第7節『鏡の世界で蠢くもの』
今、リアンとカレンの二人は、鏡像世界に広がる2階の廊下を手術室に向けて駆けている。リアンの手にある端末上の2つの光点は、手術室に留まっていた。
「急いでください、カレン。シン医師とアブロード医師が手術室にいるということは、つい最近脳外科に移された人物、つまりマークさんの身に危険が差し迫っていることを示しているですよ!」
息を切らせながらリアンが言うが、ここはさすがの大病院、廊下は思いの外長かった。
「それはわかりますが、先生の言いつけを無視して、どうするつもりなのですか!?」
共に走りながらも、カレンはリアンを諌めようと懸命である。
「とにかく、まずは状況を先生にお伝えしましょう!戦力という意味でもその方がずっと確かです。」
しかし、リアンはそれに応えることなく、一心不乱に長い廊下を駆けていく。目前に迫るあの角を左に曲がった先に、件の手術室はあるのだ!リアンはその足に一層力をこめるが、朝からずっと魔法地図の監視を続けてきたその小さな体には、疲労の色が濃くのぞいている。カレンはそれが気がかりでならなかった。
角を曲がり、手術室へと続く廊下に出たところで、見知った後ろ姿に出くわした。
「あら、こんな真夜中にそんなに急いでどちらまで?」
聞き覚えのあるその声が不気味な音律を伴って二人に語りかけてきた。二人は足を止めてその背中と対峙する。
「あなたたち二人はまだ夜勤の最中のはずでしょう?さっそく職務命令違反とは、ずいぶんと大胆な不良を働く人達ですね?」
そう言うと、声の主はゆっくりと二人の方へ向きを変えた。その姿を目にして、少女たちは戦慄する。不気味に語りかけてくる声は確かに聞き知ったエヴリン師長のものであったが、その姿は見るもおぞましく変わり果てていたからだ。彼女は、アンデッドのように朽ち果てた身体に、瞳を失った白い目を不気味に輝かせながら、手には魔術動力で駆動する大きな鋸歯を携えていた。
*豹変した姿で二人の少女の前に立ちはだかるエヴリン・シンクレア師長。手元の魔術駆動式鋸歯がけたたましい音を立てている。
「仕事をほっぽりだして、こんな夜中にどこに行こうというのかしら?」
不安を突き上げるようなおぞましい声でエヴリン師長が迫ってくる。手にした魔術駆動式の鋸歯は、けたたましい音を立ててその刃を激しく揺すっていた。
「マークさんに何をするつもりですか?酷いことは許さないのですよ!」
リアンは毅然と言ってのける。
「あらあら、患者さんを大切に思うのはとてもいいことだけれど、与えられた仕事を放り出すのは感心しないわねぇ。病院ではちゃんと指示に従って仕事をしてもらわないと。」
そう言いながら、脅威の姿が二人との距離をじりじりと詰めてきた。
「や、やめるですよ。手術室で、あなた達がマークさんになにかしようとしているのはお見通しなのです。すぐにそこをどくのですよ!」
威勢ばかりはよいが、リアンの華奢な脚はガクガクと震えている。カレンもまた、全身を恐怖に支配されつつあった。
「何かしようだなんて、人聞きの悪い。私たちは医療従事者として、彼のために必要な治療をしようとしているだけですよ。さあ、わかったらならとっととここから出ていきなさい。」
唸り声を上げるその鋸歯を高く掲げてみせる師長。少女たちは恐怖に支配されていく。
「ち、治療のためにそんなものは必要ないのです。あなた達がやろうとしていることは許されないことなのですよ!」
そのか細い喉は懸命に声を絞るが、すっかり慄きの色が乗ってしまっている。心の動揺を必死に抑えてエヴリン師長と対峙するリアンだったが、もはや脚だけではなくその全身が震えていた。それをかばうようにしてカレンは身を乗り出す。彼女もまた、こみ上げてくる恐れの感情を必死に噛み殺していた。
* * *
「マークさんに危害を加えることは許しません!すぐにそこをどいてください!」
その威勢とは裏腹に、カレンの精神もまた、その大半を恐怖に囚われていた。
「まあ、患者さん思いで結構なことね。でもそんなに怯えて、あなたたちに何ができるというのかしら?心配しなくても、そのかわいい顔は傷つかないように残しておいてあげるわね。きっと先生方が存分に役立ててくださるでしょうから。さあ、怖いことはないから心配しないで。」
そう言って、師長は魔術動力で唸りを上げるその鋸歯を二人の少女に突きつける。
「痛いのはすぐに終わりますよ。うふふ、いい子だから大人しくして。」
諭しともなだめともつかない不気味な言い回しを繰り出しながら、師長は振り上げた魔術鋸歯を頭上から二人めがけて大きく振り下ろした。それは、魔術動力の唸りをあげながら、襲いかかってきた!
