」
綾乃は素っ気ない返事をした。
「試験の終わりがいつ頃になるか判るかな」
「日程表は受験票と一緒に送られてきたからだいたいは判るけど、なんで?」
「いやね、試験終わってから、いつあたしと合流するかなって。それ次第であたしの東京観光のスケジュールも変わるし」
「ああ、なるほど。でも……」
おれは座席の手すりに膝を乗せて、頬杖をついた。
「一日目は夕方まで試験があるし、終わったらすぐ電車に乗ってホテルに戻るかな。だから無理におれに合わせなくてもいいよ」
「でも晩御飯はどうする? ホテルの近くとか、あたしがどっか別のところで食べるところ見つけて、そこで一緒に食べるとかさ」
「夕食は……たぶん一緒に受ける奴と、試験終わってから一緒に食べに行くよ。お互い試験の答案を見て自己採点とかするだろうし。だから綾乃が気を遣うことないよ。ゆっくり行きたいところ見ていきなよ」
「そう」
車が再びトンネルに入った。暗くなった車内に壁面のライトの明かりが窓から差すたび、綾乃の横顔が現れては消え、現れては消えを繰り返し、それに合わせて彼女の口も開いたり閉じたりを繰り返す。
「じゃあ明後日の面接の後はどうしようか。午前中で終わるんでしょ? 一緒にどこか見てこうよ、浅草の雷門とか上野の動物園のパンダとか、池袋とか。軽く歩き回ってお昼食べて、そのまま家に帰るってのは」
綾乃がそこまで言ったところで車がトンネルを抜け、綾乃の顔がくっきりと浮かんだ。
おれはウインドウグラスの外に目を向けて苦笑した。
「試験が終わった後のことを、いま考える気にはなれないな」
「それもそっか」
綾乃のほうを見ると、彼女の切り揃えられた前髪がまつ毛のあたりまでかかって、目もとが少し暗くなっていた。
「でも帰りの日は何時ごろに合流するのか、ちゃんと合わせておかないと。いつ頃がいいか、帰りの日の朝にでも教えてくれればいいからさ」
「覚えとく。綾乃だけ帰って、置いてけぼりは困るしな」
お互い話したいことを一通り話し終えると、車内にはスピーカーから流れるラジオ番組の音声と、車の走行音だけが聞こえた。
出演者たちのトークに耳を傾けていると、不意にラジオの音声の再生が停止して、車内のスピーカーが無音状態になった。
「あれ、ブルートゥースの調子が悪いのかな──」
綾乃がそこまで言いかけたとき、スピーカーから大きなベルのような電子音が流れた。
「うわっ」
大きな音に驚いた綾乃が声をあげて、身体をびくっと震わせた。おれも唐突に再生された音に目を丸くすると、カーナビの画面に十桁近くの数列と共に”着信中”という文字、そして赤色と青色で描かれた受話器のアイコンがそれぞれ一つずつ表示されていた。
ハンズフリー通話だ。カーナビと接続している綾乃の携帯にかかってきた電話が、カーナビで応答できるようになっているのだろう。
「ビビっちゃった……慣れないんだよね。これ」
驚かさないでよ、と綾乃が口をこぼした。
電話番号の隣に表示された発信元を確認すると、そこには意外な名前があった。
「母さんからだ」
「ほんとだ、おばさんからじゃん。どうしたんだろ」
おれは苦い顔をした。
「綾乃、母さんと電話番号交換してたのかよ」
「しちゃ駄目?」
「駄目じゃないけどさ。でもマズいな」
母さんは自分の出した金でおれが新幹線に乗っていると思ってる。おれがこの車に乗っていることが知られるのは、チケット代を着服しようとしているおれたちの計画が露見することになる。どうしたものか。おれは綾乃に目配せをした。
「ま、とりあえず出よっか。凪斗がいることは黙ったほうがいい?」
おれの意図を汲み取って、綾乃が言った。おれは頷いた。
「いちおう、現在進行形で母さんを騙してるところだからな」
「判った。あたしも共犯だしね」
綾乃が”応答”を意味する緑色の受話器のボタンを押して「もしもし」というと、スピーカーから粗い音質で『綾乃ちゃん?』と母さんの声が聞こえてきた。
「久しぶりです。おばさん」
『良かった、綾乃ちゃん! 元気にしてた?』
「ええ、おかげさまで」
『いま車に乗ってる?』
「ええ。どうしてそれを?」
『声がちょっとエコーしてたから、もしかしてって思って。携帯をカーナビに繋いで電話してると音がそうなるの。それに綾乃ちゃん、いま東京に行ってるって、さっき家の前で綾乃ちゃんのお母さんから聞いたから』
やばいな。おれは綾乃のほうを見た。綾乃の母さんはおれが一緒に車に乗っていることを知っているだろうか。だとすると母さんにそれも知られることになる。
おれはまた綾乃のほうに目配せした。すると綾乃は小さく頷いて微笑んだ。自分の母親には話してないってことだろう。おれはほっと胸を撫で下ろした。
「そうですよ。まだ高速に乗ったばっかりですけど。でも、急に電話なんてどうしたんですか」
『ええとね、実はいま凪斗も受験で東京に向かってるところなんだけどね』
おれはそれを聞いて思わず吹き出しそうになった。綾乃もおれと同じようで、顔の筋肉を強張らせて、笑いそうになるのを堪えているようだった。
「へえ、そうなんですか」
まるで知らなかった、という綾乃の態度におれはくすくすと小さく笑った。お母さん、あんたの息子はここにいるんだぜ!
