第五章・取り調べ〜1〜
第五章・取り調べ
マーク・ドイルが日本警察に声をかけられたのは京都の清水寺を観光しているときだった。舞妓さんも見ることができた、産寧坂や五重塔も見た。八ッ橋の試食も堪能し、お土産もたくさん購入した。
最高の旅行だと思っていた矢先、制服を着た二人の男に声をかけられ、すべて台無しにされた。旅行先で警察のお世話になるのは初めての経験で、ついかっとなってその男二人にこう言った。
「私はイギリス人であるし、正式に日本への入国を許可された善良な旅行者だ。どんな権限で私を拘束しようと言うのだ!」
するとそこにいた男は優秀だったようで、流暢な英語で話してくれた。
「許可ならある。日本警察の許可も、なんなら英国の警察の許可も。それに拘束や逮捕をしようと言うのではない。話を聞く、と言っている」
というわけでマーク・ドイルは現在、日本に最低という烙印を押し、渋々東京に赴いたのだ。指定された場所はパレスホテルという五つ星の高級ホテル。
(まぁ、普段なら入ることすらできないような、ホテルに入れるんだ)
そう思うことで日本警察への怒りを抑えていた。
ロビーでしばらく待っていると、大きなアメリカ人が迎えに来たので驚きつつも、日本警察の無礼がどれほどのものかと、同意を求めて話をしたのだが、彼は短く、「そうか」と返すだけだった。
案内された部屋に入ったとき、そこには日本人が三人いた。やはりこれは日本警察の取り調べなのだ。日本の警察は国民のお金を使って高級ホテルで取り調べをするような怠慢集団なのだ。
このような盛大な勘違いをマーク・ドイルが抱いた状態で、花山院たちによる取り調べが始まった。
「初めまして。ご協力ありがとうございます。刑事課長の花山院です」
息をするように嘘を言うのだなと、アシュトンは何も言わずに隣に座り、目の前のマーク・ドイルがどのような男なのかを観察していた。
今回はいちおう、容疑者もしくは参考人として話を聞くのだ。破分隊が普段標的を見るように、一挙手一投足を注視しよう。
(とりあえず、機嫌は悪そうだな。そりゃあそうか、旅行中に呼び出されたんだもんな)
マーク・ドイルの開口一番はこうだった。
「初めまして。それにしても、日本の警察は随分とお金が潤沢にあるようですね」
それに対して花山院はこう返した。
「はい。凶悪犯罪を取り締まるためには、お金が必要なことがあります」
「旅行者を高級ホテルで取り調べするためにも、だな」
「制服を着た男に話しかけられただけで機嫌を悪くする人の、機嫌を直すためにも、ですね。どうぞ、座ってください」
マーク・ドイルの頬の筋肉がピクリと動いたのをアシュトンは見逃さなかった。というよりもその場の全員が見ていた。ああ、図星だったのだな。
マーク・ドイルは大人しく座った。
「さて、まずはどうして日本に来たのかを聞かせてください」
「どうしてもこうしても、ただの旅行だよ。日本に行ってみたいと思った。だから来た」
「日本に行ってみたいと思った理由は何ですか?」
「そんなもん……例えば清水寺とか厳島神社とか、そういうのを見たいと思ったんだ」
なぜ見たいと思ったのか。そこまでは聞かなかった。質問したところで、なんとなく、だったり、テレビで見たから。ぐらいの回答しか期待できない。
「あなたは、他の国々にもたくさん行っているようですね。旅行が趣味なのですね」
「ああ、そうだよ」
「どんな場所に行きましたか?」
マーク・ドイルは首を振って、イギリス人やアメリカ人がよくする、「まったく、呆れたよ」という仕草をした。
「色々さ、フランス、イタリア、ウルグアイ、ガイアナ……なぁ、まったく話が見えてこないんだが。なんだ? 俺の旅行記でも作ろうってのか?」
マーク・ドイルは続けて話した。
「それとも旅行に行きすぎですって注意しようってのか? あなたはイギリス人として、もっとイギリスで働いてくださいとでも言うのか? は! いい冗談だ! 俺のダチでもそうそう思いつかないぜ。言っておくけどな、俺はちゃんと働いている。お前たちみたいに税金を無駄遣いしたりしないぜ? 俺はネックネットワークという会社で勤務している。もう一度言うぞ、俺は善良なイギリス人だ。本来ならここで取り調べを受けるべき人間ではない! 仕方なく、付き合ってやっているんだ。紅茶一杯も用意しないなんて! は! さすが日本人だよ」