「危ない!」
カレンは、恐怖で立ち尽くすリアンの身体を横手に突き飛ばしてその上に覆いかぶさり、間一髪その無機質な暴虐をかわした。その鋸歯は床面に接して、激しい火花を立ち上げる。接合面はガタガタと不規則に振動し、腐敗したかのような師長の腕がその衝撃をいびつに受け止めていた。
「あらあら、治療から逃げるなんて、悪い子達ですねぇ。これではもっともっとお仕置きしなければなりません。」
更に、鋸歯を構え直す師長。リアンは震える手で『氷礫:Ice Balls』の術式を放った。その氷塊と破片はことごとく師長の身体を捉えたが、しかし損傷するのはその着衣ばかりで、彼女自身はびくともしていない。
魔法が効かない!その厳然たる事実が、少女たちの顔から瞬く間に血の気を奪っていった。
今度はカレンが出力を大きく調整した『(拡張された)帯電した雲:- enhanced - Thunder Clouds』の術式を放つ!薄暗い鏡像の世界に黒い雲が立ち込め、そこから発せられる紫色を帯びた稲妻が幾重にもエヴリン師長の穢れた身体を真正面から捉えた。その着衣は焼けただれ、引き裂かれるが、彼女はそれを意に介する様子もない。
刹那、唸る鋸歯が水平に彼女たちの眼前をかすめる!
カレンは、とっさに障壁を展開して、かろうじてその軌道を反らせることに成功したが、万一、あれに触れてしまえばひとたまりもない。全身に耐え難い恐怖の情が走る。カレンの足元で、リアンは小さくすくんでいた。
* * *
全精神を覆い尽くさんばかりに襲ってくる恐怖を、鋸歯の奏でる魔術動力の音が先鋭化する。眼の前の状況は少女たちにとって、まさに絶体絶命の危機であった。どう組すればいい?カレンは懸命に思案するが、師長はなおもそのおぞましい瞳に宿る輝きを強くするばかりだ。
魔法的でない方法が必要だ。何かないか?考えを巡らせるカレンの脳裏に一つの記憶が蘇った。これだ!
そう思い定めると、彼女は先日ネクロマンサーにもらった人為のロードクロサイトの短刀をローブのポケットから取り出して構えを新たにした。
「あらあら、そんな小刀でなにをしようというの?どのみちあなた方の魔法は私には効かないのよ。さぁ、あきらめてバラバラにおなりなさい。すぐに済みますから。」
不気味な笑みをたたえながら、師長が再び鋸歯を振り上げる。カレンは意を決して術式を詠唱した。
『現世に彷徨う哀れな死霊たちよ。法具を介して我と契約せよ。我がもとに集い、その身を刃となせ。怨念と怨嗟に形を与え、その恨みを存分にはらすがよい!武具憑依:Possessed Weapons!』
詠唱とともにカレンの周囲に白い靄が立ち込める。それは、彼女が手にする短刀の周囲に群れをなして集まり、やがてひとつの大きな刃を成した。ネクロマンサー直伝の術式だ!召喚術の熟練度に乏しいカレンの力では、冥府の門を開いてそこから強力な死霊を呼び出すということは出来なかったが、それでも、ネクロマンサーの教えてくれたことは十二分に機能したのである。
*ネクロマンサーが教えてくれた術式を実践して、強力な死霊の剣を形作るカレン。
カレンは今、死霊によって形作られた剣を手に、呪わしいエヴリン師長と相対している。
「まあまあ、小さいのに感心なことですねぇ。でもそんな急ごしらえの剣でなにができるというのですか?抵抗するほど苦しみが増すだけですよ。さぁ、いい子ですから大人しくズタズタに引き裂かれなさいな。」
そう言うと、エヴリン師長は、腰の位置に鋸歯を水平に構え直した。二人の間に一挙に緊張が高まっていく。
魔術動力の唸りを上げて師長の鋸歯がカレンに襲いかかる!下から上に薙ぎ払おうとするその歯をカレンは死霊の剣によって受け止めた。硬いもの同士がかち合う鋭い音がして、カレンと師長は鍔迫り合いをする。どうやらカレンの術式は成功しているようで、形成された刃は鋸歯との間に魔法的な斥力を生じていた。
打っては離れ、離れては打つ、そんな攻防が目まぐるしく続く!カレンにこんな力があったことは師長にも予想外だったようで、思うようにとどめを刺せないことに苛立ちを募らせているように見えた。
「あらあら、おいたの過ぎる子は嫌いですよ。とっととバラバラになりなさい!」
再度、師長が手にした鋸歯を大上段からカレンの頭上に振り下ろそうとしたその時だった!