『綾乃ちゃん、東京から帰るのは明後日だってね』
何も知らない母さんはそのまま話を続けた。
「ええ。明後日の午後に。夜には帰れるんじゃないですかね」
『凪斗もね、明後日の午後に試験が終わってから帰るの。それで、もし良かったらでいいんだけど、帰りに凪斗を車に一緒に乗せていってもらえないかな』
おれはきょとんとした。綾乃も同じらしい。
「凪斗を、ですか?」
『うん。混んでる新幹線に乗って帰るより、綾乃ちゃんと一緒に車に乗って帰るほうが、気が休まると思ってね』
おれは綾乃と顔を見合わせた。母さんはそのまま話を続ける。
『それとね、凪斗に持たせた帰りの新幹線代は、ふたりでどこか遊びに行くのに使ってほしいんだ。あの子、試験で疲れてるだろうし、それにいままで勉強ばっかりで……たぶん行きたくない塾にも通わせちゃったから、お疲れ様、ゆっくり観光してきてねって、そういう意味でね』
母さんのその言葉を聞いて、おれは不覚にもじんと来るものがあった。
受験勉強のストレスで母さんたちに不満を抱いたことは一度や二度ではなかったけれど、それでも今の話を聞いただけでそういった感情は、風に吹かれた砂のように綺麗に吹いて消えていってしまった。
そして、今こうして母さんを騙して綾乃と車に乗っていることに、おれは少し罪悪感を覚えた。
「判りました。凪斗にはあたしがあとで電話をかけましょうか? 凪斗は今ごろ新幹線に乗ってる頃合いでしょうし」
『ありがとう。こっちでもまた今晩あたりに伝えるから。それじゃ、よろしくね』
「はい、また連絡します。それじゃ」
向こうが通話を切ると、スピーカーからは再生が止まっていたラジオ番組の音声が再び流れ出した。
「母さんにありがとうって言っとくべきだったかな」
おれは少し照れくさくなって言った。
「おばさんにこの車にいるのバレちゃうよ」
「だよな」
「それに、それは最後、合格発表が来るまで取っておいたら?」
「そうしとくよ」
きちんと受かれば、の話だけれど。だからってそれをわざわざ口にすることはあるまい。
「どうしようね、試験が終わったらどこに遊びに行こっか」
綾乃が気楽そうに訊いてきたので、おれはため息をついた。
「言ったろ、いまから試験が終わった後のことなんか考えられないって」
「そっか、そうだったよね」
「……でもさ。頑張るよ、おれ。試験が終わって、あと腐れなくすっきりした気持ちで東京観光できるようにさ」
「うん」
綾乃がおれに向かって微笑んだ。
「そうだ、帰りの日のことなんだけど」
ラジオ番組のコーナーが切り替わるタイミングで、おれは話題を切り出した。
「綾乃に頼みたいことがあるんだ」
「なにー? お金貸すとかは無理だよ」
「違うよ」
おれは綾乃の冗談に笑って返した。
「帰るときこの車に、おれと一緒に試験を受ける奴を乗せてって欲しいんだけど」
綾乃は最初、おれのした話の意味がピンと来なかったのか、ほんの少しだけ沈黙すると、次の瞬間「ああ!」と声をあげた。
「さっき言ってた、同じ塾に通ってる子のこと?」
「そう」
「その子もこの車に乗るって?」
「おれから誘ったんだ。向こうは行きが深夜バスなんだけど、帰りは一緒にしないかって」
「なるほどね」
「行き道は向こうとおれで家を出るタイミングが違うし、バスの乗り場まで親が送ったんで別々になったんだけど、帰りなら出来るんじゃないかって。といっても、綾乃が良ければなんだけど……」
「そうだね」
綾乃は「んー」と唸って、ハンドルの持ち手をコツコツと指先で叩いた。
「断る理由も思いつかないし、あたしはいいよ」
「ありがとう。あとで向こうにオーケー貰えたってライン送る」
「その子によろしく伝えて」
綾乃はドリンクホルダーに入っているペットボトルの麦茶を片手で取り、キャンプを外すためにほんの少しの間だけハンドルから手を離した。
「その試験一緒に受ける子、凪斗と仲良いの?」
ペットボトルに口をつけながら綾乃が訊いてきた。
「まあな」
「同じ塾って言ってたよね。学校は違うの?」
「ああ。一昨年だったかな? 向こうも高校に入学するタイミングで、親に入れさせられたんだってさ」
「凪斗と同じだ」
「そう。だから愚痴の話題も合う」
「いい友だちだね」
「友だちというより、正確に言えば──」
「正確に言えば?」
「彼女、だな」
「……は?」
短く発した綾乃の声が急に低く聞こえた。
車が山間部に入って気圧が低くなったせいで、耳の調子がおかしくなってしまったのか?