アシュトンはマーク・ドイルの話を黙って聞いていた。
(感じ悪い奴だな。こんな奴が扇動者とは思えないな)
花山院もまた、黙って聞いており、アシュトンと近い感想を抱いた。
(……調子が出るとよく話す。自分が中心になるのが好きなのか。もしくはそういう経験があるのか。勝手に自分で前提を置いて、さもそれが正しいように話す。私はまだ質問をしているだけなのだけどな。被害妄想の強いタイプ。あまり、暴動を起こせるような、扇動者としての性格には適しそうにない。それに、自分がイギリス人であることに執着、いや、プライドのようなものを感じる。そういうのは、大衆受けしないだろう)
花山院はマーク・ドイルが話し終えると、ほとんど間髪入れずに話した。
「あなたがそこで働いていることは知っています。では、どのような仕事をしていますか?」
「それを日本の警察が聞いてどうなるってんだよ……俺はそこで、ネットユーザー一人ひとりに合わせて、よりクリックしてもらえるようニュースを表示するプログラムを開発している」
ここでもマーク・ドイルはよく話してくれた。毎日のように、目が痛くなろうとユーザーがどんなものに興味を持つのかを調べる。くだらない仕事だと思うだろう? だけどな、そうやってこの企業は成長するんだ。企業の成長はつまり、イギリスの成長でもあるんだ。
「なるほど、たしかに、企業の成長はその国の成長にも繋がりますね。私もイギリスに居たことがあるので、それは嬉しいです」
花山院がそう言うと、マーク・ドイルはわかりやすく満足した様子だった。前のめりになっていた体を、ドスンとソファの背もたれに戻した。言ってやったぜ、という顔でアメリカ人であるアシュトンの顔を見た。
「そんな技術者であるあなたは、旅行好きだ。そして、これは知らないとは思いますが、あなたが訪れた地点の幾つかで、現在暴動が起き、場所によっては壊滅している」
そこまで言うと清水とジェームズが花山院を止めようとした。そうだ、暴動のことは厳格な情報統制で、まだ知られていないのだ。
「どうせ知られることです。情報統制は限界ですし、一部のネットユーザーでは既に知られていることだ。マーク・ドイルさんが知ることで、捜査には何も支障ありません」
そう言われて二人は引き下がり、花山院はジッとマーク・ドイルの目を見た。
「……おいおい、何を言っているんだ。暴動だって? 俺が行ったことがあるのはどこも、治安の良いところだし……」
「ドイツのブレーメン。私も好きなところでした。調べてみてください。現在、ブレーメンに簡単に行くことはできないと思いますよ」
マーク・ドイルはまたアシュトンの顔を見てから、スマートフォンで手早く調べた。その手際は彼が旅行好きであることをよく表していた。
「本当だ。飛行機が出ていない」
「はい。その暴動はブレーメンだけでなく、あなたが行ったガイアナでも起きています。私たちは日本警察ではなく、暴動の要因を調べる国際部隊です。後ろにいる二人はCIAですし、隣にいるのはFBIの捜査官です。あちらの男性は日本警察ですが、日本での捜査のために協力してもらっています。さて、これでどうしてあなたを取り調べしているのか、よくわかったと思います。慎重に答えてくださいね。どうして、旅行が好きなのですか?」
突然、場に緊張が走った。マーク・ドイルはようやく、本当に自分に何かしらの容疑がかけられているのだと理解し、CIAの二人は暴動のことを話したことで、より警戒を強めた。アシュトンは知らないうちにFBIの捜査官になっていた。
「本当に、色んな地域の文化を見るのが好きなだけだ。ネットでニュースを見るよりも、実際に現地に行った方が楽しめる。常々そう思っているんだ」
彼の言ったことに嘘はなかった。それは花山院もわかった。事前にマーク・ドイルの職場の同僚に話を聞いたからだ。彼は本当にそう思っているのだろう。
「あなたは、自分ならブレーメンの人々を混乱に陥れることができると思いますか?」