『水と氷を司る者よ。法具を介して助力を請う。我が敵を凍りつかせ、その動きを封じよ。凍てつく氷と風によって自由を奪わん!氷柱による束縛:Icicle Bind!』
刹那、エヴリン師長めがけて吹雪と氷柱が幾重にも襲いかかり、それらが触れた箇所を瞬く間に凍りつかせた。師長は頭上に鋸歯を振り上げたままの姿勢で凍りつき、その自由を奪われている。術式を放ったのはリアンであった。
*術式を駆使して迫りくるエヴリン師長の動きを封じたリアン。
「カレン、今なのですよ!」
その声に合わせて、カレンは、死霊の剣を一気にエヴリン師長の胸部に突き立てた!
あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
呪わしくもけたたましい叫び声を上げて、エヴリン師長の頭上からその背中側へと鋸歯が落下した。地面に落ちてなおそれは機械的な回転運動を続け、刃と床の衝突点からはさかんに火花が飛び散っている。
カレンは突き立てたその刃を一度、一息に引き抜くと、今度は真横にそれを払って、エヴリン師長の首を切断した。その境界面は、血液を吹き出すでもなく、ただただ人工的で機械的な様相を晒していた。やがて、その身体を拘束していた氷が砕け、師長の体躯は前のめりにその場に突っ伏すと、それっきり動かなくなった。その背後では、なおも鋸歯が騒がしくのたうち回っている。
リアンが這うようにして近づき、その動力を切ると、ようやくあたりに深夜の静けさが戻ってきた。肩で息をしながらお互いを見やる少女たちは。カレンはリアンの手を取って彼女を立たせた。
「ありがとう、リアン。あなたのおかげで助かったわ。」
カレンが目元を緩める。リアンはふるふると顔を振って言った。
「とんでもないのです。やっぱり私は意気地なしです。怖くて震えが止まりませんでした。こんなことではだめなのに…。」
その美しい青い瞳は涙で濡れている。カレンはリアンの肩をそっと抱いて、声をかけた。
「怖かったのは私も同じですよ。リアンがいてくれなければどうなっていたか…。」
リアンは嗚咽をこらえながら、その濃紫の瞳を見つめている。
「でも、これからどうするですか?きっと先生にも叱られるのです。」
「そうね。それは覚悟しておかないといけません。でも、今はマークさんを助けるのが先決です。急ぎましょう。」
そう言って、カレンはリアンに急速魔力回復薬のアンプルを渡し、自分も1瓶開けた。その横で、リアンもアンプルをあおっている。やがて二人の身体に魔力が戻ったことを知らせる魔法光が灯った。
「怪我はないですか?」
「はい、なのです。」
「では、行きましょう。マークさんを助けに!」
二人は互いに力強く頷いてから、廊下を奥へと進み始めた。深夜の、しかも鏡像の中にある病院は不気味な装いを隠していなかった。まもなく二人の視界が手術室の標識を捉える。より大きな脅威がその先に待っていることは間違いのないことであろう。
* * *
手術室の扉を開けんとしてそれに手をかけようとしたまさにその時だった。扉は内側から開き、アブロード医師と思われる異形が姿を表したのだ。再び俄に緊張が高まる!
