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奇禍を抜けて

 帰ってきた北村は、ソファに鞄と上着をそっと置いた。

 子供たちはもう寝ている。家の中はしんと静かだ。

 いつもならばすぐにチャンネルを探すが、今日はそんな気にならなかった。


 朋子がいそいそ食事を並べている。なんだか嬉しそうだ。


 ネクタイを抜きながら北村はリビングのテーブルに菓子の箱を置いた。


「ほらこれ。あげる」

「なに、これ?」

「お菓子。昨日送別会だったんだけどトラブルがあって、今日その関係でもらった」

「わぁどうしたの?美味しそう」


 大根おろしのしらす掛け、なすの揚げ浸し…見れば分かる。妻が機嫌がいい時のメニューだ。

 ほっとして北村は体の力が抜けた。


「聞いてくれよ、昨日大変だったんだよ」

「なに?」


 朋子は目を見張った。


 ひとしきり互いに話をしてから少しだけ沈黙があった。

 昨日までの、どこかにしこりの残ったぎごちなさは消えている。

 穏やかで満たされていた。

 ここは安全だ。


 普段は根が溶け合っているように見える二人の生活も、日中は離れている間に、仕事に各々の問題に心を取られていく。

 また夜になればふっと根に戻って一つ屋根の下に葉を垂れる。


 家族などという曖昧な関係が結局は個と個にすぎないと自覚する瞬間は確かにあった。

 細かくひびの入った古い茶碗のように亀裂が入る。

 そしてまたすべては曖昧になり、立てられたと見えた垣根を越えてこちらに迫る。


 その繰り返しだ。


 二人はソファに体を預けて寄り添った。

 北村はぽつんと言った。


「ごはん毎日ちゃんと作れなんて、そんな意味で言ったんじゃなかったんだ」

「わかってるよ」


 膝と膝が触れ合う。


「お義母さん、この前見舞いに行った時、寂しいって言ってたな」

「聞いてた?」

「うん」


 北村は目を閉じた。

 閉ざされた視界の奥に、よう子さんの白い喉の動きが見えた。目を腫らしたみらいさんの黒々とした大きな目が現れ、妻の泣き顔と重なった。

 駅に吸い込まれて行く物言わぬ人々の群れがある。


 誰もが噴出するぎりぎりの思いを耐えてふんばり、歯を食いしばって歩いていた。




 朋子は、夫の横でつけなれない指輪をいじっていた。

 母がぽつりと漏らした言葉は夫の耳に届いていたのだ。


 あのつぶやきは、母が属してきたこの世界、母が信じ足を踏ん張って生きてきたこの時代や時間や命から、少しずつ切り離されようとしていることへの最後の抵抗だった。


 それは決して他人ごとではなく朋子にも夫にも、そしていずれはこの子供たちにも、ひとしなみに訪れるものであることをもう彼女は知っていた。




 *  *  *




 互いに触れ合った部分が温かかった。

 こうして緩やかに闇に沈み、ほとんど一人とも呼べるほど溶けて寄り添う。


 何かを攻撃しようとしている人たち。

 何かを守ろうとしている人たち。

 敵であれ味方であれ、一握りの金持ちであれ貧困にあえぐ底辺の者たちであれ、崖は全ての足の下にあり、別れは全てに訪れる。


 みんな知っているのだが、背中を向けている。


 明日になればお互いに、また背中を向けても構わない。

 普段は忘れていても、いざという時に取り出せるように、胸の戸棚の中にこの温かさとこの覚悟とを入れておく。


 いつどこにいても、彼らの背後に幕のように張り巡らされ翼のように包むだろう。

 奇禍にあって盾となりやいばともなるように、心臓にえておきたいと二人は思った。












 終わり

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