第一章・発端
プロローグ
ジョージア州の昼下がり、心地良い晴天。緑の豊かな公園。アシュトン・アンカースはベンチに座り、自然の美味しい空気を味わっていた。
若い男がこんな時間に公園にいるのは珍しいと思ったのか、小さな男の子が走り寄って来た。
「お兄さん、何してるの?」
「ああ。何でもないよ。私はいいから、気をつけて帰るんだよ」
子供は「ふーん」と言うと、走って去った。
一人、こんな自然豊かな場所に居ると、嫌でも記憶が掻きむしられた。最も新鮮で、最も色濃く残っている任務の記憶。
これは、アシュトン・アンカースと、彼が知る限り最も優れた探偵と、最悪な犯罪者の物語だ。
第一章・発端
一つひとつの死で涙を流すほど、善良で健康的でとても共感性の高い心を保つには、あまりに多くの死を見過ぎていた。
最も見慣れた死は、銃弾によるものだ。いったい何度そのシーンに遭遇したかについては、数える気なんて起きず、何かしらの方法で数えることができたとしても、遠慮するだろう。強力な貫通力を持つ狙撃銃ではなく、一般に広く流通する銃で撃たれた場合、その銃弾は体内で何度も跳ねて、体組織をぐちゃぐちゃにして、そんなところから飛び出るのかという場所から、体内を脱出する。
では、貫通力が高ければいいのかというと、そうとは限らない。頭部を撃ち抜かれた場合、頭はぱっくりと開いて、赤くなり、脳漿が飛散する。
身元の判明も難しいような酷い交通事故を見たことがある。瞬き程の僅かな時間だ。それくらい一瞬で頭が潰れていた。最初からこれは人形でしたと言わんばかりに、簡単に潰れ、赤い綿が、体を花瓶に見立てて咲いていた。
首吊り自殺を見たことがある。この自殺は銃を手に入れにくい国では人気の自殺方法なのだが、いかんせん後処理が大変だ。死後、尿や血液といった体液がすべて床に流れ落ち、ピチャピチャと床や壁を汚す。時間が経つと遺体が床に落ちて、さらに腐敗液を飛散させる。そのときの首は、どうなってしまうと思う?
このような経験が起因したのかは知らないが、アシュトン・アンカースはイェール大学在学中に軍からスカウトを受けた。
スカウトの話を貰った当初は何かの間違いだと思った。黒服の筋骨隆々のサングラスをした男がスカウトに来た、というわけではない。私服の愛想笑いの上手い若い男性だった。
仕組みはこうだった。軍は多くの大学に、講義の時間に幾つかのテストを差し込むように要請した。もちろんそれは、軍によるテストとは気づかれないように行われる。推理テストや純粋な知能テスト。性格診断。それらのテストで高得点を取った者の、経歴、家族構成、容姿、運動能力等を調べ上げ、さらに選別。そして残った者に対して、面接をする。厄介なことに、この面接も軍によるものだとはわからないのだ。
研究室に入るための面接。その形を取り、教授と軍が連携していたので、生徒たちが判別することなんて不可能だ。
いったい、どんな採点基準だったのかは知らないが、アシュトン・アンカースはそのテストをパスし、国防省に必要な人材だと認められたらしい。
そういう経緯でスカウトがきた。友人たちとアメフトの試合で馬鹿騒ぎをしているところに、空気を読まずにやって来た。
「あなたを情報軍、破分隊に招待します」
先にも言ったように意味がわからなかった。そもそも自分は軍になんて向いていないだろう。スカウトにもそう言ったが、どうやらアシュトンの意志を無視した大きな力が働いていたようで、半強制的に軍に入隊させられた。
今にして思い返してみると、あのテストはとても優れたテストだったと認めざるを得ない。自分は軍人、もしくは暗殺者に向いているのだろう。
訓練を得て、何丁もの銃で、何発もの銃弾を人に叩き込んで命を奪ってきた。もう眉一つ動かさず対象を殺せる。ハンバーガーを食べながら暗殺をしてくださいと言われたら、たぶんできるだろう。吐き気を催すことなんてない。まぁ、痕跡が残るので絶対に実行はしないけれど。