*一見してそれとはわからないが、アブロード医師の ID を身に着けた異形の存在。
「おやおや、お嬢さん方。こんな真夜中の手術室に一体なんの御用ですかな?」
アブロード医師の ID カードを身に着けた、その変わり果てた異形は、しかし確かに聞き覚えのある声で二人にそう語りかけた。
「あなた方が、マークさんに良からぬことを企んでいるのはわかっています。すぐに彼を解放してください!」
鬼気迫る声でカレンが言った。しかし、アブロード医師はそれを気に留めるでもなくへらへらと不気味な笑顔を浮かべている。
「おやおや、いけませんねぇ。今、この中ではシン医師がマークさんのために大切な治療の準備をされているのですよ。それを邪魔しようというのは、感心しませんねぇ。アカデミーというのは不良の集まりか何かなのですか?」
気味の悪い物言いが響いてくる。
「あなたと問答する気はありません。早くそこをどいてください!」
「どけといわれてどく馬鹿はおらんでしょう。私はシン医師がきちんと仕事をできるように環境を整えなければなりません。それに、師長の仇討ちもせねばなりませんしな。」
そう言うと、アブロード医師は廊下の少し離れたところで息絶えているエヴリン師長の亡骸に視線を送った。
「まさか、あなた方のような年端もいかない小娘がエヴリン師長を退けるとは。これまさに油断大敵ですな。私も心してかからねばならぬでしょう。」
そういうと、アブロード医師は不気味な術式の詠唱を始めた。
『呪われし者どもよ。汝らに再起の機会を与えよう。死せる体躯に刹那の魂を宿せ。我が元に集い、その努めを果たすがよい。呪いの召喚:Summon of Curse!』
詠唱が終わるや、他には誰もいなかったはずの鏡像世界の廊下に、複数の足音が聞こえ始める。その一つ一つは緩慢で、薄気味悪い湿気を伴っており、それは幾重にも重なって、少女たちの背後から迫ってきた。振り返ると、生ける屍と思しき大群がゆっくり、ゆっくりと距離を詰めて来ている。
*アブロード医師が老化中に召喚した生ける屍と思しき異形の群れ。
「それでは、これで。私にはまだ仕事がありますので…。」
そう言うと、アブロード医師は手術室の中に消えていった。びしゃりとその戸が閉まる。
そうこうしている間にも、生ける屍の群れはどんどんと二人に近づいてきた。意を決してそれらと対峙する少女たち。
最初に動いたのはリアンだった!
「カレン、私はこいつらの動きを止めるですよ!その隙に撃退してください。」
リアンは自分の頭に美しい氷の法石をあしらったリボンを結ぶと、詠唱を始めた。
『水と氷を司る者よ。法具を介して助力を請わん!あらゆる生命の波動を凍りつかせ、その昂ぶりを沈めん。冷たきは癒やしにして魂の救いなり。氷の鎮魂歌:Icy Requiem!』
リアンの手から、猛烈な吹雪が巻き起こり、それは瞬く間に不浄の廊下を覆い尽くしていく。あたりの気温が急激に下がり、ゆっくりと蠢くその行進は一層緩慢になった。
*『氷の鎮魂歌:Icy Requiem』の術式を行使するリアン。
やがて、その動きのほとんどが止まる!それは、水と氷の禁忌術式である『絶対零度:Absolute Zero』の効果を敵性勢力だけに限定したようなものであったが、集団の動きを止めるという意味では劇的な効果があった。しかしその効果の大きさに比例して詠唱者にも相当の負担があるようで、リアンは喘ぎながら、その場に膝をついた。それでもなお、その美しい水色の瞳は、目前で凍りつく死人の群れをまっすぐに捉えている。リアンは、水と氷の魔法が屍相手には効果が薄いことを知っていて、あえてその動きを封じることに全力を投じたのだ!
「カレン、今なのですよ!お願いします!」
その言葉を受けて、今度はカレンが詠唱を始めた。彼女の手には、ネクロマンサーから受け取った人為のロードクロサイトの短刀が握られている。
『現世に漂う哀れな霊の残滓よ。法具を介して我と契約せよ。我が呼び声に応えるならばその彷徨える魂に仮初の影を与えん!(拡張された)魂魄召喚:- enhanced - Summon of Ghost(s)!』
カレンは、教わったばかりの召喚術式を大出力で行使した!
