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悪の芽  作者: 鶴永大也
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第六章・尾行

    第六章・尾行


 父を生き長らえさせていた装置を止めたとき、スウッと心音が消えたとき。それはアシュトンが見てきた死の中で最も静かなものだった。母の死も静かだったはずなのだが、当時は目の前の情報処理に精一杯で、何か感想を抱けるような年齢ではなかったので、やはり父の死の静けさの方が印象的だった。

 こんなことを言うのは、不謹慎なのだとしっかりと理解した上で、父の死はまだ幸せな死だったとアシュトンは思う。そもそも望んだ死だったという理由もあるがそれ以上に、戦争や紛争などの地獄で、人がどんな最期を迎えるのかを学んだからだ。


 そこでは、大きなクレーターがまるで閻魔大王様の鍋みたいな役割を果たしている。人はそこに放り込まれて焼かれて処理される。

 身に着けていた衣装も、ポケットに隠していた火薬も食べ物も、何もかも、ごちゃごちゃにしてしまうものだから、漂う異臭は凄まじい。

 アシュトンはその光景を眺めながらいつも、人間もちゃんと肉を切り分けて焼けば、他の家畜動物たちと同じように芳醇な香りを漂わせるのだろうかと、そんなことを考えていた。


 このような不遇な人たちのことを思えば、父の死はやはり恵まれた方だ。加えて、人の記憶に残りやすいのも父のような死に方だ。

 あの病院にいた医師や看護師はきっと、アンカース親子のことを、長い間死と戦った親子として記憶しているだろう。


(だから少しでも多くの人の最後の瞬間を守るために、Xを追う任務に参加している。というわけでは、まったくないのだけどな)

 特に理由もない。これまでの任務と同じく、そういう指令だからである。おそらく、花山院の率いる捜査チームの中で、最も志の低いメンバーは自分だろう。アシュトンだけがそのことをわかっていた。

……

 翌日のことだ。捜査チームは各員、花山院から指示されたとおりに対象の監視についていた。

 やるからには徹底的にというのが、花山院の信念なのかは知らないが、こんな、ほとんど無実と思われる女性を尾行していいものだろうか。

「なぁ、花山院。彼女がXである可能性はかなり低いんだよな?」

「はい。というより、今のところXと思われる人物なんていません……もしかしてアシュトンさん、この尾行を躊躇っています?」

「だってそうだろう。ここまで徹底マークするのは、犯人として疑いの深い相手に限るものじゃないのか。これじゃあ訴えられても文句は言えないぞ」


 訴えられるようなへまはしないのだが。

「そんな取り決めはありません。もし違ったらすみませんと言えばいいんです。捜査とはそういうものです。第一、何人もの人を殺しているあなたが、今更、ストーカー行為くらいの罪に怖がらないでくださいよ」


「……あくまで任務で殺しているんだ。こんな尾行だと、その、かえって罪悪感が湧くんだよ」

 これまで標的を暗殺するために尾行をしたことは何度もある。そのどれも緊張感あるものだった。あと一歩踏み出せば気づかれてしまう。あと一歩踏み出さなければ、殺すに足りる証拠を集められないかもしれない。実は気づかれていて、泳がされているのかもしれない。今、アシュトンがしている尾行とはまるで違う。


 カフェでコーヒーを飲みながらする尾行なんて体験したことがない。

「これも任務です。私だってこんなスーツに袖を通したくはありません。しかし、二十六歳の男が二人、カフェにいてもスーツを着ててきとうな紙を触っていれば、ビジネスの話だと思われて、怪しまれることはまずありませんから」

