透明人間シンドローム
ある日どこからともなく風の噂で聞いた。
何でも透明人間になってしまう病気が発見されたらしい、原因不明、治療法も無しの今最も世間を賑わせている怖い病気だ。
だが、僕は少し透明人間というものに惹かれていた。皆が恐れる中、僕だけが好奇心を持っていた。
一度は皆、憧れたことがあるだろう。
「透明人間か……」
ニュースで一度、透明人間になってしまったが奇跡的にもとに戻った人がいるとインタビューされていた。
その女性は涙ながらにこう語っていた。
「透明人間になったときは気が狂いそうだった。誰にも気づかれない、誰にも存在を認識されない……まるで自分が幽霊にでもなったかの様な気分でした」
それでも僕の好奇心の熱は冷えることはなく、日に日に透明人間への憧れは強くなっている。
明日にでも目が覚めたら透明人間になっていないだろうか。
そんな他愛ない妄想をしていた。
翌日、いつも通り目が覚める。
目覚ましを止めて起き上がる、まだ寝ていたいという欲望に何とか打ち勝ち布団から這い出る。
今日は少し肌寒い、五月とはいえまだまだ朝晩は冷える。
階段を下り、リビングへと向かう、トーストの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「おはよう」
いつも通り朝の挨拶をしてドアを開けた。
しかし、その場にいるはずの両親から返事は返ってこなかった。
不思議に思いもう一度繰り返すがやはり返事はない。
いつも通りの朝、今日だけはどこか変だった。
「まさか……」
一抹の不安とそれを消してしまうほどの好奇心を押さえきれず、僕はすぐに洗面所の鏡へと向かった。
いつもなら写し出される筈の僕の平凡な顔がそこには写っていなかった。
間違いない、僕は――
「透明人間に、なった」
これからの不安よりも高揚感が勝ってしまった。
さあ、学校に行こう。
一応制服姿になった僕は自分の教室へと向かった。
いつものように教室は賑わっている。
しばらく教室の片隅でそんな様子を眺めているとクラスで一番仲の良い男子が教室へと入っていった。
「よう、おはよ……」
挨拶をしそうになってふと思い出す、僕は今透明人間なのだ。
透明人間になると姿は勿論、声すらも相手に届かないようでそれは少し寂しいなと思った。
「あれ、あいつは?まだ来てねえの?」
男子数人のグループにそいつは尋ねた。
「そうみたいだな、いつも早いのに……」
「だな、風邪か?」
「そうかもな~季節の変わり目だしな」
そんな会話を聞きながら僕は内心でほくそ笑む。
「透明人間って楽しい」
その時はまだそう思えたのだった。
数日経つと初日の楽しさはどこへやら、一気に飽きてしまった。
透明人間になってからは何故かお腹も空かないし、ものを持つことも出来ない、ただその場で立っているくらいしかできない。
僕の声が届かないと分かっていてもつい人に話しかけてしまう。
それは両親であったり、友達だったり、先生だったり、近所の人だったり。
その誰もが僕の存在に気づいてくれない。
あの時のインタビューの女性の気持ちが今ならよく分かる、まさに僕は経ったの数日だけで発狂しそうになっていた。
あの時の僕は馬鹿だった。
透明人間になりたいなんてどうかしていた、他人に存在を認識されない、それはまさに自分というものが存在していないかのようで、僕はここの場にいるのに、確かにここに存在しているのに。
「もとに戻りたい」
もう二度と透明人間なんてなりたいなんてな思わないから、どうかお願いだーー
「僕を、もとに戻してくれ!」
人通りの多い街中でそう叫ぶ。すると道行く人々が僕の方へと視線を向ける。
もしやと思い後ろの店のショーウィンドウで確認してみる。
そこには長らく見ることのできなかった平凡な僕の姿が写し出されていた。
「やった……戻った」
僕は確かにここに存在している。
それを確認できた今、涙が零れそうになった。
「あれ?お前、こんなとこで何やってんだよ」
声をかけてきたのはクラスで一番仲の良い男子だった。
「お前、何日学校休んでるんだよ、ずる休みかよ……」
「久しぶりだなぁ……話すの」
「そうだなって、何で泣いてるんだ?」
「いや……なんでもない」
「……変な奴」
「何度でも言えよ」
今なら何言われても笑顔で聞ける気がする。
誰かと話す、誰かに話しかけてもらえる、それはどんなに恵まれていることか知れたことが今回の唯一の良い点だと思った。