35.気が抜けちゃうよ
アトラスさんが宮廷に入り一週間。
大国の間者だった彼がいきなり仲間になる。
なんて、普通に考えたら上手くいかないと思うだろう。
寝返ったといっても信用できない。
心から仲良くするなんて……できない。
「おい後輩! 先輩はお茶がほしいっすよ」
「……」
「聞いてるっすか! お茶! お茶を淹れてほしいっす!」
「……はぁ……」
とことこと歩き、アトラスさんはお茶を淹れる。
アツアツのお茶を手に持ち、ゆっくり歩いてリリンちゃんの元へ戻る。
「どうぞ」
「よくやったっすよ」
優雅にお茶を一飲み……。
「ぶふっ!」
したと思ったら吐き出した。
「なっ、なんすかこのお茶! めちゃくちゃ苦いんすけどぉ!」
「それはもちろん漢方茶ですからね。心を落ち着かせる効果があるんですよ。ま、本来は十倍に薄めて飲むんですけどね」
「原液じゃないっすか!」
「先輩なんだから、後輩がせっかく入れたお茶を全部飲んでくださいよ。はいこれ」
「ポットごと!?」
二人のやり取りを私とルイボスさんが見守る。
仕事をしながら。
険悪な雰囲気だけど別に止めたりしない。
もう何度目かわからないから。
「ウチは先輩っすよ! 先輩を舐めてるんすか!」
「舐めるわけないじゃないですかー。ちゃんと先輩を立てたんですよ。先輩ほどすごい人なら、これも原液で飲めるでしょ」
「どういう基準っすか! だったら他の人にも配ってほしいっす!」
「そうですね。じゃあちゃんと薄めて」
「原液でって話っすよ!」
「は? 何言ってるんですか? これは原液じゃなくて十倍に薄めるって話したのに。もしかして耳が遠かったですか?」
「先輩を馬鹿にするんじゃないっすよぉ!」
見ての通り、リリンちゃんはアトラスさんに遊ばれていた。
先輩の威厳を見せようとするリリンちゃんを、アトラスさんが軽くあしらいからかっている。
元他国の宮廷調教師。
私の、この国の内情を探りに来たスパイ。
この場にいる全員が、彼がどういう存在なのか理解している。
その上で接した結果が……。
「ちょっと先輩、まだ飲んでないですよね? ちゃんと全部飲んでくださいよ」
「飲めるわけないっすよ!」
「……ふっ、やっぱり子供だな」
「誰が子供っすか! 飲んでやるっすよこれくらい! ……ぶっ、苦い!」
完全に打ち解けていた。
特にリリンちゃんとの軽快なやり取りは、ルイボスさんが相手の時よりキレがある。
と、私は勝手に思っている。
隣でルイボスさんがメガネをくいっと動かす。
「まったく、二人とも仕事に集中してください」
「そうですね、すみません。この先輩(仮)がからかってきて集中できないんですよ」
「誰か仮っすか! ちゃんと先輩っすよ! よその国から来たばっかりの癖にその態度はなんすか!」
「先輩でも敬うべき相手は区別するもんですよ。大国の宮廷にいれば、人を見る目は自然と養われますからね。そうですよね? セルビア先輩」
「え? ああ……なんとなくは?」
私は苦笑いをしてしまった。
あんまり自分の仕事以外で人と関わらなかったから、正直人付き合いとかは苦手だし、誰がどういう人かなんてすぐには見抜けないよ。
私がこの国で上手くやれているのは、ここの人たちが優しくて、わかりやすい人たちだったからだと思う。
そういう意味じゃ、アトラスさんもそうだ。
「随分馴染みましたね」
「ですね。自分でもビックリしてますよ」
「馴染み過ぎなんすよ。ウチはまだ信用してないっすからね!」
「ルイボス先輩、こっちの書類終わりました」
「ありがとう。さすが仕事が速い」
「いえいえ、これくらい朝飯前です」
「無視するなー!」
宮廷の一室はより賑やかになった。
たぶん、アトラスさんは他人との距離感を図るのが上手いのだろう。
一日ごとに会話の数が増えて、相手に合わせて接し方を変えて、あっという間に私たちの輪に馴染んでいた。
もちろんそれだけじゃない。
さすが大国で働いてだけあって、あらゆる仕事が速くて正確だった。
彼一人の加入で、仕事効率が大幅に上がるほどに。
「アトラス君が入ってくれて正直かなり楽になった。書類仕事なんか、基本は僕がやらないと終わらなかったんだ。リリンはミスが多すぎてね」
「だと思います。おおざっぱそうですもんね」
「そんなことないっすよ! ウチは繊細な女の子っすから!」
「じゃあ繊細で大雑把な人ってことで」
隣でリリンちゃんは、さらっとまとめるなと怒っていた。
信用していない、とか言っていたけど、これだけ素で接することができているんだ。
相当心を許しているのだろう。
それに……。
「楽しそうだね。リリンちゃん」
「なっ、別に楽しくないっすよ!」
「ふふっ」
「いつも立場が逆だからね。こうして彼女がからかわれている様子を見るのは中々面白い」
「セクハラで訴えるっすよ、メガネ」
「せめて先輩はつけてくれ……」
こっちの二人の力関係は相変わらずだった。
その様子を見ながらクスリと笑う。
笑った声が、アトラスさんと重なって視線が合う。
「セルビア先輩」
「先輩はやめてください。私のほうが年下ですし、働いている時間も短いですから」
「じゃあセルビアさん。ここの人たちはみんな甘いですね。俺なんか簡単に受け入れちゃって、ほんと……気が抜けますよ」
「ふふっそうかもしれませんね」
でもそれが、この国の人たちの美点だと私は思っている。
きっと彼も同じように思ってくれるだろう。
私に似た境遇の彼ならば、ここは天国に違いないのだから。