今も標的に銃弾を浴びせるために、悪路を走るトラックに乗り込んでいる。
アシュトン・アンカースが何者なのか。一言で言ってしまえば殺し屋。国から認められた、殺し屋集団の一員だ。
大統領なり国防総省から送られてくるキルリストに従って、標的を殺す暗殺のプロ集団だ。
名を秘密情報捜査隊破分隊。陸軍、空軍、海軍、情報軍、海兵隊。その中で体裁上、情報軍の派生とされているが、実際のところは国防省と大統領の直轄だ。
そのおかげで、臆病で責任逃れに執着する議員たちの意味のない議論を華麗に飛ばし、Amazonのお急ぎ便なんて目じゃない速度でキルリストが送られてきて、行動に移せる。
一時も安らぐ暇もないほど揺れるトラックではあるが、アシュトンにとっては慣れたものだ。これから使うことになるはずの武器に関してもすべて整備を済ませてある。キルリストの情報には何度も目を通した。そのため今、アシュトンは暗殺とはまったく関係のないことに頭を使っていた。
アシュトンが殺した最も新しい人間についてだ。
先日、スーダンでの任務を終えてジョージア州の自宅に帰ったときのことだ。アシュトンの帰りを待ちわびていたように、玄関を開けるのとほとんど同時に固定電話が鳴り始めた。
誰もいない家。静かで、一人で住むにはあまりに大きな家。大きめな庭があり、大型犬もストレスなく暮らすことができるだろう。
この家はアシュトンが以前、ガールフレンドと共に購入したものだ。二十六歳のアシュトンが、どうしてローンも使わずにこんなに大きな家を購入できるのだと、ガールフレンドは驚いていた。
理由は簡単で、破分隊に属しているからなのだが、もちろんそのことは言えない。公安やFBIが自分の職を偽っているのと同じで、アシュトンは新聞社に勤めていることになっている。
「ジャーナリストってそんなに高給取りだったかしら」
彼女は疑問に思っていたが、家自体には喜んでくれた。犬も飼いましょう、子供ができたらこの部屋をあげて、私たちは……そんなふうに、明るい未来を語っていた。
しかしアシュトンの本来の仕事は、そんな明るいものではない。たとえプライベートと仕事を切り分けるのが世の中の常識だとしても、殺しという暗黒な仕事は、どんな明るい生活も黒く染めてしまう浸食力を持っている。
そもそも新聞社に勤めているというのに、無理があったのだ。もちろん新聞社は、家族や彼女がアシュトンのことを訊くために電話をしても上手く言ってくれることになっていた。それでも、一ヶ月の内、二十五日も家に帰らないなんて戦時中の兵士のようなことが、新聞社に勤める男にあり得るのだろうか。
結局いつの間にか、彼女は別の男を作り、家を出ていった。そのときアシュトンが悲しみに打ちのめされたのかというと、そうではない。
任務で疲れていたのかもしれないが、「ああ、そうか」と思っただけで、すぐに次の任務の準備に頭を切り替えていた。
と、そんな彼女の事情は重要ではない。アシュトンが家に帰ったとき、貰った電話が重要だ。病院からの電話だった。
「アンカースさんですね。バーミューン病院です。お父様のことでお話がございます」
父が入院しているフロリダの病院だ。父はもう五年近く入院している。
父は元軍人で、二つの戦場を経験している。アシュトンは父が一度イラクへ戦いにいく後姿を見ていた。
無事に帰る保証なんてもちろんなかったので、遺書を書いていたのだが、結果としてそのときは必要なかった。父はやつれた顔で帰って来たのだ。アシュトンがまだ、小学生の頃だった。
母もアシュトンも父の帰りを喜んだ。しかし、最初だけだ。戦地で多くの死を見てしまった父の心は壊れてしまっていた。
毎晩のように母に暴力を振るうようになり、アシュトンには酒を注ぐようにと強制し、飲ませようともした。それは母が何とか防いでくれたのだが、代わりに母が殴られた。