あたりは一層暗くなり、その闇の中から複数の死霊が姿を表す。それらは、数も質もネクロマンサーが召喚するものとは比べようもなかったが、しかし、その瞳と口元におぞましい魔法光を滾らせたまごうことなき死霊の群れで、大型のカラスにフードを被った人の顔をあしらったかのような恐ろしい姿をしており、強力な鉤爪を備えていた。
*身につけたばかりの召喚術式を見事に行使するカレン。強力な死霊が召喚されている。
「契約に従い、我が敵を滅ぼせ!」
彼女の声を引き金として、呼び出された死霊の群れは氷漬けの動かない生ける屍に向かって一斉に襲いかかっていく。金切り声と、氷を引き裂く鋭い音、氷の砕ける鈍い音がその場に入り混じってあたりは俄かに騒然となり、屍の群れを形作る個体がひとつ、またひとつと砕けるごとに、あたりは次第に静寂を取り戻していった。
アブロード医師の召喚した屍の群れは、20体を下らなかったが、しかし、カレンの呼び出した死霊たちは、そのすべてを飲み込んで破壊し尽くした。跡には無惨に引き裂かれ、バラバラになった屍とその一部が散乱している。
カレンもまた、魔力の大部分を使い切ったようだ。大きく肩で息をしながら、その場に両膝をついた。
* * *
「とにかく、魔力を回復しましょう。」
そう言うと、二人は再び急速魔力回復役のアンプルを開けて一気にその中身を飲み干した。その身体をあたたかい魔法光が包む。どうにか魔力は回復したが、これではジリ貧になるのは明らかだ。残る魔力回復薬の数は少ない。リアンは、『ある南の勝利』をローブのポケットから取り出し、それもまた喉に送っていた。朝からずっと魔力・体力の両方を削って奮闘しているリアンの疲れは相当なものだ。明らかにその小さな体には限界が見える。カレンは内心、強い焦りを感じていた。しかし、手術室の中には、まだアブロード医師とシン医師という強敵が待ち構えているのだ。
カレンは意を決して立ち上がった。
「行きましょう!」
その時だった。手術室の扉が開いて、再びアブロード医師がその醜い姿を現す。
「おやおや、お二人ともなかなかお見事ですな。被験体としては申し分ない。ぜひその素晴らしい脳髄をご提供いただくことにしましょう。そこに、我が手が作り出す『人為の叡智』を埋め込むことができれば、どれほど素晴らしい結果を得ることができるか、考えるだけでもぞくぞくしますぞ。」
そう言って、アブロード医師は不気味な笑みを浮かべた。
「道を開けなさい。マークさんを解放するんです!」
そう迫るカレンの言葉も、アブロード医師には届いていない。
「おやおや、その状態でこの私とやろうというのですかな?面白い。ではこの手で引導を渡してあげましょう。しかし、その頭だけはしっかり守ってくださいよ。私の手が滑るといけませんからね…。」
アブロード医師は不気味な笑みを浮かべると、その両手から、真空放電のように鋭くほとばしる雷を幾重にも打ち出した。あたりが激しく明滅する。その雷の群れは容赦なく二人の少女を襲った。
刹那、まばゆい魔法光を放つ魔法陣が二人の前に展開し、迫りくる雷の筋をすべて受け流していく。リアンだ!