 アシュトンも久しぶりにスーツを着ていた。こんな動きづらい服を破分隊が着ることは滅多にない。

 ウェンディ・キニーは現在、カフェでリラックスをしている。今日の彼女の動きは以下のとおりだ。


 午前九時、港区のホテル(当然五つ星)にて朝食。ビュッフェではなく、ルームサービスを頼んでいた。

 午前十時、タクシーに乗車。

 午前十時二十分、東京大学に到着。

 午前十時三十分、村瀬隆教授と学内のカフェテリアで会話。注・村瀬隆は臨床心理学を専門とする教授である。

 午前十一時三十分、タクシーに乗車。

 午前十一時五十分、ホテルに到着。すぐに部屋に戻り、ルームサービスで昼食を済ませた。

 午後一時、ホテル内の美容室を利用。

 午後二時三十分、タクシーに乗車。

 午後三時、東京駅近くのブルーノーツというカフェに入店。


 詳細に話すのならまだまだ話せるのだが、今はこれくらいにしておこう。これまでの彼女の動きを見た花山院の感想はこうだ。

「ホテルのサービスをしっかり利用していますね。何か楽しいんですかね。それともサービスを受けることが染み付いているのか。それと、教授に会ったことも気になります。学会には参加したくないと言っていたのに。もしかして会いたい友人というのは教授のことですかね。どう思いますか?」

「それならもっと時間を長く取るだろう。せっかくイギリスから来ているんだから」

「そうですよね。なので、さらに怪しくなりました。昼食の時間も一人にしては長かった。さすがに部屋の中を見ることはできませんからね」

 偵察カメラを入れたら話は変わってくるのだが。


「女性の食事時間が長いことは、そこまで珍しいことではないだろう」

 破分隊のように一秒エネルギー補給を訓練するわけでもあるまい。

「朝食はそこまで時間を取っていませんでした。例えばホテルスタッフの中にXが居て、そのスタッフと今後の動きを確認していた。なんてどう思いますか?」

「それこそ、朝食のときに確認するだろう」

「ええ。そのとおりですね。ではどうして遅かったのか。まさか私たちに気づいているなんてことはないと思いますが、彼女がボディガードを雇っているとしたら、気づかれているかもしれませんが、それはありませんよね?」


……なぜ花山院は、破分隊がウォーリーを探せの達人であることを知っているのだろうか。相手がボディガードのように警戒している相手ならば、なおさら簡単に見つけられると、知っているのか。


「いないな」

 というわけで、ブルーノーツの四人席に一人座る彼女の監視は継続される。コーヒーを一口、その所作一つ取っても、絵になる。

 四人席に座った以上、待ち合わせだとアシュトンたちは踏んでいるのだが、果たしてどうなるか。

 どうしても視線がウェンディ・キニーに向いてしまうのを防ぐために、アシュトンは話題を提供した。


「昨日から思っていたのだけど、花山院はどうして破分隊の中で俺を、捜査チームに呼んだんだ?」

「アシュトンさんの報告書を読んだからです。あなたは偽物だったにせよ、暴動の中心にいた人物と話している。そして、重要なことを聞き出しています」

 ムカッラーでデビ・アンシュを殺したときのことだろうなとアシュトンは思い出していた。あの任務では、確かに対象と必要以上に話した。


「あの方は、世界の救世主である。つまり、暴動を引き起こす何かしらの方法はわかりませんが、救世主と呼ばれる人がいる。そこが何より重要です。幽霊や呪いの類だったら捕まえられませんが、人であれば捕まえられる。罪を認めさせることができます。というわけで、実際にその声を聞いたあなたを呼びました」

 花山院にしては気持ちのこもった声だった。水ばかりを飲んでいる彼は、一口も手を付けないコーヒーの水面を鏡のようにして自分の顔を見ていた。


(そういえば、花山院はどうして探偵なんて仕事をしているのだろうな。探偵も、辛い現場を見ることが多いだろう。花山院ならば、どんな企業でも入れるだろうに。いや、清潔感があまりないので、意外と面接で落とされるか?)