あの優しかった父はどこにいってしまった。イラクに置いてきてしまったのか。
それでも母は軍人の妻である自負があったのか、父を助けるのは自分の責任だと思っていたのか、長いこと父に寄り添っていた。
あるとき、アシュトンが父に注意をするまでは。
昼から酒を飲んでいる父に、アシュトンが良い大人なのだからやめなよ、と言ったのだ。それは、その状況において言ってはいけないことだったのだろう。思えば、母は一度も父を注意してはいなかった。
その禁忌とも思える一線を、ガキで何もわからなかったアシュトンは易々と越えてしまった。
父はこれまでと比肩できないくらいに激怒した。アシュトンを殴り、家財を壊した。近所の人が警察に通報する騒ぎにまでなった。
そこで母の何かの糸が切れてしまったのだろう。事態の収拾がついてから、母は首を吊って自殺した。というわけで、アシュトンは首吊り自殺を目撃した。
遺書があった。細かい内容をアシュトンは覚えていないが、鮮明に覚えている部分がある。
『弱いお母さんでごめんなさい』
アシュトンは思った。いいや、お母さんは弱くない。僕がお父さんに何も言わなければ、きっとお母さんは今もお父さんの横で頑張っていたんだ。
(弱いのはお父さんで、悪いのは僕だ)
その数年後、アシュトンが大学に通っている最中に、父は自殺をしようとした。未遂に終わったのは、リストカットが浅かったから。ここでも弱かった父は、最後の一線、その手前で躊躇したのだ。
病院で一命は取り留めたものの、出血が多かった。脳にダメージが残り、植物状態になってしまった。
破分隊のスカウトとのやり取りが始まった時期でもあり、いちいち父に構っていられなかったアシュトンは病院が提案してきた延命措置にてきとうにサインをした。
この電話は、その延命措置中の父に関することだ。
「はい。父に、何かありましたか」
「いいえ。容態に変わりはありません。今後の治療についてご相談したいことがございまして、近いうちにドクターとお話できないでしょうか」
さすがにガキではなかったので、この、アシュトン家に連絡させられている看護師か事務員の方が、何を言おうとしているのかはわかった。
「わかりました。明日でどうですか?」
「ありがとうございます。では、明日の……」
そして翌日、バーミューン病院にてドクターと話を始めると、アシュトンの予想はまさしく的中しているのだとわかった。
延命治療中断の同意書。そういう書類にサインをしてはくれませんかという話だ。ドクターは心中お察ししますと言わんばかりに(実際に言ったのかもしれないが)悲しい顔をし、丁寧に説明をしてくれた。
「その……お父様の状態は改善する兆しもなく」
このまま、生きているとも生きていないとも判別のできない状態を長引かせるよりも、あなたは、あなたの時間を大切にするべきだ。
「お父様も、あなたが身を削って延命治療の費用を捻出することを、望んではいないでしょう」
近くにいた看護師は医師よりも涙もろいのか、目を赤くして何度も何も言わずに頷いていた。
申し訳ないが、このときアシュトンはドクターの話をほとんど聞いていなかった。思い返していたのだ。父が拳を振り上げた日のこと、戦争に出かけた日のこと。そして壊れ始めた家族。
悲しい話をするには不釣り合いな、澄んだ青空と、太陽を嬉しそうに浴びる中庭の花々が見える応接室で、延命治療中断の同意書にサインをした。細かい字の注意書きを読むこともなければ、ドクターの話をちゃんと聞くこともなかった。
このような流れで、アシュトンは銃もナイフも使わずに父を殺した。まぁ、もともと死んでいたようなものなので、アシュトンが殺したというのが正しい表現なのかは曖昧ではある。さらに言うと、自殺を助けてあげたという言い方もできるが、彼自身、自分が殺したと思うことにしている。
(今にして思えば、父さんの方がよっぽど人間らしいよな)