「そんなことは……できない。そんな、神の絶対の命令で、やれと言われてもできない、そんな能力はない」
髪の毛に遮られてはいるが、花山院の鋭い視線に変化はない。
(ここで神が出てくるか。そういえば彼の宗教の話はしなかったな。神を会話に出せば自分が誠実な人間だとアピールできると思っているのか? いや、日本人に無神論者が多くて、神という言葉にむしろ胡散臭さすら感じることを、マーク・ドイルならば知っているのではないか? だったらこれは逃げ。ジェームズとアシュトンさんがキリスト教信者だと信じて、助けを求めたくなった。しかし、怪しい行動ではない。むしろ容疑を向けられている無実の人間としては、正常だ)
アシュトンも考えていた。隣の名探偵と言われる男が何を考えているのかを。今のところアシュトンには、マーク・ドイルがただの会社員としか思えなかった。
「あまり、長く話しても良いことはなさそうですね。では最後の質問をします」
そう言うとマーク・ドイルは大きく安堵した様子だった。相変わらず、気持ちが表面に出やすい男だ。
「各地で暴動が起こっていること、どう思いますか?」
マーク・ドイルは安堵したのも束の間、気持ちを引き締めて最後の問いに挑んだ。ここでの回答で、容疑を強められるかもしれない、もうすっかり解放されるのかもしれない。自分の人生がかかった質問だ。それくらいの気持ちで挑んだ。
「その……この際隠さない方がいいと思って話すけど、俺はただ、不幸に落ちるべき人間が、不幸に落ちているのだと思う。どんなニュースがよりクリックされるか知っているか? 人の不幸に関係していたり、政治家の失敗だったり、負のニュースがクリックされやすいんだ。人の不幸を喜ぶ最低な人間が多いんだ。俺もそうかもしれないけど。だから天罰がくだったんだ」
マーク・ドイルは深呼吸のように、大きく呼吸をした。思い切って話した。人間、落ちるところまで落ちると、人の不幸を笑うことしか、やることがなくなるんだ。さぁ、私の進退はどうなる、今後は! 神様!
その祈りが通じたのかはわからないが、花山院はマーク・ドイルを解放することにした。
「そうですか。犯人はもしかしたら、神を信じているのかもしれませんね。ご協力、ありがとうございました。この後の旅行、我々のことなんて忘れて楽しんでください。あと、念のため言っておきますが、暴動のことはまだ、誰にも話さないでください。いずれテレビで流れると思いますので。それと、我々のことも秘密でお願いします」
何度も首を縦に振ってマーク・ドイルは言った。はい、わかりました。必ず、わかりました。
帰りもジェームズ・リードがロビーまで送った。マーク・ドイルが部屋から消え、しばらくしてから、アシュトンは訊いた。
「花山院、マーク・ドイルをどう見るんだ?」
「……まぁ、普通のイギリス人だなと思いました。外国人を嫌がったり、信用しなかったりする癖は、イギリス人にはよくあります。特にアジア系に関しては。最初の内はアシュトンさんやジェームズばかりを見ていましたから」
花山院は水を飲んでいた。またペットボトルの水だ。彼は飲む物は水だと決めているのだろうか。
清水が続けて訊いた。
「彼がXだと思う? 私には、そうは見えないけれど」
「はい。私もそう思います。彼には、暴動を引き起こすような知識もなければ、強いメンタルもありません。もちろん、彼が今の取り調べ中、猫を被っていなければ、ですけどね」
ペットボトルのキャップを締めて、水面を見ていた。透明で、何もない、水分子でも観察しているのか。
「なぁ、花山院はどうやってXが暴動を引き起こしていると思うんだ? 想像でいいから、教えてくれよ」
そう言うと花山院はペットボトルを置いた。そして片膝をソファに乗せ、一度外を眺めてから続けた。
「いわゆるプロパガンダ。これが、一番可能性が高いと思っています。国が戦争をしかけ、それをさも正しいと言い張るために使われる手段が、プロパガンダです」
「世界大戦のとき、ナチスがしていたようにか?」
ユダヤ人を憎めと、それが正しいとすら思わせろ。それは実際に、ヒトラー政権下のドイツで起こったことだ。
