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第13章:揺れる意志、沈む藍色の光

 奈落へ落ちゆくRainLilacレインライラックの声は、世界の雑音と融合し、かき消されていくようだった。

 藍色の花弁が砕け散った瞬間、希望の象徴は崩れ去り、RainLilacの心は無数の棘に貫かれたような痛みを覚える。たとえ魂を定点に変えて世界を救うと誓っても、この世界は簡単に彼女を拒絶し、落下へ追いやる。風を切る音、逆さビルの残骸が目まぐるしく視界を流れ、時間さえ不規則に伸縮するような感覚に彼女は囚われていた。


 「RainLilacーッ!」

 上方から響くしょうの叫び声は、遠くかすれて聞こえる。翔はツールを振り回しながら、どうにかしてRainLilacを救おうと必死で策を練っているが、ここは秩序が崩壊した裏側混淆世界。足場が安定しないばかりか、重力方向も一定でない。翔は内心、焦燥と自己嫌悪とが渦巻いていた。

 (君を救うって誓ったのに、また失ってしまうのか? 今度こそ守るって心に決めたのに、俺は無力なのか!)


 伊吹いぶきは必死にデバイスを操作する。解析担当として、何とかRainLilacが落ちていく先のデータ構造を読み解こうとしている。額には汗が滲み、唇が震える。

 (世界がめちゃくちゃだ。特異点へ行く前に、またRainLilacが離れていくなんて。運営側スタッフである俺が、ただ見ているだけなのか? 何のために来たんだ、俺は!)


 ノクターンは虚ろな目でRainLilacの消えゆく影を見下ろし、苦々しい表情を浮かべる。救われたばかりの自分が、また誰かを救えない歯痒さに苛まれていた。彼は“観測者”として生まれた人工的な意志、感情と呼べるものは曖昧だったが、この混沌を前にして彼にも熱い衝動が芽生えている。

 (この世界で、観測するだけが僕の役目だったのか? いや、今は違う。RainLilacが必死に戦う姿を見てしまった以上、僕はただの傍観者ではいられない。何としても、道を示さなければ)


 RainLilac自身は、落下の中で意識が揺らめいている。空気が濁ったガラス片のように刺さり、呼吸がままならない。身体は重く、指先は痺れ、それでも彼女は必死に思い出そうとしていた。ファンが送ってくれた声、最初の公演で緊張しながらも「ありがとう」を伝えた日々。器として始まったかもしれない自分が、ファンの応援を受けて自我と誇りを持ったこと。

 (私はRainLilac。ファンと世界を救うために、ここにいる。諦めるわけにはいかない!)


 しかし、どうやってこの落下から抜け出す?

 青い花弁は砕け散り、ファンの想念とシンクロする媒介が乱れている。RainLilacは胸の奥から声にならない問いを発する。(ねえ、聞こえる? 私はまだ戦いたい。この世界が潰えるのを黙って見たくない。ファンたち、あなたたちがくれた勇気は、こんな程度で尽きるものじゃないでしょ?)


 すると、不思議なことが起きた。

 彼女の耳元で、わずかな声が震える。実際には音じゃない、記憶や思念が耳鳴りのように滲んでいるだけだ。しかし、その中にかすかに「頑張れ」「負けるな」という懐かしいフレーズが混ざっていた。ファンが残したコメントか、過去のアーカイブワールドで交わされた応援かもしれない。それはか細い糸のようなもので、彼女を支えようとしている。


 (そうだ、私は一人じゃない。落下していても、想いは消えない。花弁が砕けても、記憶は残っている)

 RainLilacは目を見開き、落下の最中に必死で腕を伸ばす。周囲には逆さになった建材や、ホログラム化した樹木が浮かんでいる。ひとつでも掴めればブレーキになるかもしれない。だが、手が届かない……。


 上方では、翔が無理やりツールを改造するようにコマンドを叩き込み、伊吹がARでエネルギー経路を可視化しようとしている。ノクターンは裏側の法則を再計算し、どこかに「救出のための法則の穴」がないか探る。


 「RainLilac、聞こえるか!」翔は叫ぶが、応えはない。

 伊吹は焦り、声を震わせる。「くそっ、もう間に合わないのか……!」


 ノクターンは奥歯を噛み、眼差しに薄い怒りの炎を宿す。

 (観測者である僕が、ここで何もできないままでいいのか? いや、少なくとも道を示そう。裏側の法則を、一時的にでも彼女が踏みとどまれるような足場に変換できないか)