*強力な魔法障壁を展開して雷を退けるリアン。
彼女は、極めて強力な魔法障壁を展開して、その雷を完全に防ぎ切った!その瞳はまっすぐにアブロード医師の邪悪な相貌を捉えている。
「ほほう、ここまで来た実力は伊達ではないようですな。しかし、上には上がいるものだということを弁えるべきかもしれません。いや、それを教えるのが大人の役目というものでしょうな。」
そう言うと、アブロード医師は、身につけている白衣のポケットから既に薬液の充填されたシリンジを取り出して、それを自身の脇腹に注射した。
『偉大なる人智よ。奇跡の枷を超克せよ。我らは新しい世界の開拓者なり。人の可能性を具現化し、大いなる力を我が身において実現せよ。人の革新:Realize W.A.C. on my physique!』
呪わしい詠唱が、深夜の病棟の廊下に不気味にこだまする。やがてアブロード医師の全身が魔術光に覆われ、その姿を更に変容していく。体躯は大きくなり、その不気味さに一層の拍車をかけていった。やがて、溢れるようにしてその体躯を取り巻いていた魔術光はなりを潜め、その中から醜悪なものがゆっくりと姿を現した。
*怪しげな注射と詠唱によって醜悪に姿を変えたアブロード医師。
「ははははは。小娘が。この私に歯向かおうなどと愚かなことを。」
それは、先程よりも一層不穏で悪辣な声を響かせて笑う。その体躯は、屈強な錬金金属で骨組みが構成された骸骨のようで、2メートルを超える巨体に変じていた。身につけていた白衣は、魔術的に滾る力と同化して湯気のように空中に揺蕩い、その手は大きく、長い指は全てを粉砕するかのような威容である。眼窩は、不気味でおぞましい魔術光で光り輝いていた。
「どうですかな?あなた達は幼いなりに見どころがある。ここで殺してしまうには実に惜しい。もし我々に力を貸す気があるのなら、当面の命だけは保証しますぞ。あくまで当面ですがな。」
輻輳して不気味に響く声で、それは語った。
「冗談ではありません。こうなれば排除するまでです!」
真正面から対峙するカレン。リアンもそのすぐ横で身構えている。
「そうですか?そう死に急ぐこともないと思うのですがね。まあ、それが希望というのならば、叶えてあげるのが大人の努めというものでしょう。」
そう言うと、アブロード医師は拳に魔術の力を乗せてカレンに殴りかかってきた。その体をリアンが横倒しにして間一髪にかわす。空転したアブロード医師の拳の周りでは、魔術的力の残滓がバチバチと音を立てていた。
「おやおや、逃げ回ったところで、抵抗するほど辛くなるだけですぞ。力には素直に服する方がよいのです。あの先生はそうは教えてくれませんでしたかな?」
高らかに笑うアブロード医師。
「ふざけないでください。あなた方に屈服するつもりなどありません!」
そう言うとカレンは詠唱を始めた。
『閃光と雷を司る者よ。法具を介して助力を請う。我が手に幾重にも雷をなせ。我が敵を打ち払わん。爆ぜよ!炸裂する雷:Thunder Burst!』
*閃光と雷の領域に属する高等術式を繰り出すカレン。
カレンの手から、魔法の雷が多層的・多重的にアブロード医師に襲いかかる。輻輳は十分でその威力は相当に高い。薄暗い廊下が激しく明と暗を行き来した後で、轟音とともにその折り重なる雷が次々にアブロード医師の身体を打っていった!しかし、その巨漢は避けることも防ぐこともせず、その場にただじっと佇んでいる。轟音とともに立ち上る火花と煙がゆっくりと晴れていく。やったか!?
しかし、アブロード医師は平然とした面持ちでそこに立ち続けていた。
「おやおや。魔法などというまやかしがこの私に通用すると、まだ思っておいでのようだ。嘆かわしいことです。時代はもう変わりつつあるのですよ。あなた方の力は、我々には遠く及びません。」
不気味に笑うアブロード医師。
「さて、奥でシン医師がお呼びのようなのでね。これくらいにしましょう。仲良くあの世に行くがよろしい。」
そう言うと、アブロード医師は両手の拳に、火花を散らす魔術の力を存分に滾らせて、二人を殴り倒そうと襲いかかってきた。
もうだめだ!リアンの小さな身体をかばうようにしてカレンが身構えたとき、その場に銃声が響き渡る!
* * *
今まさに二人を殴り潰そうとしていたその巨漢は、繰り返し後ろ手に怯み、バランスを崩してよろよろと後退していく。リアンとカレンの二人がその音の方を振り返ると、『転移:Magic Transport』の光の中から、心強い影が姿を現した。
「アイラ!」
そう。構えた錬金銃砲から『ルビーの法弾』と思しき強力な弾丸を発射して二人を援護してくれたのは、別件でアカデミーを離れていたはずのアイラであった!