「ドイツだけではありません。アメリカをベトナムやイラクでの不必要かつ、不道徳な戦争に駆り立てた政権は、いったいどんな考えをしていたのでしょうね。どんな方法を使ったのですかね。大人しくて温厚とされている日本人が、戦時中、アジアの各地で非道の限りを尽くせたのはなぜでしょうか」
そうだ、自分たちを棚に上げて話を進めてはいけない。
「聖書では、棒や石は骨を砕くが、言葉は私を傷つけないとあります。確かに物理的なことだけを考えればそうかもしれませんが、いいえ、言葉は人を殺します」
花山院の言葉に、誰も異論を挟まなかった。もし、この場にカイルがいたら、「いいや神は!」とか言い出すのかもしれないが、アシュトンは不思議なほど、うんうん、と納得しただけだ。
至る所で暴動を起こさせる。言葉でそんなことができるとは思えないし、プロパガンダを用いるとしても、同時に複数政権を支配するなんてことは、難しいに違いない。つまり花山院の言ったことはほとんど魔法のようなものだが、Xは本当に魔法を使えるのかもしれない。そう思わせるくらいの事件なのだと、アシュトンは改めて思った。
「それでは次の方を呼びましょう。時間もいい具合です」
****
二人目の容疑者であるアルデルト・ロバーツは先程と同じくロビーで待ってもらった後、ジェームズ・リードが迎えに行った。
彼については取り調べの前に、花山院が事前情報をアシュトンたちに話していた。オランダ出身。アムステルダム大学の心理学の教授。専門は臨床心理学。
教授と聞いてとても賢い人なのだろうと思うのと同時にアシュトンはこうも思った。心理学とはまさに、暴動の扇動に適している学問なのでは、と。
そして、暴動が起きた十個の地点で彼は確認されている。容疑者の中で、群を抜いて多い。
「しかし、教授だからといって悪事をしないとは限りませんし、心理学が暴動の扇動と関係していると決めつけるのもいけません。様々な地点に居たのも、本当に偶然かもしれません。そういうつもりでお願いします」
扉が開き、アルデルト・ロバーツが入って来たとき、おそらく気のせいなのだが、知性があるなと顔を見て思った。
一人目の容疑者、マーク・ドイルよりも落ち着いた振る舞いをしているし、余計なことも言わない。ずっと好印象だ。
「おこしいただき、ありがとうございます。刑事課長の花山院です。お座りください」
花山院の対面のソファに腰掛けたアルデルト・ロバーツはとても不安そうに、眉を寄せていた。警察にお世話になることなんて、私はしていない。今にもそう言いそうだ。
マーク・ドイルと同じように、どうして日本に来たのかという質問から始まった。
「古い友人に会いに来たんです。研究について話したいと思いまして」
「研究というのは、心理学や臨床心理学の研究のことですか?」
「はい。早稲田大学に友人がいるのです。確認を取っていただいて構いません」
その確認を取る必要はなさそうだと感じ、花山院は話を進めた。
「あなたは、一般的に見て様々な国を訪問していらっしゃる。日本に来る前にはどちらに?」
アルデルト・ロバーツは素早く答えた。
「アメリカのワシントンD.C.です」
意外と国防省の近くだ。アシュトンはより注意を払って聞いた。
「学会があったんです。私の生徒が発表するので、同席しました」
「臨床心理学の学会ですよね。臨床心理学について、簡単に話していただけませんか。どんな領域の学問なのか、ということです」
するとアルデルト・ロバーツは手をさすりながら答えた。その所作も、花山院は見落とさなかったが、先に臨床心理学についてだ。アルデルト・ロバーツはこの手の質問に慣れているのだろう、端的に教えてくれた。
「日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、カウンセリング療法を思い浮かべていただければと思います。精神的なダメージ、ストレスをより効果的に解消する方法を探求する学問です。また、どんなことで、どんな精神的ダメージを負うのか、分析したりします。うつ病の改善なども、我々の領域の一つです」
確かにとっつきやすく話してくれた。うつ病など、いわゆる心の病の専門家というわけだ。そういう研究をしていれば、さぞ人の心がどのような移ろいをするのかを見ているだろう。