 どうせ今は監視することもないのだ。ウェンディ・キニーの待ち人が来るまでに聞いてしまおう。

「なぁ、花山院はどうして……」


 まさに訊こうとした瞬間に、ウェンディ・キニーと同じテーブルに何者かが座った。花山院とアシュトンは資料に目を通す振りをしながら、ウェンディ・キニーにより注意を向けた。

 来たのは男。おそらく三十代後半。ヨーロッパ系の顔。どこの出身だ。どんな人物だ。

「念のため、写真を撮っておきましょうか」

「絶対に見つかるなよ」


 会話は耳を澄ましても、所々にしか聞こえなかった。どうやらその男はコーヒーを頼んだようだ。そして花山院と違ってちゃんとコーヒーを飲んでいる。

「彼女は大金持ちだ。その繋がりか?」

「どうでしょうね。私にはどうも違和感があります」


 東京駅近くのカフェで人に会う。このこと自体には何も問題はない。むしろ待ち合わせ場所としては適している。

(……本当に? 私は本当に適していると思った? そうだ。ウェンディ・キニーならもっと別の場所を指定できたはず。それこそ五つ星ホテルで良かったはず。わざわざ、ここでないと会うことができないのか? 英語で話している。男はスーツを着ている。日本には来たばかりなのかもしれない)

 すると男はすぐに席を立った。時間にして十分とない。これほど短い会合のために、日本に来たと? これなら先に会っていた東京大学の教授が目的という説の方が納得できる。


「どうする? 男を追うか?」

「いいえ。かなり気になりますが、ひとまずウェンディ・キニーが優先です」

 その後、彼女はしばらくカフェでゆっくりした後、ホテルに戻った。部屋に入った時刻は午後六時。カフェに行き、帰って来ただけだ。

 と、ホテルのロビーで座っていると、花山院のスマートフォンに連絡が入った。

「はい」

「ジェームズだ。新しい情報を早めに伝えておくべきかと思ってな。ブラジルの首都、ブラジリアで新たな暴動が発生した」

「そうですか。わかりました……代わりの監視員をCIAに要請してあるので、到着次第、休んでください」


 通話が切れると、アシュトンがすぐに訊いた。

「ブラジルだって?」

「はい。いよいよ首都ですか。このタイミング。まるで、私たちが捜査していると知っていて、気を引かせるためにやった。そう思いませんか? いや、まさか暴動のタイミングを自由に操れるはずはないと思うんですけどね」


 しかし、そう考えたくなるほどピッタリなタイミングだ。

「俺たちは四人を監視していた。四人共、今のところ変な動きはないんだよな?」

 花山院に届いた報告によると、異常はない。花山院は頷いた。

「しかし、先にも言ったように、あの四人単体では無理だと、私はそもそも思っています。そしてあなたの報告書からもわかるように、暴動が始まる場所にXは居る必要がない。なので日本で捜査してもいますし」


 新たにブラジリアで暴動が発生した。このことから言えることは、少なくとも容疑者の四人が監視されていようとも、問題なく犯行は行われるということ。

 監視されていても、密かに手をくだせるのかもしれない。時限爆弾のように、予め設置していたのかもしれない。ましてや、協力者がいるのかもしれない。


「……いずれにしても、このタイミングでのブラジリアの暴動を見過ごすわけにはいきません。私はXが私たちに勝負を仕掛けてきている。それくらいに思っています。ただ、ブラジリアを選んだのは失敗でしたけど」

 そのとき、交代のCIA捜査官が来たので、しっかりと、細かいことまで見落とすなと念を押してからホテルを出た。


「それで、失敗ってのはどういうことだ?」

「実は、今後暴動が起きそうな五つの場所に、予め私が信頼できる方に潜入してもらっていました。ブラジリアはその一つです。ずっと気になっていたんです。暴動が起きる前に、その町では何が起きているのか。情報軍もそれを調べようとしてはいましたが、あまり信憑性のある報告はなかった」

 花山院はこれからその信頼できる相手に連絡を取り、ブラジリアで何が起きていたのかを調べるのだそうだ。


 その調査の結果、何もわからないかもしれない。それどころか、魔法的な力を使っているので逮捕は不可能だという結論に至るかもしれない。しかし、暴動の現地に居る、まともな人間(まともと言うより、こちらに思考の近い人間)の話を聞くことは捜査を大きく前進させるはずだ。