暖房を効かせて暖かくなっているはずの車内の空気が、急に凍りついたように感じた。車の走行音と、スピーカーから流れるラジオ番組でパーソナリティを務めている、男性声優の声だけが聞こえる。
「なに、いままであんた、自分の彼女の話してたの?」
「ああ、うん……」
「男友だちの話だと思ってた」
「ガールフレンドの話だよ」
「聞いてない、凪斗にそういう相手がいるって」
「それは……話す機会がなかったから」
「そう」
おれは少したじろいた。おれはてっきり、綾乃はおれに恋人ができたことを祝福してくれるものだと思っていたからだ。だが今の綾乃から、そんな言葉が出てきそうな気配はなかった。
おれは綾乃のほうを向いた。明らかにさっきまでの綾乃と、いまの綾乃は違っていた。
そのことにおれは本能的な恐怖を感じた。まるで龍の鱗にうっかり触れてしまったような、あるいは森の中で何か柔らかいものを踏んだと思ったら、それは虎の尾だったと気づいたのと同じように。
「それでなに? 凪斗はあたしがいるのに、彼女を作って、あたしがいることを隠して、あたしとずっとラインでやりとりして、挙句こうやってあたしと一緒に東京に行ってるってわけ?」
「落ち着けよ綾乃。どうしたんだよ」
おれは熱っぽく言葉を捲し立てる綾乃を宥めようとした。
「彼女に仲のいい女の幼馴染がいるのを隠してるって心配してるのか? 大丈夫だよ、彼女には綾乃のことちゃんと話してあるし。それに彼女も綾乃に一度会いたいって言ってて──」
「馬鹿にしないでよっ」
鋭く鞭打つような音が車内に響いた。
綾乃の息は乱れていて、彼女の肩はゆっくりと上下に動いていた。
「あたしの知らないところで、別の相手見つけて、あたしのこと、都合のいい女みたいに……」
綾乃がぶつぶつと呟き始めた。綾乃の意識は明らかに自動車の運転から、別のところに飛んでいた。
「なあ、本当に一体どうしたんだよ綾乃。今日の綾乃おかしいぞ」
綾乃は前のめりになってハンドルを握り締め、血管が薄く浮き出ている眼球の黒い瞳は、目の前の景色のどこか一点だけを注視しているようだった。
他のところは見えていない、というより目を向ける余裕さえないようにおれには見えた。綾乃が見ているのと同じほうを向くと、その光景を見ておれは反射的に声が出た。
「綾乃、スピードメーターを見ろ! スピードが出過ぎだっ」
スピードメーターなんか無くても、目の前の光景さえ見れば車が法定速度をオーバーしていることは誰の目にも明らかだった! そしてそんな車を動かしている人間がトランス状態に陥っていることが、同乗者にとって好ましからざる事態であることに疑いの余地はない!
首の根のあたりにいやな汗が流れ、身体の芯から寒気がするのと同時に頭が熱くなる。
おれの声が届いたのか、綾乃の身体はびくっと痙攣し、そして綾乃はおれのほうにゆっくりと首を回した。
「大丈夫、じゃない……ねえ、凪斗──」
「よそ見をするな! やばい! 前を見ろっ」
おれは綾乃の言葉を遮って、フロントガラスのほうを指さして叫んだ。目の前では高さ五メートルはあると思われる輸送トラックの荷台があと数メートルというところまで迫っていて、この車と激突する寸前だった!
