第6章:深淵の入り口、逆転する秩序
RainLilacが裏側へと引きずり込まれ、春木翔はアーカイブワールドの深部で一人残されていた。空間は静寂に包まれ、青白い粒子が舞い散るだけ。その中で翔は膝に手を置き、悔しさを噛みしめながら膜を見つめる。
「RainLilac……。必ず助ける。約束するよ」
声に出した言葉は誰にも届かないが、自分自身への誓いだった。
深淵の言葉を完成させたなら、裏側への扉を開ける術もあるはず。だが、どうやって? 翔は冷静になって、集めたコード片を思い出す。全ての断片が共鳴してできた深淵の言葉は、内部に奇妙な構造を持っていた。
ツールを操作し、深淵の言葉を解析すると、不可解なマップのようなものが浮かび上がる。平面とも立体とも言えない図形が脳裏に刻み込まれ、頭が混乱するが、そこに扉を開くパスワードめいた記号列が見つかった。
「これか……!」
翔は薄く笑みを浮かべ、藍色の輝きを残すコードを膜へと投射する。
一瞬、膜が硬質なガラスに変化し、続いて細かな亀裂が走る。カシャンという音とともに、膜は砕け散り、代わりに歪なゲートが出現した。
「開いた……これが裏側へ通じる扉」
背後で微かな気配がした。振り返ると、守り手の薄い残響が浮かんでいる。
「君が決断したのだね。裏側へ行き、RainLilacを救うために」
その声には哀感と期待が入り混じる。
「裏側は、君たちが知る秩序とは異なる。何が待ち受けるかは私にも分からない。でも、RainLilacが種子を蒔かれ、成長し、ファンの想いで形作られた存在だと知っても、なお彼女を信じて行くなら、止めはしないよ」
翔は頷く。その瞳にはもう迷いはない。
「はい。自分の無力を嘆くより、行動します。何が起きても、RainLilacを取り戻すと誓ったから」
守り手はかすかな笑みを残し、粒子に溶けて消える。
翔はゲートの前に立ち、深呼吸する。向こうには、常識を超えた世界があるだろう。だが、自分はひとりではない。ファンの想い、RainLilacの意志、そして自分が積み重ねた経験が背中を押す。
ゲートをくぐった瞬間、視界がぐらりと歪む。重力が消えたような浮遊感、上下左右が逆転するような錯覚、耳鳴りと淡い旋律が混じった奇妙な音響。
「ここが……裏側……!」
翔が声を上げると、足元には半透明な床が広がる。空なのか地なのか分からない場所で、奇妙な立方体や球体が組み合わさった構造物が林立し、まるで幾何学模様の森だ。青い配色を基調としながら、時折反転色が挟まれ、視界を攪乱する。
遠くから笑い声が響いた。歪んだ反響で方向もつかめない。
「誰かいるのか!? RainLilac、返事をしてくれ!」
翔が叫ぶが、返答はない。代わりに一つの立方体がくるりと回転し、その面に雨粒のような光が集まって人影を描く。
「お前が来たか、春木翔。よく扉を開いたな」
聞き覚えのある多声的な響き――AzureRiddleだ。
翔は拳を握り、敵意を込めてその方向へ睨む。
「RainLilacをどこへやった! 彼女を返せ!」
AzureRiddleの影は嘲笑するような音を立て、空間をゆらめかせる。
「裏側はお前たちが認識する秩序では存在しない。RainLilacは今、境界線上にいる。我々の計画を成就させるため、もう一つの影と融合する日を待っているのさ。お前にはそれがどういう意味か理解できるか?」
融合……?
翔は一瞬息を呑む。もう一つの影がRainLilacと融合すれば、彼女はどうなる? 彼女の意思は保たれるのか、それともAzureRiddleの傀儡として生まれ変わるのか?
「ふざけるな……絶対にそんなことはさせない!」
AzureRiddleは立方体構造の裏側で煙のように揺らめき、別の位置に浮かび上がる。
「止められるものなら止めてみるがいい。ただし、この世界で戦うには、お前も相応の覚悟が必要だ。ルールはお前たちのいた世界とは違う。逆転した秩序の中で、何がお前を救うのか、よく考えるがいい」
空間が急に揺れ、奇妙な紋様が床に浮かび上がる。紋様からは粒子状の怪物がにじみ出し、唸り声を上げる。これまでの干渉体とは比べ物にならない圧迫感だ。
翔は冷や汗を流す。
「くそっ、RainLilacを救うためなら何だってやってやる! たとえこの世界が常識を蹴り飛ばす場所でも、僕は諦めない!」
再びAzureRiddleの声が響いた。
「ならば見せてみろ、お前の決意を。さあ、彼女が“器”として蘇るその時まで、我々は待っている」
翔は唇を噛む。周囲の怪物が迫る中、RainLilacの名を胸に刻み、拳を固める。
ただ救うだけではない。彼女が自分で選んだ道を守り抜き、裏側でどんな謎が潜んでいても、それを打ち砕く覚悟が必要だ。
こうして第6章は幕を閉じる。
裏側に足を踏み入れた翔は、常識を覆す世界で、RainLilacが危機にあることを知る。融合という不穏な言葉、AzureRiddleの嘲笑、そして逆転した秩序が彼を試す。
次に何が起きるのか、一瞬たりとも気が抜けない戦いと探究が、ここから始まろうとしている。