「というわけで、明日から尾行はアシュトンさんに任せることになるのですが、よろしいですか?」

「ああ、わかった。だけどやっぱり俺には彼女がXだとは到底思えない」

「そうですね。でしたら、それを確定させるために、捜査してください」

……

 花山院たちが帝国ホテルの捜査本部に戻ると、そこには既に山本がいた。早く花山院に報告書を見てもらいたかった様子だ。

「山本さん、真野庄助の様子はいかがでしたか?」

「実は、彼、かなり怪しい動きをしていまして……」


 そう言って見せてくれた捜査資料には、真野庄助の行動が細かくぎっしりと書かれていた。それにしても授業風景や態度まで記録するなんて、学校に入り、そして見つからないようにするのは大変だっただろう。

 報告書の中でひときわ目を引く、彼の放課後の行動。国会議事堂の周辺を歩く。という項目。

「ただ歩いていただけなのですか?」

「はい。写真を何枚か撮っていましたが、国会議事堂の中にも入らず、見ているだけでした」


 もしも、花山院が考えているように、何かしらの方法でプロパガンダを広め、暴動を起こしているとしたら? 国の中枢と話すことは絶対に重要だ。

(政府の動きに何か変化はなかったのか、ブラジリアの捜査官に聞いてみるつもりだ。しかしまさか、真野庄助がこのタイミングで国会議事堂に近づくとは。それでは自分が疑われるとわからないか? わざと? それとも自分でも調べてみようと思い始めたか? いや、写真を撮っただけというのがどうも引っかかる。例えば、Xに頼まれて国会議事堂の写真を送ってくれと言われた。いや、私のイメージでは、Xはそんな下準備は必要としない。それに、国会議事堂の写真なんてネットに転がっているか)


 報告書には他にも注目すべきポイントが幾つかあった。国会議事堂の写真を撮った後は、皇居にも行っているそうだ。そして、家に帰る前に、有瀬という表札の家に寄っている。

 有瀬、覚えておくべきだろう。


「山本さん、今後も引き続きお願いします。できれば、彼が国会議事堂の写真を撮っていた理由を知りたいです。もしかしたら、彼の日課で散歩をしていただけかもしれません。それで偶然、写真を撮りたくなった。という可能性もあります。彼のルーティーンのようなものを、探ってみてください」

「わかりました」


 アシュトンも真野庄助に関する報告書を見ていたが、今のところウェンディ・キニーより遥かに怪しい行動をしている。国会議事堂なんて、高校生が行って楽しめるような場所ではないだろう。何か、企みがあると考えて当然だ。

(いや、それは俺たちがXを追っているからそう思うだけか。高校生が国会議事堂に行ってみた。ということに、何も怪しいことなんてない)

 何もないよな? と確認するように、何度も報告書を見返した。



****


 ブラジリアで起こった暴動はこれまでと規模がまるで違った。これまでは、一つの町から始まり、徐々に国中に広がっていくという形だったのだが、今回は最初から国を焼き尽くす勢いの暴動になっている。


 こうなるともう情報統制も難しい。もっとも、情報統制なんて、アシュトンや花山院たちにとっては関係ないことだ。むしろ、調査協力を聞き入れてもらいやすくなるなど、メリットが大きいかもしれない。

(どうせ知れ渡る。それなら私は、それすらも利用する。それともXが、全世界の人々に暴動のことを知って欲しいと思っているのか? だとしたらなぜ。まさか目立ちたいからなんて理由ではない。暴動のことを知っていると、扇動しやすいのか? そういう条件付きの力か? だったらドイツ、ブレーメンでの暴動をどう説明する)


 ブラジリアに潜入していた調査員との連絡は花山院が単独で取った。アシュトンやジェームズたちには、自分たちの捜査に集中して欲しかったからだ。

「暴動が起こる前、兆候は見えましたか」

 調査員ははっきりとしない口調で言った。

「いや、その……あったと思います。その、何だか、私にもわからないのですが、どうか私の言っていることがおかしいのなら、止めて欲しいのですが、今私は、プロテスタントの奴らを憎いと思っているのです」

