33.互いの利益のために
彼は動揺する。
リクル君の何気ない一言に。
「ちょっ、え? 本気で言ってるんですか?」
「ああ。帰れないならうちで働けばいい」
「いや……意味わかってるんですか? 俺がここで働くってことは……つまり……俺に国を裏切れって言ってるんですよ」
彼はごくりと息を飲む。
リクル君は小さく、短く呼吸を一回。
真剣な表情で彼に語る。
「そういうことになるな」
「……」
「もちろん強制じゃない。お前に祖国を思う気持ちがあって、たとえ不幸な未来が待っていようと戻りたいと言うなら、俺たちも相応の対応をするだけだ」
「……まさか、逃がしてくれるっていうんですか? スパイ活動をしていた俺を?」
リクル君は答えない。
ただ不敵な笑みを浮かべ、彼を見つめる。
彼は苦笑いをしながら下を向く。
「はは……甘すぎでしょ、だとしたら」
「別に甘くはないさ。もうお前の顔は割れた。そっちがどういうつもりなのかも把握している。対してこちらの情報はそこまで握らせていない。今のお前を逃がしたところで、うちにさしたる不利益はない。むしろ俺たちが一番困るのは……お前が国にも戻らず、どこかへ消えることだ」
リクル君は語る。
もし仮に、彼をこの場で逃がしたとしよう。
そして彼が国へ帰らず、姿を晦ましたとしたら?
相手からすれば、私たちに気付かれて捕えられたと思うだろう。
私たちは国へ戻ったと思っているから、状況の把握が遅れる。
次は偵察なんて生ぬるいことではなく、侵略に移行する可能性だってある。
勝敗はともかく、多くの犠牲者が出るだろう。
それは一番避けなければならないことだった。
「つまり俺に、ここで調査を続行していることにして時間を稼げって言ってるんですか?」
「そういうことだ」
「そんなの時間稼ぎにしかならないですよ。いずれ必ずバレる」
「だとしても時間が作れる。戦いに備えるだけの時間が……それは極めて重要なことだ。大きな戦いになるのなら、一分一秒を無駄にできない」
リクル君は真剣な眼差しでそう語る。
戦い……戦争。
私の脳裏には悲惨な光景が浮かぶ。
以前、リクル君や陛下が懸念していたことを思い出す。
私がこの国に来たことで生じる影響は、いいことばかりではない。
今、こうして他国の間者が国に入り込んでいるように……。
私という存在をめぐって、争いが始まることだってある。
もし、私のせいで戦争なんてことが起こるなら。
その時は……。
「余計なことを考えているな」
「え?」
リクル君が私に尋ねる。
「自分のせいで戦争になるとか思ってるだろ?」
「あ……うん」
図星だった。
私の考えはリクル君に筒抜けだったようだ。
私は目を伏せ、黙り込む。
「勘違いするな。お前を引き入れたのは俺の選択だ。もしそうなったとしたら、責任は全て俺にある」
「それは違うよ! 私が選んだんだ。リクル君の国に来ることを」
「選ばせたのは俺だ。だから勝手に一人で考え込むな。そんなことせず、お前は堂々としていればいい。かの国だってビーストマスターがいるのに戦争は起こっていない。その理由は単純、戦ったところで勝てないと思わせているからだ」
圧倒的な兵力をビーストマスターは持ち得る。
それ故に、国々から警戒される。
願わくばその力がほしい。
だけど戦って奪うなんて考えられない。
そんなことをすれば。得られる物と同等以上の犠牲を払うことになるとわかっているから。
それほどビーストマスターは絶対の存在とされる。
私も、その一人だった。
「戦いになるのが怖いなら、そうならないようにお前の存在をアピールするんだ。この国にはすごいビーストマスターがいる。だから勝てないぞって、伝えればいい」
「……うん」
私は頷く。
そう、私にできることはそれしかない。
私の存在が争いを生むなら、私がその抑止になればいい。
それだけの力を私は持っているのだから。
「……とにかくこっちも時間がほしい。だから選べ。ここで働くか、それとも戻るか。戻る場合は最後まで見届けさせてもらうぞ」
「……本気なんですね?」
「何度も言わせるな。それに、一人目じゃない」
リクル君の視線が私に向けられる。
私は気の抜けた笑みをこぼす。
そう、一人目じゃない。
私も同じような境遇で、この国にやってきた。
もっとも私の場合は、国を追い出されて途方に暮れていたところを、彼に助けられたのだけど。
「なるほど。ビーストマスターの引き抜きに比べたら大したことない……か」
彼は笑う。
諦めたように、吹っ切れたように。
少しだけ楽しそうな笑顔だった。
「わかりましたよ。そっちの要求を飲みましょう」
「それじゃ――」
「ただ一つ、条件があります」
「条件?」
彼はニヤリと笑みを浮かべる。
どんな条件を口にするのか、緊張が走る。
「ちゃんと休みはくださいね」
「――そんなことか」
「重要なことなんでね」
「ふふっ、確かに重要ですね」
休みを貰えなかった人間として、その気持ちはよくわかる。
だとしたらこの裏切りは、彼にとって快適な生活に繋がるはずだ。
私がそうだったように。
「改めまして、俺はアトラス・シーベルトです。これからよろしくお願いします。リクル殿下、ビーストマスター、セルビアさん」
「はい。こちらこそ」
「期待してるぞ。アトラス」
こうして一人、宮廷調教師が増えた。
彼を仲間に引き入れる選択が私たち、この国にとって何をもたらすのか。
まだ私たちにはわからない。
だけど、この時すでに歩き始めていたのだろう。
もしくは運命かもしれない。
この二週間後、私ともう一人のビーストマスターは邂逅する。






