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奇禍に飛び込む 御徒町編 2





 今までどこにでもいそうな主婦として、可もなく不可もなくやってきた。

 なるべく目立たないように、ご近所づきあいもママ友づきあいもほどほどに。

 多少の子供がらみの角突き合いはご愛敬だ。


 呑気のんきであまり深く物事を思い悩まない性格で、なんとなく予測できそうな面倒を回避してきた。

 そんな朋子にとって、母の事故は初めて訪れた本当のトラブルだった。

 兄は遠く地元での仕事も忙しく、母の面倒を見ることは朋子にしか出来ない。


 はじめたバイトにやっと慣れた頃だ。辞めたくなかった。

 病院と施設を行ったり来たり、バイトのシフト調整で手一杯、学校に塾に習い事にとあっちこっち駆けずり回る。


 ──ねえママ、やめたくない。

 ──でもね塾にも通わないと…。

 ──やだ塾きらい。行きたくない。


 朋子の心を鏡に映すように家の中が荒れてきた。

 洗濯物は散らばり、机の上には置きっぱなしの皿がある。


 こんなのよくない。

 しっかりしなきゃ、わたし!


 いいこともある。

 多少のお小遣いを使ってたまにコーヒーを飲みに店に入ってのんびりすることもできた。


 朋子が働いているのはあまり規模の大きくないフランチャイズのサンドイッチ屋だ。

 今まで抵抗を感じていた客商売が案外、合っているのかもしれないということに彼女は気が付いた。

 

 苛々している人はどこにでもいる。

 そのいらだちをこちらが鏡のように跳ね返すと増幅されてしまう。

 何も届いていないかのように笑顔で明るく吸い取って、どこか耳の後ろにでも流してしまえばいい。

 彼女の何も考えていなさそうな満面の笑顔の前では怒っている客も黙ってしまう。




 9:15。上野に到着。


 一分の遅延だ。ここから山手線に乗り換えるのに、朋子は三度もホームを上がったり降りたりを繰り返した。


 9:30。御徒町で降りた。

 おそらく店は十時に開くだろうし、まだ時間はある。

 

(ママさんが適当にやってるから!)

 そんな陰口が届かないこともなかったが、聞こえないふりをして払い落としていた。


 ここに来る時に始発電車に先に乗り込もうとして叱られたことを払い落としたように。

 すべての悪意はするするとうわべを流れて消えていく、それでかまわないと思っていた。

 

 今日、ここに来るために使ったおかねだって、あたし、自分で貯めたんだから。

 自慢げにバッグに触れる。そこには今月のお給料がそっくりそのまま引き下ろされて入っている。






 *  *  *





『おれこのままだともう無理なんだよね』


 荒れた家の真ん中に夫が難しい顔をして朋子の前に座り、朋子は結婚してはじめて止まらない涙を知った。



『どうしてそんなこと言うの?』

『これがこのまま続いて、どんどん悪くなっていって、もう戻ることはないんじゃないかなって思っちゃうんだ』

『もう無理なら、どうなの?何なの?』


 どこから出てくるのかわからないほど高い声が出た。今まで見せたことのないほど取り乱した朋子の姿に夫もまごついたようだった。


『どこか違うところに行っちゃうの?』

 

 夫の生真面目はよく知っていたし、生来の性格から朋子本人は実はそれほど気にしていなかったのだが、夫は気にしていた。


 普段から飲み会のひとつや二つがあっても連絡などしない夫だ。

 朋子がうるさくないからそんな習慣がない。

 それがいちいち連絡が来るようになった。

 彼女が不安になることに対して、夫が不安になっているようだった。

 

 御徒町は上野と秋葉原の間だと聞いて、朋子はほっとしていた。

 上野なら美術館に一、二度、夫と一緒に行ったことがある。

 取引先のよう子さんという人が無料券をくれたのだ。


 夫はついでだからと、浅草とアメ横にも連れて行ってくれた。

 あの広々とした公園と、人で込み合う楽しい商店街に近いんだから。見おぼえない場所じゃない、大丈夫。

 

 だが、降り立ったJR山手線御徒町駅の町並みは、まったく知らないどこか未知のにおいがした。


 小さなそっけない駅で、何か目当てなく観光に訪れる人などいないのだろう。歩く人々は種々雑多で、サラリーマンが多いとか、学生ばかりなどと、そんな風に説明出来ない。

 あらゆる人種のあらゆる人がばらばらに勝手にどこかに向かっていた。


 北も南も左も右も何もわかなくなり、朋子は駅の柱に貼ってある地図の前に立ち止まって眺めているふりをした。


 携帯がいきなり手の中で震える。

 朋子はびっくりして落としそうになり、慌てて耳にあてる。


「はい、北村です」


 この午前中に御徒町の駅で立ち止まって電話している、みるからに郊外住まいの主婦なんてそういない。


 不思議そうに振り返る人もいた。





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