平穏な町が、どのように地獄に落ちるのか、あなたなら知っているのではないか。
花山院の視線は、それこそ心理分析官のようだった。
「学生さんの発表は上手くいきましたか?」
「はい。緊張はしていましたが、それなりに、なんとか、はい」
「どんな内容でしたか?」
「自殺と社会復帰に関する、ええ、論文です。あの、これはいったい、何の調査なのでしょうか」
花山院がペットボトルの水を一口飲んだとき、ちょうど飛行機が妙な低空飛行でホテルの近くを通り、ジェット音が会話を阻害した。緊急事態だろうか。取り調べは魔法でもかけられたように、一時的に止まった。
(臨床心理学の質問をしているだけだというのに、なぜ話し辛そうにする。まぁ旅行中に突然呼び出されたのだから無理もないのか。それにしてもスムーズに、それも自信を持って答えたのは最初の臨床心理学とはなんですかという大枠の質問に対してのみだ。学会で生徒の発表が上手くいったかどうかなんて、答えにくいことじゃない。答え辛い理由、例えば、この人は会場にいなかった。居たという体にして、何かをしていた。何を? 何のために。全部嘘? 自分の行動を偽装するための。だったらこのまま質問を重ねていけばボロを出すか? いや、偽装するにしても、わざわざ博士という身分にはならないか。それとも初対面の人と話すのがそもそも苦手なのか)
飛行機が通り過ぎたので再開だ。
「この調査はですね、最近頻発している世界各地の暴動や紛争に関する調査です」
先程と同じく、花山院は簡潔に暴動のことを話し、それが真実であると認めさせた。
「なんと……私が行った場所が、こんなことになっているなんて」
心の底から驚いている様子。そこに偽りはなさそうである。アシュトンの目から見てもそうだった。
「……では、その上で質問を続けますが、あなたは心理学で、どの程度のことができると思いますか」
花山院はわざと大雑把に聞いたが、ここはさすがの教授だった。すぐに質問の意図を理解し答えた。それはまさしく、私は無罪だと主張する容疑者そのものだった。
このとき、CIAの二人と日本警察の山本は思った。本当に悪事を働いた人間は追い詰められたとき、それをはぐらかそうと笑ったりする。一方で無罪の人間は怒ったり、冷静に自分のことを説明したりする。
それによるとアルデルト・ロバーツは無罪だ。もちろん、統計を完全に信じることはできないし、今回のように前例のない犯罪の犯人に、そのデータを当てはめようとするのも間違っているように思えるけれど。
「心理学は魔法だったり催眠術とは違います。その、例えばヒトラーやポル・ポトのように悪政をひいて、プロパガンダを用いて虐殺を正当化したり、そんなことは、心理学とは違うと思うのです」
ホテルの部屋に、一時の静寂が落ちた。皆、そのとおりだよ、と思いつつも、そうではないかもしれないと、二つの反する気持ちを持っていた。
「でしたら、仮に、心理学を極めることであなたが、人を思いのままに操れるのだとしたら、どんなことをしますか?」
アルデルト・ロバーツはその問いに答えるのに一分ほど時間を要した。その間、花山院をはじめ、アシュトンたちは何も言わずに待った。
「……その、正直に言って、想像もつきません。ただ、誓って、悪事に手を染めようなどとは考えません。何か、正義の役に立つことをします」
その答えが合っていたのかと、誰か丸を付けてくれと訴える目で花山院以外の捜査官を次々に見ていた。
花山院は一つ息を吐いてから言った。
「わかりました。お時間を取らせて、申し訳ありませんでした。お帰りいただいて結構です。ですが、またご協力いただくかもしれませんので、そのつもりでお願いします。あと、暴動や紛争のことは、内密でお願いします」
アルデルト・ロバーツはすっかり気分の悪そうな表情で、頬も来たときよりも痩せこけたと思えるほど疲れていた。
水をごくごくと飲みながら花山院は取り調べを振り返っていた。
