世界の果てのバカンス
地のある限り、種まきの時も、
刈入れの時も、暑さも寒さも、
夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう
創世記 8.22 より
0
私と妻の馴れ初めを語りたいと思う。ジェイン・オースティンの恋愛小説のようにはいかないが、辛抱いただきたい。
二十代も後半の頃だった。私はさる貴族の奥方との不倫が原因で、たいそう世間体の悪い愁嘆場を繰り広げていた。そこで家族会議の結果、ほとぼりが冷めるまで国から放り出されることになったのだった。
1
胸が締め付けられるような夕方六時(私は夕陽を見るのが好きなのだった。このときも、淡いピンク色の光の切れ端が高い山の背に引っかかっていた)、萎んで抗議の声をあげる胃をなだめるべく、滞在中のホテルから下ったところにある、海べりの食堂に入った。
客はカウンターに座るほっそりとした女性だけだった。こちらに背を向けていて顔はわからないが、ひっつめたブロンドと白いうなじから、どうも私と同郷人のようだった。奥から店主だろう男が顔を出す。赤いだんご鼻と酒に焼けた肌にこんもりとした白い髭が載っている。
「らっしゃい」
「メニューは?」
「んなもの、ないよ。仕入れた魚と野菜で、その日その日、俺が出すものを決めるんだもの」
窓際に陣取り紺色のインド洋をガラス越しに眺めた。海などいいかげん見飽きているのだが、船酔いにに悩まされずに済むとなるとまた趣が違ってくるものだ。昼には、手前は透明で遠ざかるほど青緑になっていく様が美しかった。
ここは赤道近くの島で、島の形は湾を作ってコの字型をしている。南国の樹々の隙間に赤煉瓦の建物が建つ、手が加えられ故郷を模した町並みだが、印象がまるで違う。大らかで晴れやかなのは気候の違いも然ることながら、土地に余裕があり建物同士があまり接近していないせいだろう。そして島外れの崖の温かいが爽やかな風に吹かれる野草の中に立つと、急なカーブを描いた海岸の向こうで半島部分に壁のような山がそびえ、目に痛い青空を切り取っていた。……なかなか、良い場所だ。気に入った。
不意に、地面がたわんだ。
たいしたことはなかったが、身体に感じられた。
「来てから二回目だ。この島、地震が多いみたいですね」
私は席をカウンターに移って、うなじ美人に話しかけた。
「そうですね。私、十日ほど前からいるんですけど、数えるのが馬鹿らしいほどよく揺れるわ」
うなじ美人は……まあ、なんというか、普通、十人並みの容姿だった。両頬と鼻に広がる盛大なソバカスには愛嬌を感じたが。
「大丈夫なんでしょうかね?」
顔を顰めてみせると、さあね、とソバカスさんは愛想笑いをチラッと浮かべた。皮肉げな右の口角がひしゃげる笑顔で、どうやら興味がわかない話題だったようだ。
「お待ちど! 賄だから金はいらねえ。酒は別だがな」
そんな大雑把な商売で大丈夫なのだろうか。カウンターの向こう側からご主人が私とソバカスさんの間に大皿を置く。私の余計な心配は、そのアサリのパスタから立ち昇る湯気のごとく一瞬で消え失せた。濃厚な磯の匂い。期待のためか胃のあたりがくすぐったくなった。取り分け用の皿を受け取る。
「ちょっと塩を振ってもいいかしら?」
ソバカスさんが陶器の小瓶を手に尋ねる。
「味はしっかりついてる」
ご主人が眉間にシワを寄せる。でも、と彼女は大皿に小瓶を翳す。
「私も塩は必要ないと思いますよ。美味しそうだ。いただきます」
しょっぱいパスタなどごめんだ。私は慌てて自分の皿に夕食を取り分けた。ソバカスさんは不満げにしている。
「この島、地震が多いみたいですね」
口一杯に頬張っているご主人に、さっきから気になって仕方がないことを尋ねる。もちろん、私ももぐもぐしている。オリーブオイルと唐辛子とアサリ。うまい。他にも香辛料など入っているのだろうか? 見たまま以上のことは私の能力では分析不能だ。
「近ごろ弱い波みたいなのがひっきりなしだな。でっかいのが来なけりゃいいんだけどよ」
明日魚を干すから雨が降らなければいいんだけど、とでもいうような、どことなく切実な、それでいて陽気な口調だった。
「俺の曾祖父さんがそのまた曾祖父さんに聞いたってンだけど、終わってみればなーんにも立ってるもんがなかったってぐらいすごい大地震が昔にゃあったらしいがなぁ」
私は見晴らしの良い瓦礫の山の上で途方に暮れる自分を想像して、ぞっとした。