「うわあああっ」
おれは両腕で顔を覆った。すると隣で綾乃が「つっ」と息を強く吸い込み、急ブレーキをかけた。
車が急激に減速すると、慣性の法則で前に投げ出されたおれの上半身はシートベルトできつく押さえつけられ、「うっ!」と喉の奥から呻き声が漏れた。
衝撃で頭が少しくらくらして前を向くと、トラックはこの車と接触することなく、何事もなかったかのようにそのまま遠く先へと離れていっていた。
どうやら最悪の事態は免れたらしい。バックミラーを見ると後続車はここから後方数百メートルほど離れていたので、幸いこの車の急な減速が他の車に悪影響を及ぼすことはなかったようだ。
しかしそれでも、地面には強く擦れたようなブレーキ痕がくっきりと表れていた。
時速四十kmほどに減速した車が再び加速する。おれは黙ったままアクセルを踏んで前方を睨みつけている綾乃の横顔を見つめた。お互い全力疾走した後のような荒い呼吸をし、汗をぐっしょりかいて、車内がその湯気で充満しそうなほどの熱を身体から発していた。
またトンネルに入った。蛍光灯の青白い光が綾乃の横顔を照らし、それを見たおれの胸をさらにざわつかせる。
トンネルを出て、おれは綾乃に声をかけようとした。
「綾乃──」
「駄目、いまは無理。リセットさせて」
おれが何かを言う前に、綾乃の言葉が被さった。
張り詰めた空気のまま、気まずい沈黙が流れた。
気がついたらラジオ番組は既に終わって再生が止まっていて、ブウーンというエンジンの駆動音だけが低く鳴っていた。綾乃のほうを見ると、相変わらず額からは汗が流れていて、その汗が伝った部分のメイクが浮き出ていた。
「ええと……近くのサービスエリアまであとどれくらいだ? そこで休憩しよう」
おれは綾乃の返事も聞かずにカーナビの画面に触れ、”SA”の表記がある場所を探した。
「サービスエリアじゃなくてパーキングエリアだったら、長篠設楽原PAが近いな。駐車場埋まってなきゃいいけど……」
おれは綾乃のほうを見たが、その横顔を見る限り、おれの言っていることが綾乃の耳に入っているようには思えなかった。事実、綾乃はおれの言葉に何の返事もしなかった。
「ラジオ、終わってたな」
沈黙が気まずくなったおれは、取ってつけたように話を切り出した。
「何か変えようか。テレビで何かやってるかな。いや、音楽にしようか。実は家からポケットWi-Fi借りてきたんだよ。何でも好きな曲落として聴ける──」
「車は貸せない」
綾乃はぎこちなく言葉を並び立てるおれの言葉を遮った。
「あんたの彼女とやらをこの車に乗せるつもりはないから」
綾乃はこちらと目を合わせようともしないで言った。ある種の決意を秘めたその横顔には、異論は認めないという意思を発しているように見える。
「……どうして」
おれは携帯を持つ手を下げた。
「どうして急にそんなこと言うんだよ……さっきはいいって言ったのに!」
愕然とするおれを尻目に、綾乃は淡々と言葉を綴った。
「最初からそうだって知ってたら言わなかった。その子、凪斗のことなんか何も知らないくせに。あたしのほうが凪斗のこと、ずっとよく知ってるのに。なのにあたしからあんたをぶん取った女をこの車に乗せるなんて……ましてやそんなのと馴れ合うなんて、絶対嫌!」
「さっきから何言ってんだよ、綾乃!」
綾乃はどうしてしまったんだ? さっきの暴走運転からだ。あの時綾乃は完全に憔悴しきって余裕を失い、我を失っていた。そのうえ、会ったこともないおれの恋人を拒絶するなんて! 何が綾乃をそうさせたっていうんだ?
「どうしておれの彼女のこと目の敵にするんだよ……会ったこともないのに! 本当に綾乃どうしちゃったんだよ!? 綾乃、そんな嫌なこと言う奴じゃないだろ!?」
「嫌なこと言う奴だよ、あたしは」
ぼつりと言う綾乃の目もとは前髪にかかって、暗くなっていた。
「違う。嫌なこと、口に出しはしないかな。だって言い出す度胸もないもん。いつも頭の中で抱えるだけ抱えて、嫌われるのが嫌で吐き出すことすらできない。いや、吐き出す相手なんていないや。それどころか嫌われたくない相手だっていやしないのにね」
いったいこいつは誰なんだ? よく知っているはずの人間がまったく知らない存在になっていくのを、おれはただ呆然と見ているしかできなかった。
「凪斗には知られなくなかったんだけどな。あんたの前では、いっこ歳上の頼れる、ちょっとお茶目なお姉さんでいたかったんだけどな……」
違う。こっちが”本物”の綾乃で、おれの知っている綾乃はその逆──虚像だったということか。
おれはさっき、同じようなものを見たことを思い出した。学校での美術の授業の話をした時の綾乃だ。
他者を拒み、自分の世界に誰かが土足で踏み入ることを何よりも嫌うあの綾乃だ。あの綾乃こそ、綾乃の本質だったというのか。
「おれは本当に何も知らなかったんだな。綾乃のこと、ちゃんと知ってるつもりだったのに」
おれは哀しかった。そして、今まで綾乃が抱えていた苦しみに気づけなかったことが悔しくて仕方なかった。いくらでもそのチャンスはあったはずなのに。小学生の頃でも、せめてまた綾乃と話すようになったこの一年の間でも、独りにさせずに済んだはずだったのに。
「今まで綾乃に無理をさせてたのなら謝るよ。だからさ、これからはおれの前でも自分らしくいてくれれば──」
おれがそこまで言いかけると、綾乃が見開いた目でこちらを向いてきた。
「自分らしく!? 自分らしくいたいわけないじゃん!」
綾乃は大きな声をあげて怒鳴り、言葉と一緒に飛び出る唾がおれの顔に降りかかった。
「根暗で友だちがいなくて、ダメダメでグズな自分なんか、好きなわけないでしょ!? だからあんたといるときだけは、本当になりたかった自分でいられたのに!」
綾乃が血走った目でおれを見る。自分が時速百十数キロで車を運転していることなんて忘れて!