(誓って、正義に使うか。芝居がかったセリフだ。だが、演技をしているのだとすれば、むしろこんなセリフは言えないはずだ。疑われて当然だから。それとも、それで構わないと思っているのか。気弱、いやどうだろう。親しくなったら、とてもよく話しそうな人柄だ。心理学に関する見解も、概ね私と同じ。だからこそ、可能性はある。少なくとも、マーク・ドイルよりは)
エントランスまで見送りに行っていたジェームズが戻って来ると、彼は花山院に早速訊いた。
「アルデルト・ロバーツ。あんな心の弱そうな男が教授をしているとはな。私には、あの人が犯人だとは思えないのだが」
「心の強弱は、教授という職にはあまり関係ないのでしょう。まぁ彼は、少し注意しておきましょう、くらいですかね」
「へぇ、花山院は怪しいと思っているのね。私もジェームズと一緒で、彼を怪しいとは思えなかったのだけど。普通の教授という感想くらいしか持てなかったもの」
すると花山院が座ったまま、首だけを動かして清水をグッと見た。
「普通の人が真っ黒に染まることが不思議ではないと、皆さん知っているはずです。なので彼がXでもおかしくはありません。私は例えば、ここにいる誰かが犯罪者になっても、少しも驚きませんよ」
アシュトンはその言葉に、自分を顧みた。どうだろう、自分が犯罪者になる可能性なんてあるのだろうか。それとも、もうなっているのだろうか。たくさんの人を殺してきたアシュトンは、手遅れかもしれない。
許された殺しをしているが、そんなもの、本来は存在しないのではないか。
清水が続けて言った。
「……そう。私が犯罪者ね。私自身は、とても想像できないけど」
「清水さん……母親というのは、子供が危険となったら、どんな馬鹿げたことでもやりかねませんから」
花山院の独特な一瞥と共に放たれた不気味な言葉に、何か想像を働かせてしまったのか、腕を組んでから言った。
「ええ、そうね。重々承知しておくわね」
奇妙な間ができてしまったので、アシュトンはてきとうな、それでいて捜査に関係のありそうな話題を提供した。
「さっき、アルデルト・ロバーツが言っていた正義についてはどう思う?」
「どう思う、と聞かれても、私は哲学者ではないので。しかし、言えることはありますよ。この場では、正義なんて言葉は必要ない、ということです」
続けて花山院は言った。
そもそも完全で、誰もが共通して抱く正義なんてものは存在しない。絶対に、誰かがその正義に押しつぶされている。徳川家康がもたらした江戸幕府は平和を与えた正義かもしれないが、そのために死ぬ必要のなかった多くの武士が死んだ。ジョージ・ワシントンはアメリカ建国の父ではあるが、先住民を徹底的に排除した悪魔かもしれない。
「正義、それは自身を正当化するために使う、ちんけな言葉。それくらいに捉えてください。捜査には邪魔です。我々は必要ならば人道に反するようなこともします。今回の邪悪、Xを追い詰めるためには、正義に頼っていてはいけないかもしれないので」
アシュトンは、図らずも感心した。なるほど、国防省が彼を疎ましいと思う一方で、頼るわけだ。
「そうだな。だったら俺たちは、正義から外れる間、その邪悪に魅了されないようにしないとな」
アシュトンがそう言うと、花山院は少し目を大きくして微笑んだ。
「ええ、そうですね。どんなときでも、これは悪人を理解するための鉄則でもあるのですが、皆さん学生の頃、腐ったリンゴの話を聞きませんでしたか?」
皆が頷きながら、そんな話があったなと思い出していた。確か、腐ったリンゴは、その樽に入っている正常なリンゴも腐らせてしまう。ひいては人も一緒である。
「あれは正しいのかもしれませんが、我々は、腐ったリンゴのみに注目してはいけません」
犯罪者というリンゴを取り除くだけで満足してはいけない。
「なぜ腐ってしまったのか。つまり、腐っていなかったリンゴが、どうして腐ってしまったのか。時々存在するリンゴを腐らせる樽はどこにあるのか。それはどんな性質で、どのように作られていて、そして、誰がそれを作っているのか。これが、悪の根源です」
花山院はまたも水を飲んだ。彼はよく飲む。おそらく訊いたら、脳に水分を与えるためです。水分がないと思考力が落ちます。とでも言うのだろう。
「それを突き止めるのは、大変だな」
「そうですね。だから、警察が必要なんです。それでは、次の方をお呼びしましょうか」