戦場で敵も味方も多くの死を見て、心を痛めて、精神を病んでしまう。それとは対照的に、死を目の当たりにしようと躊躇いなく次の任務へと向かう暗殺ロボット。それがアシュトン・アンカースだ。
一際大きな振動がして、アシュトンの意識は現実時間に戻った。手元のアサルトライフルが視界に映った。
「あと五分で出動だ。アシュトン、準備はできてるのか?」
同僚のカイル・アパトーが話しかけてきた。彼とは長い付き合いだ。殺しの後の飯を何度も食べた仲だ。
アシュトンと同時にスカウトされた男で、優れた殺しの腕を持っている。もちろん、トラックに乗り込んだ破分隊の四名全員、優れているのだが。
「もうできているよ、カイルこそ、帰ったら速攻カウンセリングなんてことにならないようにな」
「あれはカウンセリングじゃない。神へ許しを乞うているんだ」
カイルはかなりキリストに傾倒している男だ。自分のすること成すこと、神が許してくれる、神がこうおっしゃるから、と神をどうにか理由にしないといけない面倒な男だ。
その話を聞く度に、ただのこじつけ、と思ってしまうアシュトンは無神論者だ。神に意思をゆだねるよりも、自分の価値観に従うべきだと思ってしまう。
(それに、神がいるのなら、こんな暗殺の仕事が、この世に存在するわけがない)
そう言うとカイルの怒りを買ってしまう。任務前にそんな面倒事はごめんなので、アシュトンはキルリストと共に送られてきた対象の資料に目を通すことにした。
暗殺に必要なことと、そんなことまでという情報の載った不思議な資料だ。顔写真はもちろん、身長体重、出身地、宗教、妻子の有無、平日と休日の行動パターン。
それらを眺めていると、横にいるカイルがこう言った。
「今回の任務、どう思う? 俺にはこいつが、単なるインド人にしか思えないんだ」
休日は別として、任務中はクリスチャンとよく意見が合う。キルリストと資料を見る限り、これから殺しに行く、デビ・アンシュという男性は確かに変哲のない実業家に見える。一見、アメリカ国防省が危険性を感じるような男には見えない。
しかしそれは今に始まったことではない。基本的に兵士には「なぜ」の部分は降りてこない。国防省や上層部の意識に従いなさい。
昨今の考え方から非常にずれているとは思うが、これが兵士にとっては実は大切だったりする。いちいち、戦う意義や自分の正当性を考えていては精神が持たない。
上が決めたから正しい。正しいから正しいという、頭のネジの外れたトートロジーでちょうどいい。
そのことを、特にカイルは理解しているのだろうけれど、それでも彼は考えてしまうようだ。どうしてキルリストに載っているこの男は死ぬ必要があるのかと。
「この前の任務だってそうだった。まるっきり、ただの市民だったじゃないか。殺したところで、この世界のプラスになったなんて思えない」
「世界中で頻発している暴動を止めるためだ。国防省はそう言っていたな」
教えてもらえたのはそれだけだ。ことの始まりはドイツ、ブレーメンで起きた暴動だ。市政に対する市民の暴動は最初、学生を起点として起きた。それは次第に大きくなり、ブレーメン全体を覆う大きな騒ぎになった。
そして何を思ったのか、警察は暴動を鎮めるために勝手に動き出した。銃を撃ち、警棒で市民を叩き始めた。結果として、両陣営合わせて二十万人という死者を出した。負傷者はもっと大勢いる。
暴動がブレーメンだけで終われば良かったのだが、その火種は空気感染するウイルスのように世界各地に飛び火し、野原に広がる炎のように勢いを増した。
世界のリーダーたるアメリカはこう考えるようになった。暴動を扇動している黒幕がいる、と。
そう決まってからは黒幕と思われる人間を次々にキルリストに書き込み、秘密情報捜査隊破分隊に殺せと命じているわけだ。今のところ、効果はない。現在、世界二十の地点で暴動が起こり、政府と一般市民が血を流している。
「アシュトンはデビ・アンシュを殺せば、今度こそ暴動は止まると思うか?」