「だから凪斗は変わらないでよ! 彼女なんか作らないで! あたしとずっと──」
「前を見ろ! 壁にぶつかる!」
おれは前を向いて、目の前のなだらかに湾曲している高さ約五メートルほどの防音壁を指さした!
車はいつの間にかまたスピードをあげていて、そのまま目前に迫る高い囲いに激突してペシャンコになるか、あるいはそれをぶち破って地上数十メートルにつくられたこの道路から落下し、結果的に地面に激突してペシャンコになるかのどちらかの結末が迫っていた!
「貸せっ」
おれは手に持っていた携帯をダッシュボードに放り投げ、運転席に身を乗り出してハンドルを掴んだ!
そしてハンドルを左回りに大きく回して進路を曲げ、防音壁を避けようとした!
しかし完全に避け切ることはできず、ガリガリッというボディが削られる音が車体のすぐ右側で聞こえ、車内にも小さな揺れが走った。
ようやく壁から離れると車は隣の車線に外れ、後ろから大きなクラクションの音が聞こえた。サイドミラーを見ると、すぐ後ろを白い四人乗り自動車が走っていたのがみえた。この車とも激突する寸前だったということか!
おれは息を荒立てながらもう一度前を見てハンドルを握り直し、道路に沿って車を走らせようとした。車の運転なんて当然したことがなかったので、どの程度ハンドルを回せば適切なカーブができるのか探り探りで加減を調節する。
小刻みにぐねぐねと妙な動きをしながらも、なんとか進路を安定させられたおれは、深く安堵の息を吐いた。
「ハンドル返すぞ……綾乃……綾乃?」
手もとを見ると、ハンドルにはおれの手しかなかった。綾乃は? さっきまで同じようにハンドルを握っていた綾乃の手は?
おれは後ろに振り向いた。すると綾乃はハンドルを手を離し、その代わりに両手には携帯電話が握られていた。それも自分の携帯ではなく、おれの携帯電話だった。ダッシュボードに放っていたはずのおれの携帯電話を、どうして綾乃が。
「何してるんだよ、綾乃」
おれが訊くと、綾乃はこちらに目線を向けた。
「手、借りるから」
「は?」
困惑するおれをよそに、綾乃はおれの右手首を引っ摑んでハンドルから引き剥がし、携帯電話のボタン部分におれの親指を押し当て、指紋認証で携帯のロックを解除しようとした。
「ちょっ、何するんだよっ」
おれは綾乃の手を振り解いて助手席に引っ込んだ。だが携帯を奪い返すことはできず、綾乃は片手で携帯を操作して画面を見ながら、もう片方の手で車のハンドルを握った。
「ふーん、可愛らしい名前だね。”なのは”なんて」
綾乃は手もとの携帯の画面を見ながら、薄ら笑いを浮かべた。
なのは──おれの恋人の名前だ。どこで知った? その携帯電話か? まさか!
「返せよっ」
おれは運転席に向かって両腕を突き出し、綾乃の手から携帯電話を引き剥がそうとした。
綾乃は彼女の名前をメッセージアプリか何かを開いて見つけたのだろう。彼女におかしなメッセージを送られる前に、携帯を奪い返さないと!
だが綾乃もハンドルを握っていた片方の手を離して携帯電話を摑み、おれに渡そうとはしなかった。この狭苦しい車内で大の大人がふたり、ちっぽけな板っ切れを巡って奪い合いを繰り広げていた。
「取らせない取らせない取らせない取らせない取らせない取らせない」
綾乃は歯をきりりと鳴らしながら、おれの携帯を自分の懐へ引き寄せようとする。
「あたしには凪斗しかいない! 学校も! 人生も! いままでも! これからも! だから行かせない! 東京にも! 別の女のいるところにも!」
「行かせないって、どういう意味だよ!」
まさか拉致でもしようってのか? 冗談じゃない! おれにはやるべきことが山ほどあるし、やりたいことも山ほどあるんだ! 幼馴染だろうが誰だろうが、それを邪魔なんてさせられるか!
前方を見ると、また目の前にカーブとそこに立てられたガードレールが迫っていた。そしていま、ハンドルには誰の手も握られていない!
おれは綾乃と目を合わせた。どちらかが携帯を手放せばハンドルを操作することができる。どちらかが諦めてハンドルを握らなければ、この車はガードレールを突き破り、その先の山肌へ転落する!
もはや事態はどっちが先に携帯から手を離すかのチキンレースとなっていた。そして、お互い自分から引くつもりは欠片もなかった!
だがはっきり言って、おれが一方的に不利な状況だった……ブレーキとアクセルを操作できるのは運転席にいる綾乃だけ。おれには何の手出しもできない。イニシアチブは向こうが完全に握っていた。
綾乃もそれが判っているのか、おれに向かって不敵な笑みを浮かべた。そしてガードレールはお構いなしに目前に迫ってきて、その先の崖へとおれたちを誘おうとしていた!
