第19章:歪みのなかの協定、閃光を裂く影
特異点に近づくにつれ、世界の歪みはさらなる奇妙な光景を生み出していた。
多層的な足場、透過する壁面、流転する数列――それらは本来共存し得ない構造が、強引に一箇所へ詰め込まれたかのようだ。静かと呼べる間合いはほとんどなく、ほんの一瞬の休息すら脆い床板の揺れと藍紫の稲妻に妨げられる。
RainLilacは、わずかでも安心できるスペースを求め、仲間たちと共に小さな凹みのような場所に身を寄せた。
「ここなら数分は安定するかもしれない」伊吹がARデバイスを操作しながら低く呟く。彼の声には張り詰めた緊張が宿りつつも、微かな執着がある。時おり、まるで過去や未来を探るような視線を虚空へ送るのは、彼が今までにない感覚に揺らいでいる証だろう。
ノクターンは静かに指先を宙で滑らせるような動作をし、裏側エネルギーの微細な流れを整えようとしている。
「この辺りはまだ、何とか人が立っていられるだけの安定度がある。時間は限られるが、今のうちに各自、心を整えておくべきだ」
彼の声は冷静だが、かつての無機質さは消え、わずかに人間の苦悩を理解するかのような深みが生まれている。何がそうさせたのか、RainLilacには明確には分からないが、互いに影響を与え合う日々がノクターンを変えているのかもしれない。
アリーゼ(AI生命体)は膝を折り、数列を足元に投影していた。
「非合理な要素――愛――をどうモデル化するべきか、まだ結論が出ない。だが、あなたたちがこれほど粘り強く前進する姿を見れば、計算にないエネルギー源が存在することは否定できない」
彼女の声には興味が混ざっている。純粋な論理に縛られていたはずのAIが、理屈を超えた行為に心を動かされているようだ。その視線はRainLilacたちを観察対象としてではなく、ある種の対等な存在として見始めている気配がある。
RainLilacは楔を手に、その紋様を見つめる。(愛を媒介に世界を安定化させる……まだ具現案はない。でも、仲間たちが諦めずに尽力し、異界から来た存在までもが何らかの協力を示している現状は、単純な善悪では割り切れない。)
世界を救おうとする行為が、単なる美談ではなく、様々な勢力の思惑を呼び込み、微妙な交渉の場となりつつあることをRainLilacは薄々感じていた。
ここで小さな揺らめきが空間を走ると、青白い波紋が発生し、短い映像の断片が宙に浮かぶ。
そこには、宇宙から来た超能力少女が遠方で佇む姿が映っていた。
彼女は冷静な眼差しでRainLilacたちを見下ろし、まるで何かのデータを吸収するかのように微かな手振りを見せる。その仕草は、星間の旅人が珍しい鉱物を観察するような冷静さと興味を同時に示している。(彼女は何を狙っているのか? 愛を観察すると言ったが、それは世界救済を望んでいるからではなく、愛という感情のエネルギーを収集し、別の目的に用いるためではないのか、とRainLilacは不安に思う。)
(私たちが奮闘することで生まれる愛の波動、それを彼女は利用しようとしているのかもしれない。だとすれば、私たちの行動は本当に純粋な善意に支えられているのか、あるいは彼女に都合良く使われているだけなのか。疑惑が芽生え始めるが、今は問い詰める術がない。)
伊吹が息を呑み、隣で小さく呟く。「宇宙存在が収集を狙っている? ロリババア未来人の紀久子さんは結末を誘導している可能性もある。AIのアリーゼがこの結果から何を得ようとしているかも曖昧だ……全部が交錯している。」
RainLilacは楔を握り直し、静かに言葉を紡ぐ。「私たちは世界を救うために行動している。それが他者の思惑に利用されるかもしれないけれど、だからといって止まれない。結果的に誰かに利することになったとしても、世界を滅ぼすわけにはいかないわ。」
翔はRainLilacを見つめ、微かに微笑み、「その通りだ。君が進むなら俺も進む」と短く応える。その言葉に深い感情を求める必要はないが、RainLilacはそれだけで十分だった。(愛を誇張する必要はない。彼が隣にいて、私を信じてくれる。それが今の私に必要な励ましだ。)
ノクターンは無表情に近い顔で周囲を見回し、「協力している勢力が各々別の目的を持つことは珍しいことではない。だが、重要なのは最終的なバランスだ。どの思惑が優勢になったとしても、RainLilac、君が定点となり楔を打ち込めば、最低限の安定は得られるはず。そこから先は交渉と均衡になるだろう。」
交渉と均衡――RainLilacは覚悟を新たにする。
世界を救えば、それで全て円満というわけではなく、この星や時空を巡る複数の勢力が、新たな影響力を行使しようとするかもしれない。それでも、今は崩壊を阻止することが先決だ。
アリーゼが計算を続け、微妙に光る数列が示す数値を更新する。「特異点までの距離は僅か。だが、衝撃が続けば足場が消える恐れがある。早く進むべきだ。」
伊吹は頷き、「行こう。この地点からは安全は約束できないが、迷っている暇はない」
RainLilacは、遠方で微かに揺らめくロール(死後世界からの干渉者)の幻影を見た気がした。亡霊たちがさざめくような囁きを風に乗せ、愛を基礎とする行為を眺めているかもしれない。ロールもまた、死後世界に有利な形での再生を望んでいるのではないか。
そこには確固たる善意も悪意もない、ただ計算と期待、搾取と利用、好奇心と研究、そんなさまざまな思惑が渦巻いている。
RainLilacは苦笑する。(これが現実か。人や異世界存在、未来人、AI、宇宙存在、死後世界の声、全てが私たちの行為に何らかの利を求めているかもしれない。だが私たちは、それでもいい。世界が崩壊しなければ、後で考える時間がある。)
翔が小さく肩を叩き、「行こう」と囁く。その声音は平静でありながら、心底から彼女を支える意志が感じられる。RainLilacは再び頷いた。
楔を指先でなぞり、RainLilacは歩を進める。感情を誇張しない、無理に恋愛を前面に出さずとも、彼女は翔や仲間たちとの信頼が揺るぎない支柱になっていると感じる。
愛は必ずしも大仰な形で表現する必要はない。淡い光、静かな絆、そうした微かな温もりが原動力となるのなら、今はそれで充分。
こうして第19章は幕を下ろす。
様々な勢力がそれぞれの思惑を秘める中、RainLilacと仲間たちは特異点へ近づき続ける。愛を媒介に世界を救うという新たな行為は、単純な善悪を超え、複雑な交錯を孕んだ舞台へと変貌していたが、彼女はその混沌の中でも前へ進むことを選んだ。