キルリストと資料を置いて答えた。
「止まるかもしれないし、止まらないかもしれない。だけど、今の俺たちには関係のないことだ。さぁ、行くぞ」
蒼い月が昇っている。予定していた時刻きっかり、破分隊の四名はトラックから降りた。場所はイエメンの海岸沿いの町、ムカッラーのはずれ。現在、暴動が起きている二十の地域の一つだ。
直接ムカッラーの中心地に行かなかったのは、武装した市民たちが町への侵入を許そうとしないからだ。足音を消して、ひっそりと入り込まなければならない。
侵入経路は予め決めたものがあった。アシュトンを先頭にして、部隊はすんなりとムカッラーに入った。
アシュトンの一つ後ろを走るカイルはムカッラーの町を見ながらこう言った。
「暴動なんて言葉で収めていい状態じゃないな。これはほとんど、紛争だよ」
アシュトンも横目で町の様子を見る。確かに酷い有様だ。何度か本当の戦争や紛争の地に足を踏み入れたことがあったが、そこと遜色ない。
処理できていない死体が道に横たわり、ハエや蛆がたかっている。窓ガラスがくだけている、街灯が点いていない。コンクリートに大きな亀裂が入っている。不細工に掘られた穴に人が入っていそうな袋が大量に捨てられている。凄まじい異臭が蔓延している。いずれ病気も流行り出すだろう。
そんな地獄のような町を破分隊は誰にも見つからないように疾走した。破分隊の特殊迷彩服と暗闇を利用してしまえば、素人に見つかることはまずない。目的の場所はムカッラーの人々が言う反乱軍の中心地となっている基地だ。
この町にしては立派に原型を保っているホテルが、反乱軍の基地になっている。
「しかしリーダー、インド人のこいつが本当に黒幕だとして、どうしてイエメンのこんな辺境の町をターゲットにするのでしょうね。もっと大きな町や、そもそもインドの町をターゲットにしないんですかね」
リーダーというのはアシュトンのことだ。
「インド人だったらなおさら、インドをターゲットにはしないだろう。自分の育った町で暴動が起きる様子を想像してみろよ。嫌だろう。黒幕は、ただ自分の力を試したい、自分勝手な奴、俺はそう思っているよ」
そんな話をしている間に反乱軍の基地に到着した。地上二十階、地下二階の大きなホテルだ。今は身だしなみを整えたドアマンの代わりに、土埃と血に汚れた兵士が警備をしている。
「どうしますか、さすがに正面からというのはリスクがありますよ。今回のオーダー、やり方は指定されていません。デビ・アンシュが出て来るのを待って、狙撃か刺殺にしますか?」
やり方は指定されていない。国防省が何としても暴動を止めたいと思っているのが伺える。しかし勘違いしてはいけないのは、あくまで暗殺だということ。このホテルを丸ごと爆破して、デビ・アンシュとその他大勢を殺すというやり方は禁止されている。
スマートに、アメリカの仕業だと気づかれないように、任務を遂行せよ。私たちはそのやり方に詳しくないので、現場に任せる。
承知しました、大臣。
メンバーが提案してくれた作戦もなしではないが、時間がかかり過ぎる。任務時間に制限はないので、どれだけ時間がかかろうと大した問題ではないが、一体誰が、こんな町に長居したいと思うだろうか。
と、効率的な作戦を考えているときだった。百メートル離れた暗闇から銃声が聞こえた。破分隊は息を潜め、より自然に溶け込んでやり過ごそうとしたのだが、その銃声が自分たちに向けられたものでも、政府軍との衝突のためでもないとすぐにわかった。
破分隊は念のため確認に向かった。そこは町の噴水広場で、暴動が始まる前は住民の憩いの場所だったと思われる場所だった。銃の代わりにコーヒーや犬のリードを持ち、今日は良い天気ですねと他愛のないやり取りがされ、敵として戦っている警官隊も、以前は雰囲気の良い町のお兄さんという具合で挨拶を交わしていたのだろう。
今、噴水広場は惨殺ショーの会場となっていた。