駄目だ! おれが引くしかない! おれが携帯から手を離そうとしたその時、甲高い唸るような音が後方から聞こえた。音のするほうに振り返ると、そこにはサイレンを発しながら赤いランプを点滅させる、白と黒で塗装された車の姿があった。
パトカーか! 助かったぞ! 思えば、今まで来なかったのが不思議なくらいだった。暴走運転を繰り返してきたこの車を、誰も咎めないわけがなかったのだ。パトカーの拡声器から男性の声が聞こえる。
『前方の車、直ちに速度を下げなさい。前方の車、直ちに速度を下げなさい』
拡声器からは、ていねいな口調で命令をする男の声が聞こえてきた。
綾乃は舌打ちをしながらも、警察に逆らうのは不味いと思ったのか、携帯電話を離して手をハンドルに戻すと、ブレーキを踏んで車の速度を落とし始め、カーブを曲がった。携帯を取り返したおれは、もう取られることがないようにと上着のポケットの中に入れた。
左隣の車線を走るパトカーと横並びになると、運転席の警察官と目が合った。ふたりいる警察官は両方とも男で、ひとりが初老の男性で、もうひとりは相棒よりずっと若くみえた。
『左側の車線に移り、路肩に停止しなさい』
拡声器のマイクを持った初老の警察官がこちらに指示をした。
おれはほっと息をついた。これから警察官による綾乃への事情聴取が始まるだろう。あとは全ての顛末を彼らに話して、おれの身を保護してもらえれば──とはいえ、どう説明したものか。
だがそこまでおれが考えを巡らせていた時、綾乃は急にハンドルを左に切って、左側を走るパトカーに体当たりをはじめた!
「馬鹿! やめろっ!」
運転席に身を乗り出して止めようとしたおれだったが、この車とパトカーが衝突した反動でおれの身体はシートのあるほうに吹き飛ばされ、窓に激突した。そしてワンテンポ遅れて窓にヒビが入ると、そのヒビは四方八方に大きく広がっていった。
『何をするんだっ、馬鹿な真似はよせっ』
パトカーから警察官の怒号が飛んできた。だが綾乃は聞く耳をもたなかった。
「凪斗は渡さないっ」
綾乃はもう一度パトカーに体当たりすると、そのままパトカーをこの車とガードレールの挟み撃ちにして、さらに外側へ圧力をかけていく!
『止めろっ、離れろ! ガードレールが耐えられない! 離れるんだっ』
その言葉が聞こえると、綾乃はハンドルを右に回してパトカーから車体を離した。
だが次の瞬間に綾乃はまたハンドルを左に切り、車を勢いよくパトカーと激突させた! ヒビの入っていた窓が完全に割れ、外からの風が凄まじい勢いでガラスの破片と共に車内に吹き込んでくる!
「うっ!」
おれは反射的にガラスが目に入らないように目を瞑った。だがそれでも顔面には細かい粒子が降りかかってきて、顔にあちこちに爪で引っかかれるような痛みが走った! 綾乃を止めたくても、いまのおれには痛みを堪えるだけで精一杯だった。
『止めろおおおっ』
バキン! と何かが大きく割れた音がしたあと、続いてガシャン! とさらに大きい音がすると、パトカーから発せられていた耳にこびりつくような悲鳴が、”ぶつっ”という雑音だけを残して突然途切れた。
ようやく目を開き、吹きさらしになった窓から顔を出して後方を見ると、長々と続いているガードレールの一部分がごっそりと地面から完全に剥がれてなくなってしまっていた。
その先には岩だらけの急な坂があり、その奥からドガーン! と空気が震えるような爆発音が轟いて、そこから火柱と煙が上がっていくのが見えた。
「そんな」
おれは窓から顔を引っ込めると、いまみた一連の光景に愕然とするしかなかった。あのパトカーに乗っていた人たちは? 助かったのか? 逃げられたのか? まさか! 逃げられるわけがない! 助かるわけがないんだ! ということは、つまり──
「……人殺し」
おれは隣にいる女に向かって言った。おれの発した言葉に、奴は微動だにしなかった。
どうしてこんなことになってしまったんだ。おれはただ、幼馴染の運転する車に乗っていただけなのに。
「これからどうするつもりだ」
おれはハンドルを握る綾乃に向かって言った。
「逃げるんだよ」
綾乃はさも当然のことのように言った。自分のせいで、人がふたりもひどい死に方をしたっていうのに!
