その1
明日が提出期限の書類が百を超えていたその日、ついに限界点に達した。
掛け時計の針は午後十時を指しており、このまま徹夜しても焼け石に水だと爆発する。
パソコンの電源コードを引き抜き、書類の壁をなぎ倒しさんざん暴れ倒した後、ややクールダウンした。
後片付けは朝までにすればいいと考え、気分転換にフロアの外に出ていく。
うちの部署は庁内でも有名な、別名『忙殺課』とも呼ばれるブラックな職場だった。
極端に仕事ができない職員や上司の逆鱗に触れた者を追いやり、個人では到底さばけないような膨大な職務を押し付け、彼らが自主退職するのを待つのである。
俺の場合は気に入らない上司に悪態をついて、ここへと飛ばされてきた。
庁内にはこういった忙殺課と呼ばれる職場がいくつも存在するようで、彼らが一所に集められることはない。
周囲の口裏あわせも完璧で、真っ黒い事実は見事に隠蔽される。
連日深夜にまで及ぶ業務をこなしても、時間差出勤などという便利な制度のせいで書類上は定時で帰宅したことになっている。
おまけに休日は仕事をしてはならないのが前提だから、俺のような休日出勤者は、ただで仕事をさせていただいているというスタンスがまかりとおってしまう。
その仕打ちに耐え切れずに辞職願いを提出すると、何故身近な人間に話してくれなかった、いつでも相談にのったのに、ときやがるそうだ。
あきれはて退職した後も、次の職場への影響も考え、これ以上かかわりたくないため公言を避ける。
この連鎖を当人達の力で止めるのは不可能だろう。
忙殺課に追いやられた人間の末路はそんなところだが、心を病んだ人間はもっと悲惨だ。
あいつどうなった、と聞くと、そういえばそんな奴いたな、と大抵返ってくる。
どこぞの地下部署に押し込められているという噂もあれば、自ら命を絶ちすでにこの世にいないにもかかわらず、長期休暇の名目でどこそこの部署に在籍したままになっていたりもする。
同期だった永本の顔を思い出す。
彼も理不尽な仕打ちには黙っていられない性格だったので俺とは気が合った。
新卒の頃はよく飲みにいったりグチをこぼしあった仲だったが、時が経つにつれ自然と疎遠となっていった。
ある時別の同期の人間に、あいつ今どの部署にいる、とたずねたら、そんな奴いたっけ、と返ってきた。
冷たい奴だと感じつつも、自分にも思い出せないような人間もいるので、そんなものかと思うようになった。
何本目かのたばこに火をつけ、気がつくと屋上のフェンスに上半身がのしかかっていたことを知った。
八階建ての庁舎の屋上からは下の景色が一望でき、暗くよどんだ夜空のむこうに日曜の夜だというのに通りの途絶えない国道とさらに暗い川の流れが時々月の光にきらめいていた。
ふと妙な感情がわき起こる。
もしここから飛び降りたらどうなる。
今は日曜の夜更けだ。
警察が来てもろもろの処置をするのもすんなりとはいくまい。
朝になるまで気づかれない可能性すらある。
それは翌日の業務に支障をきたし、それまでの悪しき実情が白日のもとにさらされることになるかもしれない。
憎らしい上司の顔が浮かび、自分でもにやりとしていることがわかった。
「何してるんですか」
ふいに声をかけられ振り返ると、出入り口からライトを向けられていた。
私服を着ているので警備員ではない。
長身で自分よりはいくらか若そうに見えるその男は、怪訝そうに俺の顔を覗き込んでいた。
彼が何を考えているのかがわかっていたので、疑惑を晴らすためあえて明るく返す。
「気分転換だよ。まだこれから一仕事しなければならないからね」
「これからですか。日曜の深夜ですよ」
「いつものことだよ」
「そうですか」
抑揚のないやり取りの中、すでに彼がこちらの事情を察していることがわかった。
「君は」
「僕もそうです」
別段驚きはしない。
なんとなくそんな気がしていたからである。
「何課」
「○○課です」
有名な忙殺課の一つを彼が口にした。
「忙しいところなんだってね」
「それほどでもないですよ。そちらは」
「××課」
「忙殺課で有名なところですね」