「お前はどちら側の人間だ! 答えろ!」
政府側か反乱軍側か、どちらなのだ。椅子に縛り付けられて、銃を向けられているのは少年だ。いや、銃を持っているのも少年だ。泣きながら銃を構えている。泣いていないのは大声で質問している大人だけだ。
「我々の時間は貴様と違って一秒が貴重なものだ。今後はイエメン全土と戦わなければならないのだ! さっさと答えろ!」
政府側であれば殺されるし、反乱軍側だと言えば、銃を持たされて戦わされる。そして今、少年自身がされているように問うのだ。お前はどちら側だと、望まない回答ならば引き金を引かなければいけない。たとえ相手が友達でも、家族でも。そして隣町に行き、再び同じことをする。好きだった女の子がいても、引き金を引かないと、自分が殺される。
殺人者の列に加わるか、逃げて死ぬか。
「ぼ、僕はどちらでも……」
少年の弱い声の後に、蹴散らすような火薬の破裂音。無抵抗な少年の心臓に銃弾が叩き込まれた。
「惨いことをする」
アシュトンの横で、カイルが十字を切っていた。
見る限り、少年はまだまだたくさんいる。これから、いったい何人が殺されるだろう。アシュトンはざっと、広場にいる武装した男たちを数えてみた。それほど多くない、加えて相手は素人だ。破分隊四人で制圧できるだろう。
目の前の少年たちを助けることは、アシュトンたちならばできるのだ。しかし、四人は一人も動こうとしなかった。カイルでもだ。
確かに助けることはできるかもしれない。しかし、それは一時的な処置に過ぎない。食べ物のない子供たちに、食べ物を与えたとしても、何の解決にもならないのと同じだ。ここで助けたとしても、違う場所で同じく少年たちは惨殺され続ける。食べ物を供給されなくなれば餓死してしまう。
惨殺を防ぐには暴動を起こし、町や国を狂わせている黒幕を処理しないといけない。食べ物がないのなら、食べ物を作る方法を学ばなければならない。
というわけで、アシュトンたちは目の前の数十人の少年たちの死を見過ごすことにした。
(考え方一つだ。ここで少年たちを助けて黒幕に逃げられたのなら、俺たちは結果として、助けられたはずの、より多くの人を殺すことになる)
そう思うと少年たちの可愛らしい顔をきっぱりと忘れることができる。破分隊はすぐにホテルの近くに戻った。
作戦は既に幾つか考えついていた。兵士の服を盗み、ホテルに潜入する。狙撃銃で撃てる場所にデビ・アンシュがのこのこと出て来るまで、ホテルの窓を四方から監視する。
もう一つ、外で騒ぎを起こし、政府軍の襲来だと見せかける。デビ・アンシュはそれに慌てて外に出て来る。そこを叩く。
アシュトンは最後に思いついた作戦を取ることにした。混乱に乗じた殺しも暗殺の一種だ。
(それに、騒ぎを起こせば、あの惨殺も中断するしかないだろう)
アシュトンは他三名に簡潔に作戦を伝えた。火薬を少量使い、騒ぎを起こすのはカイルをはじめとして、アシュトン以外の三名。暗殺はアシュトン一人で行うことにした。
「デビ・アンシュが正面から出て来るように、ホテルの背後を爆破してくれ。常に姿を隠すように、必要なら敵の服を着てもいい。再会したとき、合言葉の確認を忘れるなよ」
「了解」
アシュトンを除いた三人は一斉に動いた。作戦は簡潔にしか伝えていないが、彼らにはそれで充分だ。
僅か五分ほどでムカッラーの町で爆発が起こり始めた。作戦開始だ。
(……いいぞ。上手くやってるな)
あとはアシュトンが、デビ・アンシュを見逃さないよう、神経を張り詰めて玄関を監視しているだけだ。
(……暴動の首謀者とは、いったい何なのだろうか。二十の国を、ほとんど紛争、内戦状態に陥れる地獄の運び屋。どうやって? 国防省は、その手法はわかっているのだろうか。デビ・アンシュが銃を一つ撃てば、市民が暴徒と化すなんて、まさかそんなことを考えているわけではあるまい)