「憎い、と思っているのですか」


 花山院が話している調査員はCIAの中でも花山院が信頼できる数少ない男だ。任務に私情を挟むような男ではない。それでも、完璧に清純な人間と言うのは存在しないものだ。誰かを憎いと思うのは当たり前のこと。しかし問題は、調査員の彼は無神論者だったといこと。カトリックとかプロテスタントとか、気にするような男ではなかったはず。


「……いつから憎いと思っているのですか?」

「たぶん、一週間前。いや、一ヶ月前かもしれません。こう、まるで花が育つみたいなんです。憎しみは少しずつ芽吹き、その、昨日一気に芽吹いたというか。いえ、私はけっして暴動に参加したりはしていませんが、それでも、今の私の心は彼らと一緒だと思うのです」

「落ち着いてください。あなたはおかしくありませんよ……」


 なだめるものの、花山院にとって彼の報告はあまり好ましくないものだ。

(芽吹くように、一気に憎しみが……それもプロテスタントという一部の人間に対しての憎しみ。ブラジルではプロテスタントはカトリックよりも少なかったはず。少数を迫害する動き。過去にあった虐殺も、そういう差別意識から来るものがいくつかあったはず。しかしそれを、彼のような冷静で賢い男にも同じように作用させるだと? どんな方法で? 彼の言動が不安定になるほどの何かを与える方法、催眠術に近い何か? それを多数の人間に?)

「あなたの近くに、同じような意見を持つ人はいましたか?」


「何人か、憎しみを口にする大人はいました。しかし彼らは昨日暴動に参加し、軍と衝突して死にました。花山院、ブラジリアは消えてなくなりました! ここは違う! 地獄に変わってしまったんです!」

 自然とヒートアップしている。こちらが何かを言っているわけでもないのに、自分の言葉に自分が刺激されて、弁が熱くなる。まるでヒステリックなお年寄りだ。


「大丈夫です。何が原因で、プロテスタントのことを憎いと思ったのですか? 感じたことをそのまま話してください」

「わからない! 私はただ、言われていたように、ブラジリアで生活をしていただけなのですから!」

「……そうですか。では、新しい任務を与えます。無事にアメリカに帰り、しばらく家族とゆっくり過ごしてください。カウンセリングもお勧めします」

「私は本当にCIA捜査官だったのだろうか! 私は、プロテスタントを殲滅するために生まれてきたのではないか⁉ どうなのですか!」


 彼の言葉が途切れるまで、花山院は待った。

(私が知っている彼ではないのか。彼には、町の細かな変化を見逃さないように伝えている。それでも、兆候はわからない。もしも、憎しみを芽吹かせるタイミングを自在に操れるとしたら? もうそれは、人間のできることじゃない)


 報告とは言えない感情の吐露が終わると、彼は一方的に通話を切ってしまった。絶対にアメリカに戻れと、もう一度言うつもりだったのだが、仕方ない。CIA長官に伝えておくとしよう。


……

 ウェンディ・キニーに対する尾行は、本日からアシュトン・アンカースが一人で行うことになった。

 彼女の今日の動きは冬の雲のようにゆっくりとしていた。午前十時に朝食を取り、その後はしばらく、ホテルの図書館で読書をしていた。誰と話すでもない。会話をしたのはホテルのスタッフとだけだ。


(……日本に来て、ほとんど人に会うこともなく、観光地に行くのでもなく、一人で多くの時間をホテルで過ごしている。彼女、旅行が好きなんじゃなかったのか?)