「逃げよう。誰も行けない場所に行こう。誰の手も届かない場所に」
おれはもう、ここにいては駄目だと思った。
もし綾乃といっしょにいたら、あのパトカーを運転していたふたりのように、また誰かを傷つけることになる。警察だけではなく、普通の人々であろうと、綾乃は自分に邪魔立てする存在を躊躇うことなく傷つけるだろうと思った。
だったら、ここでじっとしているわけにはいかない。
でも、どうやって? 脱出のチャンスはありそうにもなかった。まさか次のサービスエリアで降りて休憩なんて、今の綾乃がするとは到底思えなかった。ポケットの中の携帯を使って、誰かに助けを求めるか──
「携帯で助けを呼ぼうなんて思わないで。無駄だから」
おれの考えを見抜いたように、綾乃がいった。
「もし怪しい素振りを見せたら近くの車を一台ずつ、さっきのパトカーみたいにクラッシュさせるから。車の中にいるのはどんな人かな。幸せな仲良し家族で、明日ディズニーランドに行くのが楽しみな子どもがいたりして!」
「……こいつ!」
おれは綾乃を睨みつけた。だが奴は憎悪を込めたおれの眼差しを意にも介さず微笑んだ。
「判ってるよ! 凪斗にそんなこと出来るわけないって! 自分が傷つくより他の人が傷つくことの方が嫌な、そんな子だって! だって幼馴染なんだもん! 幼馴染だからなんでもお見通しだよ! ぽっと出の誰かさんとは違ってね!」
無駄口を叩くこの女をおれは殴り倒してやりたくなった。だがそれで綾乃がおかしな真似をしたら? 無駄な抵抗をするべきじゃない。なんとか思いとどまったおれは、深く息を吸った。
どうする? どうすればいい? とにかく、何としてもこの女のもとから逃げ出さなきゃいけない。その為には何か思い切った方法が必要だ。おれは外から吹く風に当たりながら頭を冷やし、じっと考えを巡らせた。外から……外から……外……
おれは風の吹いてくるほうを見た。隣側の車線は空いていて、後ろを走行する車は見えなかった。
やるならこれしかない──おれはごくりと唾を呑んで、ドアのロックを解除した。
「ちょっと! 今何したの!」
ロックの外れる音に気がついた綾乃がこちらを向いた。おれはドアにあるレバーに手をかけた。
「まさか、この車から飛び出すつもり!?」
おれがレバーを引いてドアを少し開けると、車に風が吹き込み、空気を鋭く切り裂く音が聞こえた。前から吹く風の力が押し戻しているのか、開こうとするドアが重かった。
「バカなこと考えないで! いま時速百五十キロで走ってるんだよ!? ここから落ちたら無事じゃいられない!」
風の吹く音に紛れて綾乃の声が後方から聞こえる。おれは振り向かずにドアを完全に開いた。
何もかもが一瞬で過ぎ去ってゆく目の前の光景を目にして、心臓は未だかつてないほど激しく高鳴り、全身から汗が噴き出て、その上おれは吐き気がするほどの恐怖を覚えた。
「今すぐドアを閉じて! 凪斗は、あたしと一緒にいるのが嫌なの!?」
綾乃の掠れた金切り声が聞こえた。あまり大きな声を出すことに慣れていないのだろう。そしておれは声を震わせながらも、肺から思いっきり大きな声を出した。
「そうだな! おれたちは、お互いとっくの昔にお別れするべきだったんだよ!」
「凪斗はそんなこと言わない!」
綾乃は叫ぶと、片手でおれの肩を摑んだ。
「あたしの知ってる凪斗はいつもあたしについてきて、結婚の約束もしてくれた! だからあたし、ひとりぼっちでもずっと構わなかった! いつか誰か迎えにきてくれる子がいるって信じてたから!」
「そんな約束、いつの話だ!」
「凪斗が幼稚園生、あたしが小学生の頃!」
おれは綾乃のほうを向くと、鼻で笑った。
「そうか! 覚えちゃいないな!」
おれは肩に置かれた手を振り払うと、前を向いて車の外へ飛び出した。
床を蹴って車の外に飛び出た時、一瞬身体が宙に浮いたような感じがした。
だが次の瞬間にはアスファルトの模様が右から左へと尋常ではない速さで流れていくのが見え、おれは咄嗟に両腕で顔面を覆った。
最初の衝撃が来た次の瞬間にまた次の衝撃が来た。
ごつごつとした硬い地面に打ち付けられた身体は坂に落としたゴムボールのように何度も跳ねながら転がっていき、地面に叩きつけられるたび地面から剥がれたアスファルトの破片が手や後頭部に刺さり、分厚い学ランの布をも切り裂いた。たとえ服に覆われている部分であってもその下の肌ごと抉られ、さらにその下の骨や肉や内臓に至るまで金属バッドで叩きつけられたような激痛が走った。
あまりの痛みに声をあげそうになっても、雨のように降りかる衝撃はその余裕さえ与えてくれなかった。
ようやくそれが止んだとき、おれにはもはや声を発する気力さえ残っていなかった。それどころか息を吸ったり吐いたりするだけで、胸にナイフが突き刺さるような鋭い痛みが走った。
口の中に妙な味の粘りっこい液体が広がる。血だろう。口の中か、それとも喉か、そのさらに奥からか、どこから広がっているのかは判らなかった。おそらく全部なんだろう。
おれは瞼を開けて、目の前の景色を見た。すると後方から軽自動車がこちらに向かって走ってきていた!