そこまで考えて、アシュトンはすぐに頭を真っ白にした。破分隊に「なぜ」は必要ない。さぁ、いよいよ殺しの時間だ。
騒ぎが町に広がっていく。襲撃だ、襲撃だ! 野太い男たちの声がする。そうだ、政府軍が君たちの指導者が居る基地のすぐ近くまで来ているぞ。早く対応するのだ。その間に、破分隊がこの馬鹿げた暴動を止めてやる。
アシュトンは集中しきったスポーツ選手さながら、正面玄関とその周囲の監視に全神経を注いでいた。そのおかげで、アシュトンはすぐに気づいた。数名の護衛と共にホテルから出て来た男が、他の数多居る男とは違い、キルリストに載り、アメリカ国防省に死の宣告をされた男、デビ・アンシュだと。
アシュトンは動いた。古典的なやり方ではあるが、混乱時には非常に効果的な武器。煙玉を投げ込んだ。方法は古典的でも、使用する煙玉は最新鋭だ。白煙はあっという間に広がり、視界を潰した。こうなればもう、デビ・アンシュ一人を捕らえるのは造作もないことだ。
アシュトンは煙に飛び込み、デビ・アンシュの首を掴み、茂みに隠れた。影武者でないことを確認するために、顔をナイフで斬った。どうやらマスクを被ってはいない。
そのナイフをそのまま首元に当て、アシュトンは訊いた。
「デビ・アンシュだな。どうやって暴動を扇動した。引き金はなんだ。何が目的だ」
温厚だったこの町の人々を、どうやって野蛮人にした。そんなことをして、お前に何の得があるという。
「さあ、何のことかわからないな」
「とぼけるなよ。これまで暴動が起こった地域の多くで、お前の存在が確認されている。まさか偶然だなんて言わないよな」
武装した男たちがデビ・アンシュを探し回っている。あまり時間はかけられない。数秒後には、喉元のナイフに力を入れて、斬り裂かなければならない。早く答えろ。
「なかなか、調べているんだな。しかし、私は何もしていない」
「なんだと? この期におよんで……」
「私は指示に従っているだけだ。あの方の」
無線を通して声が聞こえた。カイルからの無線だ。まだ暗殺は完了しないのかと急かしてくる。アシュトンは睨みつけるその瞳を緩めることなく訊き続けた。
「あの方とは誰のことだ。お前が暴動の先導者ではないのか」
「私なんか、あの方の傀儡に過ぎない。ふふ、あの方が、この世界を変える。お前もおかしいと思ったことはないか。この世界、少し生まれる場所が違うだけで、大きな差が出ていることに」
気にしたことがないかもしれないが、先進国に生まれることはそれだけで奇跡なのだ。
「君は食べ物に困ったことはあるか? 友達が餓死したところを、見たことはあるか? 搾取の王であるアメリカ人のお前では、ないのだろうな!」
「黙れ、俺が質問している。さっさと答えろ」
カイルの声が聞こえる。早く離脱するぞ。囲まれたら厄介だ。握るナイフに力が入り始める。少し、横に動かせばこの男は死ぬ。
そんな状況で、デビ・アンシュは両手を上げた。戦時中、異常なまでのカリスマ性を発揮していたヒトラーに、国民が万歳をするように。
「あの方は、世界の救世主である! 私はお仕えできて、幸せでありました!」
サクリと、ちょっとした音がして、デビ・アンシュは大量の血を吹き出しながら倒れた。アシュトンはその場を離れ、無線を使った。
「任務完了だ。帰投する。トラックで落ち合おう」
了解、という揃った声のあと、カイルが続けて言った。これで、暴動はなくなるのだろうか、と。
たった今、デビ・アンシュが言ったことが本当ならば、暴動がなくなることはない。むしろ、もっと過激になっていくのかもしれない。
万歳をしたまま、笑顔で倒れているデビ・アンシュを見ながら、胸の中の不可解な感情を抑えて答えた。
「さぁ、どうだろうな。俺たちは……そこを考える必要はないんだ」
武装した男たちが近づいてきた。デビ・アンシュが死んだことなんて知らず、神を探し回る信者と同じように、血眼になって探している。
息を殺し、アシュトンは暗闇に溶けてその場を後にした。