奇禍に飛び込む 御徒町編 1
朋子は上の空でずっと電車の上を通り過ぎていく青い空だけを見つめている。
生まれ育った地元の田舎は山の形や坂の角度、お稲荷さんの尖った口先まですべて子供の頃から見慣れた形だ。
何があってもずっと変わらないから、待っていてくれる、あれがわたしの帰る場所だ、なんて思うのだろうか。
電車が揺れて、すれ違う駅の名前だけは身を乗り出して目を凝らした。
(まだ川崎なの?)
ため息をついてシートに深く座りなおした。
東京って遠い。
一大決心で朝早くから家を出て駅の改札を通り過ぎた時、ピピッという音がしてがたんとゲートが背後で閉じた。
引き返せない合図の旗が振り降ろされた気がした。
さあゲート開いて一斉にスタート。レースの始まりです…。
父がよく見ていた競馬番組のそんな声がどこからともなく聞こえてくる。
いつもなら郊外にある家から東京へ行くと言うならきらきらした目で周囲を見つめ、人も景色も何一つ見逃さないようにしようと好奇心いっぱいで歩くのに。
今日は何一つ目に入らない。
決心がつかないままに、上の空で改札への階段を上ると、ちょうど電車が止まった所だった。
開いた扉に何気なく近付いたとき、朋子は後ろから服を引かれて止められる。
怖い顔のスーツ姿の女性が立っていた。
「ここはみんなずっと並んで待ってたんですよ。後ろに行ってください」
出鼻をくじかれてすっかり小さくなった朋子だったが、運良く座ることができた。
席は開いているのに、何をそんなにいらいらしてるんだろう?
朋子は平日の通勤ラッシュなど一度も見たことがなく知りもしなかった。
藤沢発8:13。
始発の電車がここから出るので、皆これに乗るために狙いすまして家を出てきていることなどまるで無知だったのだ。
夫はいつも六時には家を出るから、ラッシュなんてもう終わっているのだろうと考えていた。
周囲の視線がすべて彼女に集まっているような気がして朋子は小さくなった。
電車に慣れない彼女を夫は笑う。
彼はいつも東京育ちを多少鼻にかけている。
だが朋子は彼が得意そうに都内のあちこちについて説明するのを聞くのが嫌いではなかった。
* * *
昨夜、朋子はメモをにぎって帰ってきた夫の周囲をうろうろしてチャンスをうかがっていた。
「ねえ、台東区ってどこ」
「そんな広い範囲言われてもわかんないよ」
夫はその日、いつもに増してぐったりと疲れ果てていたが朋子にはどうしても聞きたいわけがあった。
うんざりした風とは裏腹に住所をのぞいて夫は言う。
「御徒町じゃん」
「おかちまち?」
「秋葉原と上野の間だよ」
「ふうーーん」
朋子はそれ以上突っ込んで話すのをやめた。
ねえ、一体どうしたの?何があったの?
聞いても良かったが、彼女も気をとられていることがある。
東海道線の電車内でサラリーマンに囲まれ揺られながら、朋子は手の中のメモを見た。
東京都台東区上野×丁目 ジュエリー××
03-×××1-×××4
胃が痛い。ずきずきとまではいかないが、じんわりと腹全体に広がっていく。
ええと、何て言うんだったかな。
わたしだってちゃんと考えたんだ。練習しとかないと、と思って!
口の中で繰り返す。
──やっぱり直接見たいなと思って。お店の住所も書いてあったから、ちょっと寄ってみたんです。
いきなり携帯に通知が入って心臓が跳ねた。
周囲を気兼ねしていまさらのように不器用な手つきでスマホを触り、マナーモードに変更する。
一瞬、食い入るように凝視した。
バイト仲間のはるみさんからだ。
道々の気が紛れると思い、ほっとした。
『今日は急に休みだって聞いて。大丈夫?』
朋子は嬉々としてトーク画面を開いたのに当惑した。
どうしよう。何て言えば?説明できない。
『お母さんに何かあったの?』
朋子の母は入院している。入居していた施設で事故にあったのだ。
今は別の施設を打診して転居もすんでいる。
少し迷った。説明すれば気が紛れるかもしれない。
『うん、それがね…。あのね、長くなるから後で話すよ。全部聞いてね!』
『おっけー!待ってるね』
はるみさんがワクワクしているのが手に取るようにわかって、朋子の唇にもちょっと笑顔が浮かんだ。
三十半ばではじめたパート、はじめてできた学校やご近所さん以外の友達だ。
子供がからまないだけ、ママたちよりも気軽で楽しい付き合いだった。
まだだ。まだ言えない。
説明できない。
どうなるかわからないんだから。




