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第1章:ブルーアーカディアの囁き

 東京──かつての首都機能を遥かに超越したメガシティは、昼夜を問わず電脳光に溢れている。上空には透明なチューブ状の歩道が縦横に張り巡らされ、無数のホログラム広告やドローン型ディスプレイが、交差するビル群の合間を縫うように流れ去る。光はネオンブルー、ディープバイオレット、蛍光ライムグリーン、そして無数の色彩が微粒子状の情報となって空間を満たし、人々は視界拡張デバイス(ARゴーグル)を通して現実と仮想をシームレスに行き来していた。


 この都市では、人々は己のデジタル・アバターを持ち、SNSとストリーミング文化が人間関係の基盤となっている。一瞬のバズが人生を変え、ひとたび「炎上」すれば社会的死を迎えかねない。インフルエンサー、Vアーティスト、ハッカー、秘密結社的クリエイター集団……多様性が極点まで進んだ社会で、匿名性と著名性が錯綜する。


 この世界の片隅で、春木翔はるき・しょうは27歳にして地味な日常を送っていた。

 翔はフリーランスのITワーカー。請負う仕事はどれも脇役的なデータ解析案件や下請けのプログラムデバッグばかりで、誰にも名前を知られず、SNSフォロワー数は二桁。華麗なるトレンドの奔流はビル群の高層階で交わされ、彼はいつも地上すれすれの凡庸な暮らしに埋没していた。彼の部屋は安アパートの一室。窓からは巨大ハイウェイの基底部分しか見えず、夜になればビル壁面広告が不規則な反射光を投げかける。それはまるで、夢を持つ者を嘲笑するかのように、無機質な残響を室内に落としていた。


 そんな翔が、唯一熱を上げているのが、世界的VR配信プラットフォーム「CircuLive」で活躍するカリスマストリーマー、RainLilacレインライラックだった。

 RainLilacは類まれなアーティスト性と技術を併せ持つ配信者だ。彼女の公演は、ただのライブストリームではない。自身が作り上げた精巧なVRアバター「蒼の魔女リラ」を通じて、音楽、朗読、インタラクティブな謎解き、詩的な映像演出を週末ごとに繰り広げる。そのステージは観客がVR空間へダイレクトアクセスすることで、没入感を極限まで高めていた。まるで、一夜限りのヴァーチャルな歌劇場。観客たちはリラの透き通った歌声、優雅な手振り、そして幻想的な青い世界観に浸り、現実の疲弊を忘れる。


 RainLilacの魅力は単に美しく可憐なアバターやカリスマ的発言力に止まらない。彼女は「世界を青い花々で満たし、人々の心に静かな革命を起こしたい」と宣言し、芸術とテクノロジーの狭間に新たな価値を打ち立てていた。公演では、しばしば社会問題をさりげなく織り込み、貧困や格差、情報汚染や匿名暴力について観客と一緒に考えるきっかけを生み出している。一方で、その伝え方は説教臭くなく、詩的なメタファーや謎解きを通じて、観客自身が気づきを得るデザインをしている。

 美しさ、知性、叙情性、そして強い芯──RainLilacは同時代の誰よりもVR空間を巧みに操り、芸術作品としての「場」を提供する稀有な才能を持っていた。彼女のフォロワーは全世界で億規模。メディアはこぞって彼女を「ヴァーチャル時代の新星」と讃え、評論家は「AR芸術の最高峰」だと激賞する。彼女を愛するファンは、リラと呼ばれるアバターに自作の青い花々をデザインして献上したり、楽曲のリミックスを制作したり、ファン同士でコミュニティを築いたりと、多様な二次創作文化を形成していた。


 翔はそんなRainLilacの配信が何よりの癒しであり、指針だった。

 彼女が奏でる音楽に耳を傾けると、閉塞感漂う自室が一瞬で広大な海辺の幻想世界に変わる。青い空、青い花、大洋を思わせる深い藍色の音響空間……そこには人類が忘れかけた清々しさや、あらゆる偏見を洗い流すような優しさがあった。翔はその世界を、ただ受け取るだけの傍観者だったが、それでも心が満たされた。


 だが、その夜は違った。

 RainLilacの公演が佳境に差しかかった時、VR空間を満たす美しい花々が突如として不快なノイズへと変質し、リラのアバターがグリッチを起こして醜悪なバグ映像へと溶解した。観客のチャットは悲鳴と混乱で埋め尽くされる。「ハッキングか?」「演出の一部か?」「リラが壊れる!」。

 ほんの数秒のうちに公演は強制終了。CircuLiveのメインサーバーは緊急メンテナンス状態に追い込まれ、SNSでは「#RainLilac事件」が瞬く間にトレンドトップへ。ニュースサイトは「人気ストリーマーが謎の妨害行為被害」と速報を打ち、匿名掲示板では瞬く間に陰謀論が飛び交う。誰が、何のために?

 RainLilac本人は沈黙を守り、公式アカウントからの声明もない。ファンは動揺し、アンチは狂喜し、マーケットは混乱してスポンサー企業は警戒を始める。


 翌日の朝、翔は眠れぬ夜を過ごした後、ふらふらとコンソールに向かう。依頼されたデータ解析の仕事に手を付けようとしても、頭から昨夜の衝撃映像が離れない。「あんな繊細で美しいステージを、なぜ誰かが壊した? RainLilacは、あの優雅な声は、今どうしているんだ?」

 心ここにあらずのまま、翔はSNSを覗くが、公式からの発表はなく、ファンコミュニティは混乱と憶測の渦中。知名度あるクリエイターたちが憶測を述べ、闇市場系ハッカーたちが「俺たちは知らねえよ」と嘯き、無責任なアカウントが炎上狙いでデマをばら撒く。

 翔は自分があまりに無力であることを痛感する。自分に何ができる? ただのファンに過ぎない彼が、あの崇高な芸術家を救うことなど不可能ではないか?