 彼女が本格的に動き出したのは午後三時になってからだった。滞在しているホテルの五階にあるプールで泳ぎ始めたのだ。

 そこでアシュトンは思った。今日、彼女はホテルから出ないつもりだろう。部屋の清掃があるので、暇つぶしに泳ぎに来ただけだ。

 アシュトンは花山院に電話した。花山院はすぐに出てくれた。


「なぁ、ウェンディ・キニーに話しかけるのはなしか?」

「どうしたんですか? それでは尾行ではありませんよ。よっぽど彼女に動きがないんですか?」

「そのとおりだ。昨日の男が誰なのか、まだわかっていないんだろ? その調査を待っているんじゃあ、あまりに時間が無駄だ。大丈夫、怪しまれないようにする」


 細かく状況を観察するように言ってあるのだ。いつか尾行は見つかるだろうと思っている花山院にとって、直接話しかけるという提案はなしではない。しかしそれは、マーク・ドイルやアルデルト・ロバーツの場合だ。彼女には最初から最後まで、見つからないようにしようと思っていた。だから、もっとも追跡能力に優れたアシュトンに任せてもいるのだ。


 しかしそれも、単なる勘だ。話しかけることで、思いもよらなかった情報を得られる可能性だってある。

「わかりました。しかし、捜査のために彼女を追いかけているわけではない。偶然を装ってください。それができるのなら、話しかけてください」

「わかった。ありがとう」


 通話を切ると、早速アシュトンはサンダルと短パン、カジュアルなシャツを購入してプールに入った。

 ウェンディ・キニーがプールサイドに上がるところを見計らい、タオルを渡した。

「あなたは、この間の捜査官……たしか、アシュトン・アンカースさん、でしたよね」

「覚えていてくれて嬉しいね。六階からあなたが見えたので、つい話しかけてしまいました。迷惑でしたか?」

「いいえ。退屈しておりましたから。何か面白い話が聞けるのかしら」


 犯罪には興味がないと、言っていたのにね。


「ははは。今は捜査中ではありませんよ」

 その後、ホテル内のカフェに移動して話すことになった。プールの後、ほとんど化粧気のないウェンディは、それでも充分に注目を集めるほどきれいだった。

 コーヒーとスタッフおすすめのケーキを貰い、会話を始めた。


「それにしても、アシュトンさんが追いかけている事件は、いつになったら報道されるのでしょうね。あれほど大きなことは、すぐにでも報道すべきだと思うのですが」

 時間が経てば経つほど、どうして今更になって報道したのだ、これまでなぜ隠していたのだと糾弾されるに決まっている。


「さぁ、いつでしょうね。花山院も言っていましたが、ひた隠しにはできませんからね。それにしても、犯罪には興味なかったのでは?」

「ふふ、興味ありませんよ。私が気になるのは、暴動や紛争を引き起こす方法と、犯人の動機ですから。これでも博士の端くれなので」


 ケーキの味は絶品だった。専属のパティシエがすべて手作りしているのだろう。座席も二人で座るには明らかに余る広さ。

 ここに泊まるような人たちは、これが普通だと思っている人たちだ。様々な泥臭い仕事を請け負う多くの人たちの上に、築かれた贅沢な世界。やはりアシュトンはこういう空間が苦手だった。

 背筋を伸ばしたウェイトレスが歩いている。コーヒーと紅茶の入り混じった香りが充満している。ケーキを口に運んでみた。洗い場で使うスポンジのように思えた。


「では、心理学博士のあなたは、どんな犯人だとお考えなのですか?」

 その質問を待っていましたとばかりに、ウェンディは上品に笑った。

「案外、普通の人。なんて思っています。しかし、これだけのことをする度胸がある人です」

 普通の人、という回答にアシュトンはまず引っかかった。これまで犯人について語った、例えば花山院や高校生の真野庄助と違う意見だ。というよりも、浅い意見に思えた。


「……度胸がある人ですか。度胸も何も、これだけのことをする犯人がまともな心を持っているかも怪しいですけどね」

 するとウェンディはすぐに反論をあげた。どうやら彼女はその部分には自信を持っていたようだ。

「まともですよ。犯罪の中には、まともではないから、犯罪に手を染めることができた。そういうものが多いことは認めます。しかしこれだけ大規模なものになると、まともで、考える力があって、確かな信念がないとできません」


