その3
河東に肩をつかまれ、あわてて踏み出した足を引き戻す。
河東は振り向いた俺の顔を見ることもなく、持っていたライトで俺の足もとを照らしながらいった。
「階段です」
ライトの光で確認すると、下への階段が暗闇の向こうに消えていた。
金属製の防火扉は直角に開ききり、書庫の壁と同じ幅の階段が階下に向かって延々と続いているように見えた。
「いきますか」
俺が頷く前に吉村が進み出した。
吉村はスマートホンの明かりしか持たなかったため、河東がライトで先を照らしてやっていた。
階段は尋常じゃないほど長く、振り返ると書庫の明かりがかなり遠く見えていた。
やがて通路にたどり着く。
後方を見上げると書庫の明かりがはるか遠くの街灯くらい頼りなく小さく見えた。
通路の先へと進むと、その光は完全に見えなくなった。
あとは河東が持つライトだけが頼りだ。
「なんですか、これ……」
吉村の呟きに俺達が注目する。
そこには部屋があった。
かなり前の造りのようで、何度も改修工事を経た現役の庁舎に比べると隔世の感が拭えなかった。
うまくたとえられないが、小中学生時分に見た老朽化した校舎の職員室のようでもあった。
「高城さん」
振り向くと河東は出入り口の上にある表札をライトで照らしていた。
くいと顎をしゃくる。
そこにはこう書かれていた。
「ぼう殺、課……」
「ええ」
眉間に皺を寄せ河東が続けた。
「忙しい方じゃなくて、忘れる方の」
河東に促され、改めて確認してみる。
確かにそうだった。
そこには『忘殺課』と書かれてあった。
『忙』殺ではなく、『忘』殺。
これはどういうことだ。
ガラガラという音で我に返る。
吉村が鍵のかかっていない引き戸を開けたのだ。
「おい」
河東の制止も聞かず、吉村が室内に入っていく。
俺達もそれに続いた。
「電気のスイッチ探してみます」
そういって河東が右手の壁を調べ始める。
俺は吉村に続いて左手側へと進んでいった。
河東のライトと吉村のスマートホンの明かりから察するに、この部屋も相当な広さがあるようだった。
上階の書庫と大差ない広さの室内に、事務机がびっしりと納まっていた。
何列も大机が連なるその様は、まさしく学校の職員室のようでもあった。
光の先にちらりと見えたそれに違和感を感じ歩み寄る。
入り口とは反対側の、窓際に向かって。
懐からライターを取り出し、まじまじと確認する。
木製の窓枠にはガラスがはめられていたが、その向こう側はこれも古臭い木製の雨戸でふさがれているようだった。
おかしい。
地下何階相当かすらわからないこの部屋に何故窓がある。
違和感はそれだけではなかった。
これだけの古さならば室内が散らかっていたり、ホコリまみれであっても不思議はない。
しかしどの机の上もそれなりに整頓され、今すぐでも使用できそうな状態だったからである。
否。
そこからはほんのさっきまで使われていたような気配すら感じ取れたのだ。
「!」
机の上にあるカレンダーを見て絶句する。
それは今年の今の月を表示していた。
卓上カレンダーの明日の日付には、見たことのある乱暴な赤丸がつけられていた。
「!!!」
焦って机の上を確認する。
周囲よりも乱雑な机上に見覚えがあった。
書類の置き方や、散らかし方の癖に見覚えがあった。
ライターの薄明かりで確認した限りとはいえ、それはまさしく俺がほんのさっきまで使っていた事務机そのものだった。
パソコンの電源が抜かれ、なぎ倒された書類の束が床一面に散らばっている。
その期限はいずれも明日の日付となっていた。
「どういうことだ……」
その時だった。
「あったぞ」
河東の嬉しそうな声と同時に、室内に眩いばかりの明かりがともったのは。
*
背中越しに差し込む陽の光に、しばらくまどろんでしまっていたことを知る。
「おい、また居眠りか」
向かいの机からからかうような声がそういった。
「んあ。いや、寝てないし」
「寝てただろ、ガッツリ。俺はずっと見てたぞ。一時間近く寝てた。また係長に怒られるぞ」
「黙っててくれ、永本」
すると同期の永本がおもしろそうに笑った。