轢かれる! 身を屈めようとしたが、軽自動車はクラクションを鳴らしながら急カーブをして隣の車線に移り、おれのすぐ近くを通り過ぎてそのまま去っていった。通り過ぎた時、こちらを突き飛ばすような強い風がビュウ! と吹いた。
過ぎ去った車が地平線の彼方へ去っていったのを見届けると、おれはほっと息をついた。結果はどうであれ、おれはあの女のいるところから逃げ出すことができたのだ──
だがその考えは早々と打ち破られた。
しばしの静寂ののち、またクラクションが鳴ったかと思うと、地平線の彼方から一台の車が姿を現したのだ。さっきまで乗っていたあの車が、フロントガラスをこっちに向けて! Uターンをしたあの車は道を逆走し、猛スピードでまっすぐこちらに向かっているのだ!
最初おれは車がこの近くまで来て停まり、おれを地面から拾い上げるつもりなのかと思ったが、車がスピードを落とす気配はなかった。
まさか、このままおれを轢き殺すつもりか? 地べたに這うおれからはフロントガラスの中の光景は見えなかったが、その内側から殺意が発せられているのが、何百メートルも離れたこの場所からでもはっきりと感じ取れた。
くそっ、早く逃げ出すんだ! だが傷ついた身体は言うことを聞かず、少しでも動こうとするたびに身体のあちこちから悲鳴が聞こえた。
痛みに耐えられず、おれはばたんと地面に倒れてしまい、這いずり回ることさえかなわなかった。
「畜生」
あまりの痛みに涙が目に滲む。もう諦めるしかないのか。車はもう数十秒もあればおれを踏み潰せるようなところまで来ていた。何かないのか。この絶望的な状況から逆転する方法は──
横を見ると、画面に蜘蛛の巣のような大きなヒビの入った携帯電話が目に映った。上着のポケットに入れていたのが飛び出したのだろう。それを見た時、おれの脳天に稲妻で打たれたような衝撃が走った。
そうだ! もしかしたら、この危機を切り抜ける方法が──
勝算があるかは疑わしかった。だけど、他に手は考えられなかった。このまま地面に伏して、運命をただ待つよりはマシだ。
おれは激痛が走るのを堪えながら少しだけ身体を動かして、携帯のあるほうに手を伸ばして震える指で携帯のボタンに触れた。ボロボロになった指に指紋認証は効かなかった。もどかしい思いをしながら、指紋認証が使えない時のための暗証番号を入力しようとする。
車の走行音が地面を伝って震えて聞こえてくる。車は変わらず猛スピードでこちらに迫ってくる。やはり綾乃はおれをタイヤで踏み潰すつもりなのだ!
暗証番号を入力すると、おれは携帯のホーム画面から電話帳を開き、綾乃の項目を表示させた。車の走行音がさらにゴオーッと大きくなる。
綾乃の項目から、綾乃の携帯に発信した。車はもうここからあと五十メートルのところまで来ていた! あとは電波が間に合うかどうかだ!
おれは覚悟を決めて目を瞑った。すると車のほうから突然大きな着信音が聞こえ、それに動揺したドライバーが手もとのハンドルを狂わせたのか、おれのいる数メートル手前で車は大きく急カーブした。
時速数百五十キロ以上で走行する車にその急旋回は耐えきれず、車体は大きくバランスを崩して横に倒れ、そのまま車から飛び出した時のおれのように何回も地面に激突しながら転がっていった。
そして最後には道を囲う遮音壁に激突し、その衝撃でエンジンルームの辺りからドゴーン! とオレンジ色の大きな火球が生まれた。
さっきまで乗っていた車が燃えながら鉄クズになってゆく。おれの耳もとには、パチパチという火の粉が弾ける音だけが届いた。
だがグググ、という低い軋んだ音が鳴ると、傷ついた車体のドアが開き、その中から大きな影が炎を纏いながらおもむろに現れた。影は、ゆっくりとこちらに向かってきた。それを見て、おれの背筋に、血とともに汗が流れた。
しかし影はおれのいる場所まで辿り着くことはできなかった。
影は力なく前のめりになって倒れると、そのままアスファルトの地面に這いつくばりながら痙攣を始め、そして炎に包まれたまま動かなくなってしまったのだった。
その一部始終を見届けると、おれは大の字になって仰向けになり、灰色の曇った空を見上げた。
心は痛まなかった。きっとあいつがパトカーを道から突き落とした時も、同じ気持ちだったのだろう。車からあがる煙やほかからあがる臭気が、この場所まで届いているのを感じた。
寒気がして、身体がぶるぶると震えた。きっと、外の冷たい風のせいだろう。防寒用に持ってきたコートやマフラーを、車に置いてきてしまったことにいまさら気がついた。今頃、あの車と一緒に焼けて灰になっているところだろう。
そういえば、あのマフラーは彼女からのプレゼントだったな──薄れゆく意識のなか、おれは一緒に試験を受けるはずだった彼女のことを考えた。彼女はおれと違って、ちゃんと試験を受けられるのだろうか。そして試験には合格するのだろうか。
「へ、へ、大丈夫だよ、なのは。だって、いつも模試の判定は、Aだったんだからな」
愛しの彼女の姿を肩から上まで思い描いたところで、おれの意識のなかの最後の糸はぶつっと途切れた。
この物語はフィクションです。