*強力な錬金銃砲で、二人の危機を見事に救ったアイラ。
「お二人とも、大丈夫ですか!」
その声に安堵して、リアンとカレンの緊張の糸が一気に切れる。二人の美しい瞳には涙が溢れていた。
「間に合ってよかったわ。」
アイラの後ろから、もうひとりの人物が姿を表す。
「ユイアさん!!」
『転移:Magic Transport』の術式でアイラをここに送ってくれたのはユイアだった。
「さて、これで形勢逆転ね?」
いつもの皮肉な調子でユイアが言った。アブロード医師は体勢を整えると、特段動揺するでもなく、彼女たちと距離をとった。
「やれやれ。これは困りましたな。こんなところで邪魔をされたのでは何かと面倒なのですよ。仕方ありませんね。今宵のところは、ひとまずあなた方に勝ちを譲りましょう。しかし、あなた方がそうして英雄気取りでいられる時間も残り僅かです。先生のお導きによって全ては新しくなるのですから。死までの暇がほんの少しだけ伸びたことをせいぜい感謝するのですな。それでは、これで失礼。」
そう言うと、アブロード医師は手術室の中に消えて行った。
「早く追わないと!」
そう言って、カレンが扉に手を掛けるがうんともすんとも言わない。ユイアは出力を最大にして『不触の鍵:Invisible Keys』の術式を試してみるが、やはり反応がない。アイラも、錬金銃砲の法弾を撃ち込んでみたりしたが、それは破壊することもできなかった。
「仕方ありませんね。」
そう言うと、アイラは錬金銃砲を腰にしまって、扉と距離を取った。
「下がっていてください。」
皆を遠ざけてから、詠唱を始める。
『今ここに神殺しの刃を産み出さん。我が前に立ちはだかるすべてを破壊し、すべてを滅ぼそう!神殺しの刃:Create Deadly Saws!』
*魔術の奥義を繰り出すアイラ。それは魔法とはまた似て非なる力を発揮する!
魔法に比べると魔術の詠唱は簡便だ。しかしそれは魔術の奥義で、誰彼が容易に扱えるものではなかった。アイラの前に瞬く間に巨大な丸鋸の刃が形成され、それは高速に回転しながら、その開かずの扉に激しく衝突した!金属同士が擦れ合うけたたましい摩擦音とともに周囲に激しく火花が飛び交う。はじめ両者の力は拮抗していたが、やがて扉のほうが押し負け始め、ギリギリ、ガンガンという金属の凹み裂ける音を奏でながら、赤熱の挙句についに真っ二つとなって、その場に残骸をさらした。今、彼女たちの前には手術室への道が開いている。
その強烈な情景に、特にリアンはすっかり言葉を失っていた。カレンも関心ひとしおのようだ。
「さすがね、アイラ。」
その沈黙を破ってユイアが声を掛ける。
「ありがとうございます。」
アイラはそう言って、術式媒体として用いた刀剣をしまった。
「でも、よくここがわかったのですよ!」
声をはずませるリアン。
「そうね。先生方が、鏡像世界の5階から3階までくまなくあなた達を探してくれたのよ。で、そのどこにも見つからない。ということはそれより上か下かしかないでしょ?ただ上と言っても、今回の件とは直ちに関係のない入院病棟があるばかりだから、一か八かここ2階に来てみたってわけ。大当たりだったわね。」
そう言って、ユイアはころころと笑った。
「でも、無事で本当によかったわ。先生たち、カンカンだったわよ。」
いたずらっぽい表情をリアンとカレンに向けるユイア。
「事は急を要しました。マークさんの身に危険が迫っているんです!」
カレンは、今ではポッカリと口を開けた手術室の方を指さして言う。
「もう大丈夫そうですよ。」
そう言ったのはリアンだった。彼女はまた例の魔法地図を見渡している。
「これが、エヴリン師長です。アレですね。その他の光点はすでにこの鏡像の世界から消えてしまっています。この中に敵はもういないですよ。」
確かに、魔法地図からはシン医師とアブロード医師の居場所を示す光点はもう消えてしまっていた。一時的に撤退したと見るべきなのであろう。
「とにかく、マークさんが心配です。行きましょう!」
カレンのその促しに従って、4人は深夜の手術室の中に入っていった。
あたりは秋の深夜の不気味な静けさに包まれている。ここには表の世界の秋虫の声も届かないようだ。ユイアが灯す魔法の灯火の明かりをたよりに、少女たちは手術室の奥へと進んでいった。夜明けはまだ遠い。
Echoes after the Episode
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。今回のエピソードを通して、
・お目にとまったキャラクター、
・ご興味を引いた場面、
・そのほか今後へのご要望やご感想、
などなど、コメントでお寄せいただけましたら大変うれしく思います。これからも、愛で紡ぐ現代架空魔術目録シリーズをよろしくお願い申し上げます。