おとぼけ合戦の直後、はっきりと口にしやがった。
「そんなの初耳だが」
「ええ、僕もです」
にやりとする。
二人同時に。
「大変ですね」
「お互いにね」
顔を見合わせ笑い合う。何故かおかしくてたまらなかった。
彼が仲間だとわかっただけで、いくらか気持ちが楽になった気がする。
俺も彼もその課に在籍するということだけしか言っていない。
それを感じ取ったのは互いの嗅覚だ。
忙殺課と呼ばれる部署はいくつもある。
だがそこで誰それがターゲットになっているという話はほとんど聞こえてこない。
忙殺課はその時々でうつりかわり、それが忙殺課にあたるのかどうかなど、そこに飛ばされた本人にしかわからないからだ。
ちゃんと見ていればそれが誰だかわかるだろうという者もいるが、それがわからないから成り立っているのだ。
現に何度もそういった場所に足を運んでいるが、不思議なことに一度としてそれを発見したことはない。彼らが辞めてから、またはいなくなって初めて、あいつだったのか、となるのだ。
その時の感想はいずれも、まったく予想だにしなかった、である。
前述のように、今後のことを考え、またはこれ以上関わりあいを持ちたくないからとの理由もあって、当人がいなくなってからもそれが露呈することはまずない。
もっとも関係のない大抵の人間にとっては所詮人ごとにすぎず、わざわざ深入りする理由もないのだろうが。
もし興味本位で探ろうとしてもはぐらかされるのがオチだろう。
関係のないサイドからすれば、それは都市伝説のようなものなのかもしれない。
実際のところ、直接○○課に出向いていったところで、この目の前にいる彼にはたどりつけなかっただろう。
こうして当該者同士が顔を合わせることなんて、それこそ奇跡に近い。
「まさかとは思いますけど」
「ああ、そんなつもりはないよ」
彼の言葉を遮って否定する。
すると彼は安心したようなどこか見透かしたような顔になった。
「去年僕の同期がここから飛び降り自殺したんです」
「ほう、初耳だな」
「ええ。緘口令が敷かれているみたいですからね。彼も仕事上の理由で、今日みたいな日曜の午後にここから飛び降りたんです。昼間ですから結構人も集まって、国道も近いですからね、大騒ぎになったみたいです。警察やら消防やら、野次馬も大勢集まってきて、後始末も大変だったみたいですよ。でも次の日には何事もなかったように開庁したみたいです。不思議ですよね。それだけのことがあったのに、新聞に載るわけでもなく、我々職員に知らされるわけでもなく、いつもどおりに月曜日が始まったんです」
「知らなかったな」
「僕も後からぜんぜん違うところからそれを知りました。庁内でも知っている人はごくわずかみたいですよ。彼と同じフロアの人達でも、役職者以外の人は彼のことを病欠だと思っているんじゃないですか。薄々感づいている人もいるみたいですけど。その年の仕事納めの時その部署のトップの人間は、今年も何事もなく終わりました、って言ったらしいですよ」
「彼にとっては腹いせのつもりだったんだろうが、そこまで組織的に隠蔽されると……」
「無駄死にですね」
またはっきりいいやがった。
「本人は自分の身を犠牲にしてでも、恨みを持つ人間のことを告発するつもりだったんでしょうが、そんなんじゃ相手と刺し違えることすらできない」
「毎年何人かがそんな感じだとは聞いていたが、本当だとしたらやるせないな」
「ええ」
「まあ、そんな小物と刺し違えるのもバカらしいから、辞めちまうのが一番だな」
「そうですね」
よかった。
そこまでのことにはならなかったにせよ、彼と話さなかったら、また別の形で踏み外していた可能性も否定できない。
「君は前にどの部署にいたんだ」
「去年まで資産税課にいました。河東っていいます」
「ああ、あの」
「ええ、あの庁内でも有名な名物課長のいるところで不満を訴えたらこのざまです。あなたは」
「高城だ」
「高城さんは」
「地域発展課だ。俺の場合はもう一つ上の人間に逆らったらこんなことになった」
「地域発展課ですか。なら新井係長は御存知ですか」
「新井係長。さあ知らないな」