「さあてどうしたものかな」
「頼む。ん? ずっと見てたのか」
「ああ、仕事もそっちのけでな。途中何回か寝落ちして、おかげでこっちの仕事もさっぱりすすまん」
「人のこといえないだろ」
「まあそうだな」
「高城さん、俺はしっかり仕事をこなしつつバッチリ見てましたよ」
隣の席の後輩が乱入してきた。
「俺も黙ってますよ。またメシおごってくれたら」
「こないだおごってやったばかりだろ」
「ごちそうさまです」
調子のいい奴だ。
河東は俺よりも仕事ができるのに、決してそれを鼻にかけたりしない。
いい奴だ。
「駄目ですよ、いくら新井係長が優しいからって」
お茶の入った湯飲みがさし出され、顔を向けるととびきりの笑顔があった。
「そんなことだから私達、他の人達から忘拶課なんていわれて笑われちゃうんですよ」
「ああ、ありがとう」
新人の諏訪部さんから湯飲みを受け取る。
すると永本が苦笑いしていった。
「そんな奴のお茶入れる必要ないよ。もったいない」
「なんだと」
「眠気覚ましですよ」
諏訪部さんが楽しそうに笑う。
「う~んと濃くしておきましたから。はい、永本さんも」
「ありがとう。自分でやるからいいのに」
「何か御馳走してくださいね」
「そういうことか。……。うえ、苦い!」
「えへへへへ」
俺達『防災刷新課』は立ち上げコンセプトの崇高さとは裏腹に、庁内でも緩い職場として有名だった。
おかげで略して防刷課と呼ばれる際に、陰で『忘拶』課などと揶揄される始末である。
いわく、挨拶されることすら忘れられてしまった悲しい人達、なんだそうだ。
しかたがない。
こんな滅多に誰も寄りつかないような庁舎のはずれの旧式の離れに押し込められているのだから。
自称仕事のできる俺としては不本意だが、そんなうわさを聞いてここに異動したいと願う怠け者達があとをたたない。
そんな奴らと同じ目で見られるのはまったくもって迷惑な話だ。
係長席に目をやると、もう一人の新人君がガミガミと怒られている光景が飛び込んできた。
「誰が優しいって」
「吉村の奴、また怒られてるのか」
メガネをくいと上げ、永本がため息まじりにいう。
それを河東が笑って受けた。
「しかたがないですよ、まだ入ったばかりなんだし。これからこれから」
「諏訪辺ちゃん、あいつと同期だよな。大丈夫か」
「ええ」
トレーを抱えておもしろそうに永本に笑いかけた。
「あんなんだけど、結構いいところあるんですよ」
「あんなんだけどか」
「ええ、あんなんですけど」
楽しそうに笑いながら諏訪辺さんが俺達のもとを去っていく。その足で係長から開放されたばかりで傷心中の吉村の席に赴くと、ばしばしと背中を叩きながら励ましているようだった。
二人ともいい笑顔だった。
「平和だな……。苦!」
そう呟いた目線の上に、諏訪部さんの持ってきたお茶より苦い新井係長の顔が見えた。
「平和もいいが、やることはちゃんとやれよ。例の案件、今日が期限じゃなかったか」
「はい!」
湯飲みを置き、飛び上がるように机にかじりつく振りをする。
「まったく、返事だけはいいな……。苦いな、このお茶は!」
カレンダーには雑な赤丸がつけてあり、今日が提出期限の書類があることを示していた。
まだまったく手をつけてなかったが、一つだけだしなんとかなるだろう。
さし込む陽射しと鳥のさえずりが睡魔を誘う。
これだから窓際の席はつらい。
ふあ~あ、とあくびをすると、また睡魔のやつが襲いかかってきた。
さすがにこりゃいかんと両頬を叩いて気合を入れる。
それでもまどろみかけた脳は誘惑に抗えなかった。
苦目のお茶も効果なく、何度目かのあくびをしながら、ふと妙な疑問が脳裏をよぎる。
半分寝ぼけつつも、まるで夢の中にいるようなそのあまりの馬鹿馬鹿しさに自分でも笑ってしまったほどだ。
最後にこの部屋から出たのはいつだったのだろうか、などと……
了
あまり需要はないかもしれませんが、背筋がぞっとするようなあからさまなホラーより、世にも奇妙なお話の方が好みです。
わっ、と驚かすようなジャパニーズホラーはむしろ苦手です。