 しかし、心の片隅で声がする。「君があの蒼い世界に癒やされたのなら、今度は君が行動する番じゃないか」と。


 その夜、翔はネットの奥深く、あまり人が訪れない小さなVRコミュニティスペース「BlueArcadia」へと足を踏み入れた。ここはアーティストの卵たちが作品を展示する辺境空間であり、RainLilacがまだ名もなき新人だった頃、しばしば訪れていたという噂がある。もしかすれば、手掛かりが見つかるかもしれない。

 ログインすると視界は一変する。満天の星を映したようなナイトスカイと、蒼い海面が揺らめく空間。波音が微かに聞こえ、ユーザーインターフェースは最低限度しかなく、観光客もほとんどいない。大多数のユーザーが居場所を知らないか、または興味も持たない地下芸術の花園だった。


 薄青い月光の下で佇む翔は、かすかな希望を抱いて周囲を見回した。

 その時、不意に背後から女性の声が響く。


 「あなた、ここで何をしているの?」


 振り返れば、そこにはシンプルな初期アバターを纏った女性が立っていた。精緻な衣装を纏うリラよりは素朴だが、その瞳の輝き、声の透明感、佇まいの端正さに見覚えがある。

 RainLilac──彼女本人だ。

 だが、公式ステージで見せる豪奢な魔女姿でなく、ごく初期のプロトタイプアバターと思しき装い。まるで素顔を晒すかのような姿だ。


 翔は喉が凍りつくような緊張を覚える。「レ…レインライラックさん? 本当に……?」

 彼女は苦笑しつつ頷く。「ええ、そうよ。こんな辺境によく来たわね。」その声は、あの公演で聴いた響きと同じ。美しく、しなやかで、どこか憂いを帯びている。


 「いつも公演を見ています。あなたの作品には助けられているんです。それが昨夜、あんなことになって……大丈夫ですか?」


 RainLilacは一瞬だけ顔を伏せ、そして小さく息を吐いた。その仕草だけで、彼女がどれほど傷ついているかを翔は察する。

 「正直、困っているわ。データが改ざんされて、次の公演の準備にも支障が出ている。犯人はわからないし、私のパフォーマンスはこのままでは再開できないかもしれない」


 その声には、配信時には決して見せない脆さが滲んでいる。表舞台で華やかに舞う彼女も、裏では苦悩し、悩み、必死で創作を守ろうとしているのだ。それを知った瞬間、翔の胸中でなにかが弾ける。

 今まで消極的だった彼が、初めて勇気を振り絞る。


 「僕、データ解析やプログラム調整が少しできます。もし、何かお手伝いできるなら……力になりたい」


 RainLilacは驚いたように眉を上げる。「あなたが? 無茶かもしれないわよ。犯人はかなり高度な暗号化を施している。次の公演を妨害するための“鍵”がデータの奥深くに埋まっているらしいの。時間は限られているし、下手に触ればさらなる破壊を誘発するかも」


 「それでも、何もしないでいるよりずっといいです。あなたの公演は僕だけじゃなく、世界中の人にとって大切なものです。僕はただのファンかもしれないけれど、あなたを救いたいんです」


 この言葉に、RainLilacの瞳がほんの少し揺れる。彼女は一直線に強く、芸術への自負がある女性だが、同時に孤高の存在だった。彼女を支えられるのはスポンサーや大手プラットフォームか、もしくはテック系の超有名クリエイターぐらいだろうと誰もが思っている。しかし、今ここにいるのは名もなきファン。一人の、普通の男。

 それでも、真摯な思いは伝わるものだ。俯く彼女の表情が、静かに和らいでいく。


 「……ありがとう。じゃあ、このファイルを渡すわ」

 彼女は翔に暗号化された一部のデータを転送する。ここには加害者が仕掛けた鍵の断片が隠されているという。

 「これを解読できれば、新しい手がかりが得られるかもしれない。けれど、気をつけて。犯人は私たちの動きを監視している可能性があるわ」


 青い月光に照らされながら、二人のアバターが向かい合う。ほんの数分前まで他人同士に過ぎなかった二人が、今、奇妙な運命を共有し始めた。この都市で、こんな偶然があるだろうか? これは運命か、奇跡か。

 翔は覚悟を決める。「必ずやってみます」


 RainLilacは最後に柔らかく微笑む。その笑顔は、公演で見せる華やかな表情とは異なる、人間味と感謝が色濃くにじんだものだった。

 「あなたの名前、教えてくれる?」


 「……春木、翔です」


 「翔……よろしくね。私の作品が、あなたにとって少しでも意味があったなら、今度はあなたの力で、私を舞台へ戻して」


 こうして、名もなき解析屋の青年は、世界的アーティストの内なる危機を救うため、ネットの深淵に身を投じることになる。

 これはまだ物語の序章──全100章のうち第1章に過ぎない。

 ここから先、翔は違法ツールが出回る地下SNS、奇妙な詩的暗号を残す謎のクリエイター集団、古参ファンコミュニティが秘匿する伝説的テキストなど、あらゆる断片を集めながら、RainLilacの芸術を守り、再生するための戦いに挑むことになる。

 この小さな約束は、後に世界的バズと大叙事詩的ドラマを生み出す始まりだと、まだ誰も知らない。

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