「以前地域発展課にいたと聞いたことがあるんですが、かぶってなかったんですか」
「いつごろのことだ」
「二年前に資産税課に異動してみえるまで、地域発展課にいたと聞いたはずなんですが、変ですね」
その時期ならば俺もそこにいたことになる。だがその係長の名前も顔も思い出せない。
「本当にそこにいたって言っていたのか」
「はい。聞き違いかもしれませんが」
「地域活性課の間違いじゃないのか。よく間違えられるが、仕事内容もフロアも別ものだからな」
「そうかもしれません」
「その人は今どこにいる」
「それがわからないんですよ。探してはいるのですが」
「異動先なら調べればわかるだろ」
「そうなんですが、職員便覧にも載っていないし、誰に聞いてもそんな人は知らないって」
「ほう」
「おかしくないですか。わからないなら理解できます。でもみな口をそろえるように、知らない、っていうんですよ」
俺は消息の途絶えてしまった同期の男、永本のことを思い出していた。
「すごくいい人で、ずっと横暴な課長から僕らをかばってくれていたんです。それがコネ課長の気に障って、僕より一足先にどこかの忙殺課送りになったって聞いてます。ですが、いくら調べてもどの課にも係長の名前が見当たらないんですよ」
思い当たる節があった。
そこにピンとくるとほぼ同時に、河東が口を開いた。
「この庁舎の地下に、一階よりさらに下の階があるって聞いたことありませんか」
黙って河東の顔を見つめる。
河東の顔は真剣そのものだ。
聞いたことがある。
本来は地下一階しかないはずのこの南庁舎には実はもう一つ下の階があって、何らかの理由で表に出せない人達をそこに閉じ込めていると。忙殺課なんてかわいいものだ。
とはいえそれはいわば都市伝説の類であり、忙殺課に送られた人間を脅すための方便のようなものだと誰かから聞いた。
その証拠に、この建物に地下二階は存在しない。
俺だってそれくらいは調査ずみだ。
「都市伝説だろうっていいたそうな顔ですね」
おやおや、すっかり顔に出ていたようだ。
「そうですよね。僕だってさんざん調べましたからね。そんな根も葉もない噂なんて誰も……」
「いってみるか」
「え」
目を見開いたまま河東がフリーズする。
何故そんなことを口走ったのか自分でも不思議だった。だがどうせ辞めるのならそれくらいのお遊びしたっていいだろうという気持ちだったのかもしれない。
すると河東がにやりと笑った。
「そうしますか。どうせこんなところいつか辞めるんだ。だったらとことん納得いくまで見ておくのも悪くない」
こいつとはとことん気が合いそうだ。
俺達は業務用エレベーターに乗り込み、地下一階まで降りていくことにした。
南庁舎の地下一階はだだっぴろい上に倉庫や物置の類ばかりでガラーンとしており、明かりをともしても無機質で寒々しい感じがした。
両側を書類庫に挟まれた通路の奥に金属製の巨大な防火扉があり、深夜にそこを開けると例のフロアに続いているといううわさだった。
ロックを解除し重量級の扉を二人がかりで開けると、そこにあったのは一面の真っ白いコンクリート壁だった。
もともと隣の棟の地下とをつなぐ連絡通路が作られるはずだったのだが、新庁舎を建てる計画が難航しており、そのままとなっているらしい。
河東と顔を見合わせ、肩をすくめてみせる。
河東もやっぱりという様子で、がっかりしたようなほっとしたようななんともいえない顔を向けてきた。
「ま、こんなとこですかね」
「し」
河東の声を遮る。
「どうしたんです」
「今そこで妙な音がしなかったか」
指を向けた先には、第一書庫と書かれた部屋があった。
「本当ですか」
申し合わせることもなく、二人でそこへと向かう。
ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていないことがわかった。
河東に目配せしてから、ゆっくりと扉を開いていく。
音は立てなかったはずだが、フロアから差し込む明かりにそれは反応した。
一瞬見えた光がさっと消えたのだ。
異変を感じ取り、心拍数が高まるのがわかった。