 そうでないと、途中で折れてしまう。もうこの程度でいいやと、満足してしまう。今回は明らかに違う。

「まともな人なら、そもそも、こんなことをしない。そう考えることはできませんか?」

「普通の人、まともな人が悪魔に変わる要因は、案外近くにあるものですよ。多くの犯罪者と話したことがあるのでしょう? そうは思いませんか?」


 今まで出会ったことのある犯罪者。思い出せるだけ思い出してみよう。いや、やめておこう。みんなほとんど話さずに殺したのだった。

 何も言わずにいると、ウェンディがケーキを一口頬張ってから続きを話した。

「あなたは無神論者に見えるから、知らないかもしれませんが、ルシファーという天使をご存知ですか?」

「名前くらいなら」

 そして堕天使だったとも記憶している。生憎、何をしたのかなんて知らない。


「ルシファーは神のお気に入りの天使だったんですよ。そんなルシファーがどうして、悪に染まったのでしょうね。人にリンゴを渡し、悪の代名詞となるまでに変貌してしまった」

 白い羽と、きっと白く美しい心を持つ天使が簡単に悪に染まるのだ。元々黒に近い人間なんて簡単に染まるさ。


「リンゴと言うと、アダムとイブの? 渡したのがルシファーだったとは知りませんでした」

「神の偉大な創造物である人間を堕落させました。神に復讐するために。魔女を使って、人間を次々に悪に誘った。魔王ルシファーの取った行為は、そこらの神より人間になじみがあると思います。希望を語り、旗を掲げ、ホラを吐き、槍を振る。ペテン師。要するに、現代における多くの国家の元首と同じです」


 興味深い話だった。天使の話はカイルに聞かせたら、神に興味を持ってくれたのかと喜んでくれそうだ。しかし今は、ウェンディがどういう想いでこの話をしたのか。捜査中ではないと言ったが、自分に容疑がかかっていることは自覚しているはず。そこが気になった。

「あなたは、神話を信じていらっしゃるのですか?」

「心理学の授業で学んだだけです。世の中を善に保とうとし、魔女を追放しようとした結果、魔女狩りという新たな悪が生まれたのです。それは……」

「我々が犯人を捕まえようと躍起になった未来を案じてくれているのですか?」


 正解とも不正解とも取れない笑顔で、ウェンディは答えなかった。

 そのとき、ニュースを読んでいたテレビのキャスターが速報を伝え始めた。

「速報です。ブラジルの首都、ブラジリアで内乱が発生しているそうです」

 そう言って映像が現地に変わった。戦車まで出て来て、戦闘の様子をはっきりと映していた。ああ、とうとう放送されてしまったのだな。


「死者は既に五千人を超えており、あ、さらに速報です。似たような事例が、各地で起きているそうです。ドイツのブレーメン。イエメンのムカッラー。エジプトのルクソール。モロッコのマラケシュ。現在確認できているのは以上五つの国と地域で……」

「ついに報道されてしまいましたね。これで私の言った魔女狩りの話も、少しは真面目に聞いてくださるのでは?」


「最初から真面目に聞いていますよ。しかしこのタイミング、いいのか悪いのか」

 するとニュースキャスターはさらに続けた。

「今! 局に内乱の首謀者だと名乗る者からメールが届きました! 英語の文章ですが、すぐに翻訳をかけますので……英語のメールは今、画面に映っているとおりです。では、翻訳したものを読みます」

 翻訳は必要ない。Xはこう言っている。

『騒ぎ立てないようにお願いします。私は、無意味な死は好みません。これまでどおり生活を送ってください』


 こんな文章を見させられても、何か大規模なドッキリや実験ですよと勘繰ってしまうだろう。そもそも内乱のことは最初から自分たちに関係なく、ほとんどの人が明日からも、これまでと変わらない毎日を過ごすだろう。内乱に首謀者なんていたんですね、と思う者もいるだろう。

 しかしXを追っているアシュトンたちは違う。


(……メール。思い切ったことを、絶対に足がつかないという自信があるのか。いや、Xに協力者がいれば何も問題ないのか? それに忘れてはいけないが、今、ウェンディ・キニーはメールを送る素振りを見せなかった。つまり、彼女ではない……)