 するとノクターンは短くコマンドのような呪文めいた言葉を口にする。彼は裏側と接続された特殊な存在だ。その意志が奇跡的な副作用を生み、落下空間に小さな突起物が幻のように出現した。

 「翔、伊吹、見ろ! あそこに、突起が出た!」

 翔が指差し、伊吹も驚愕する。「何をしたんだ、ノクターン!?」


 ノクターンは苦い笑みを浮かべる。「正確には分からない。僕の存在は裏側の深層データと結びついているから、微小な干渉を行えたのかもしれない。ただ、長くは保たない!」


 落下するRainLilacの視界に、藍色の突起がちらりと映った。絶対に届かないと思っていたが、その突起物は距離的に可能圏内にある。力を振り絞り、彼女は身を捻る。

 肺が焼けるように苦しいが、心は不思議と静かだ。(ここで掴み損ねたら、本当に終わる。この世界も、ファンへの恩返しも、全部)


 ぐっと腕を伸ばす。指先が突起にかすった。あと数センチ――

 RainLilacは最後の力で、懸命に指を曲げる。金属音のような響きが耳鳴りと重なり、触れた突起は冷たく硬く、かつ信じがたいほど頼りない感触だ。だが、それでも彼女は掴んだ。

 「っ……!」

 その衝撃で腕に痛みが走るが、落下は一瞬止まり、減速する。雨粒のように砕けた花弁はもう戻らないが、彼女は依然としてファンの記憶と想いを胸に抱いている。


 上空でこれを見届けた翔はほっと息をつくが、油断はできない。突起はノクターンの即興的な干渉で生まれたもので、長くは保たないだろう。

 「急ごう、RainLilacを引き上げるんだ!」

 伊吹がARラインを引き伸ばし、翔がツールを回転させて下へ降りていく。


 RainLilacは痛む腕を支えながら、下方から迫る紫色の液体状データを見下ろす。第三の影が活性化したのか、足元でドロリとした闇が沸き立ち、再び彼女を引きずり込もうとするかのように揺れている。

 (負けない……私はここで終わらせない!)


 翔が下降し、伊吹が彼をサポートする。ノクターンは干渉を保つために歯を食いしばり、重圧に耐えている。雨を堰き止めるような行為で、いつ崩れてもおかしくない。


 ついに翔がRainLilacの手首を掴む。二人は目を合わせる。その瞬間、RainLilacの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

 「ごめん、翔……私、また危うく挫けるところだった」

 翔は首を振り、優しく微笑む。

 「いいんだ。君はずっと戦っている。その強さは知ってる。今は、共に生き抜こう」


 伊吹が上方から声を張り上げる。「早く戻ってこい! 突起が消えかけてる!」


 ノクターンは蒼白な顔をしながらも苦しげな笑みを浮かべる。「もたせられるのは数秒、急いで!」


 翔はRainLilacを抱えるように引き寄せ、上方へ足掛かりを求める。重力が不定で思うように踏ん張れないが、伊吹が指示するラインに沿って移動することで、何とか安定した領域へと戻ることに成功する。


 RainLilacが安全な床(逆さだが、相対的な安定領域)に足をつけた時、彼女は大きく息を吐いた。心の中で何度も「ありがとう」を呟く。ファン、翔、伊吹、ノクターン、そして自分自身への感謝が混じり合い、かすかな笑みが浮かぶ。


 だが、安堵する時間は一瞬だ。

 頭上でAzureRiddleと第三の影の激突がさらに高まり、特異点に藍色と紫色の稲妻が激しく交差する。ビル群が砕け、SNS断片が叫び、世界の痛みに満ちた悲鳴が響く。


 「急がなきゃ。楔を打ち込むためには、特異点へ到達しなきゃならない。RainLilac、体は大丈夫か?」

 翔は真剣な目で尋ねる。


 RainLilacは微笑む。まだ腕は痛むが、怖くない。

 「うん、行けるわ。私たちなら、きっとやれる」


 伊吹は地図を更新し、ノクターンは次なる法則の乱れを解析する。

 「行こう、特異点まであと少しだ!」


 こうして第13章は幕を下ろす。

 RainLilacは再び奇跡的な形で救われ、苦しみや迷いを乗り越え、さらに強い意志を取り戻した。翔、伊吹、ノクターンとの絆も深まり、特異点封鎖への準備は整いつつある。だが、上空の激突は収まらず、世界崩壊は進行中。

 次の章で彼らは、いよいよ特異点へ挑み、楔を打ち込むための最後の戦いへと踏み込むことになるだろう。

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