 ウェンディは落ち着いた様子だった。


「どうせすぐに、また国の情報統制でニュースには流れなくなるでしょうね。そして明日からは、呑気な生活が始まる」

 ウェンディの言葉どおり、テレビはすぐに別番組に変わった。突然ニュースからはかけ離れたバラエティー番組だ。人気タレントたちの笑顔が眩しい。

「ふふ、これで調査がより進むといいですね」


 アシュトンの脳は忙しく動いていた。花山院たちはこの放送を見て何を思っているのか。彼女は本当に白でいいのか。他の容疑者たちは何をしていたのか。頭が働き過ぎて、余計なことばかり考えてしまう。その結果、アシュトンは突拍子もないことを言ってしまった。

「そう、ですね。そういえば、会いたい人には、会えましたか?」


「ああ、それが残念なことに会えなくなってしまいまして。まぁまた近くに会えると思うので……」

 やはり昨日の男ではなかったのだ。それもそのはずか、短い会合だったもの。ならばいつ、日本では会わないという連絡をしたのか。いや、それも部屋にいる時間が長かったんだ。何も不自然なことではない。

(では、昨日の男は誰なのか……)


 そろそろ引き上げよう。早く花山院たちと合流したい。そう思ったときだった。カフェの客が突然、悲鳴を上げた。女性の短いが警戒と注目を引き寄せる悲鳴だ。

「ウェンディ・キニー! ここでお前は死ねぇ!」

 そこにいたのはナイフを持った女。外国人、五つ星ホテルのこんな場所で、奇声をあげて突進してくる。

(……眼が泳いでいる。本気? いや、俺が今まで気づけなかったんだ。本気とは思えない……だが、本気で殺しそうな勢いではあるな。なんで? このタイミングは狙っていたのか? ニュースが流れたのは偶然? 彼女が恨まれるようなことは、いや、自然と恨まれる可能性もある。とにかく……)


 アシュトンはウェンディがどんな表情をしているのかを確認した。驚きと恐怖、ほとんどの人間が凶器を自分に向けられたときの反応と同じだ。

 アシュトンは椅子から離れると、女のナイフを持つ腕を掴んだ。ナイフを叩き落し、腕を背中に回して固定し、床に押さえつけた。

 素人の相手なんてアシュトンからすればナイフを持っていようと銃を持っていようと赤子を捻るのと変わらない。


「ウェンディさん。何か、狙われる心当たりは?」

「え? わ、わかりません……」

 すぐに警備が飛んできた。優秀な警備たちだ。この凶器を持った女をホテルに入れなければ完璧だったのだが。

 警備員が女を拘束し、外に連れて行くのを見送ってから、アシュトンとウェンディは改めて席に着いた。


「今みたいなことは、よくあるのですか?」

「そんなわけないでしょう? 初めてです。あんな、恐ろしい顔をした女性に会うのは」

 驚きが一周したのか、ウェンディはむしろ冷静になっていた。何か狙われるような悪事をしたのだろうかとこれまでのことを振り返っていた。プールの増設に反対していた近隣住民だろうか。それとも単にお金持ちというだけで恨まれたのだろうか。


「……そうだ、アシュトンさん、一つ提案があります。しばらく私のボディガードになっていただけませんか?」

「ボディガード、ですか」

「はい。どうせ私のことを調べろと言われているのでしょう? そのついでに、守っていただければ、一石二鳥だと思うのですが」

 確かにより話をする機会も生まれて一石二鳥だ。今後、今のようなことで彼女が死んでしまっても困る。

 それでも、ボディガードというと、いきなり接近しすぎている気がする。花山院に確認を取るべきだろうか。

(いや、俺も捜査員の一人なんだ。一人で判断しろよ)

 生ぬるいコーヒーを置いてから答えた。

「はい。私としても、今みたいなことを見て、心配ですからね。引き受けます」


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