「滅多にはないんですよね? 私の育ったあたりは地震なんてまったくなかった、の……で」
ソバカスさんが、言った。
「あら? 空になってしまったわ」
彼女は小瓶を置くと、嬉しそうに塩まみれのパスタを大皿から自分の皿に移す。
動きを止めた私とご主人に、彼女は「私、どうも亜鉛が足りないみたいで」。
「亜鉛が足りないと、味が判らなくなってしまうんですって人間の体って不思議だわ」
亜鉛とやらの前に、この女性には常識が足りないのではないか。
2
七時前、食堂を後にする。
物足りない私とは反対にソバカスさんは満腹満腹、と星空を見上げている。パスタの大半は彼女の胃袋に収まったのだから当たり前だ。私とご主人はとうてい塩パスタを食す気になれず早々にフォークを置いた。
別の料理を出してもらえれば良かったのだが、どっと客が入ってきたのでご主人は奥に引っ込んでしまった。なんでもこの食堂は完全予約制だったそうで、今日は近所の大きな島から三十人の団体が予約していた。あの狭い店内にどうやって三十人も座るのか甚だ謎だ。
そして、なぜか私はこれから彼女の部屋にお邪魔して、ご自慢のピンク色の岩塩を見せてもらうことになっていた。
「西サハラにタガサという塩で出来た都市があったんですって。一四世紀のアラブの旅行家イブン・バットゥータが残した探訪記によれば、タガサはモスクも含めて街中が塩でできた、光り輝く白亜の都市だったそうよ。でも、ずっと後になってヨーロッパ人が初めて訪れたとき、タガサはとっくに廃墟になっていて、サハラの砂が吹き付けるせいで、塩の壁の表面はぽつぽつ穴があいて灰色に薄汚れていたんですって」
少々べたつく涼しい潮風に吹かれながら、ソバカスさんの話に聞くともなしに耳を傾ける。
「どうして、塩で建物を造ったんだと思う?」
「……金持ちの道楽かな?」
急な短い坂を登るとすぐのコロニアルスタイルのホテルの前からは穏やかな黒い海が見下ろせる。クリーム色の端が欠けた月がすっきり明るく、海面に道を作っている。腹のあたりのじんわり絞られる感覚は、旅行の始まりからずっとつきまとってくるナーバスな気分のせいではなく食べ足りないせいだろう。
「違うわ」
ソバカスさんがそっと答えを言う。
「そこには塩以外なんにもなかったの。地面を掘り返して取り出した塩のブロックで家を建てるしかなかったのよ」
私たちは何となくホテルに入らず、扉の前で涼んでいた。建物の中にいるのが勿体ないような心地よい夜なのだった。彼女がいいかげん他の話題を振ってくれればより快適に過ごせるのだが。
また、地面がたわんだ。
私は妙に驚いてしまって、心臓が勢いよく働きだすのを感じた。
「これさえなければ長閑で良い島なのだけど。入りましょう」
彼女の部屋は私の部屋の二つ右にあった。
「どう?神秘的でしょう? バラ石英みたいで」
窓辺の白い陶器の平皿に乗っていた、ピンク色の大きな石鹸のようなものを渡された。
「舐めてみてもいいわよ」
ソバカスさんはどこか得意げだ。マグネシウムのようなバラ色の、ずっと見ていたいような石だった。角をそっと舐めると、本当に塩だった。
「塩だ」
私が芸のない科白で驚くと、ソバカスさんは岩塩を元の位置に戻し、
「湿度が高い日なんかは内側から水が染み出て水たまりができるの。あんまり雨が降ると、表面を白い塩の結晶が覆ってね……」
それから二時間ばかり塩談義につきあい、彼女の部屋を後にした。私は暇人を自負しているが、彼女も相当なものだ。
3
自室に戻り適当に支度して、零時前だったがさっさとベッドに潜り込んだ。窓から月の光が青く差し込む中、ハッとなって腹這いになり手探りで、床のトランクを開け、愛用のフラスコをつかみ取った。うつ伏せのまま安物のウィスキーで口を湿らせる。胃から浮き上がった熱い空気を吐いて、今度こそ眠ることにした。一人放浪するようになり、私はどんどんずぼらになった。実家ではこのようなマナーの悪いまねは思いつきもしなかったのだが。さて、良い夢が見られるといい。そうでないなら、夢など見ない眠りだといい。
4
結局私は一泊でこの地震の多い小島を去り、もっと大きな島に移ってリゾート気分を満喫した。あまり一か所に長居をすると、やることのない私は暇を持て余すのが常だったが今回は違う。ホテルのベランダから大好きなスコールを眺める以外に、手品の練習という良い暇つぶしと邂逅を果たしたからだ。
酒場で知り合ったカイゼル髭の男に習ったのだが、手品といっても種のある道具を使うのではない。習ったのはコインの消し方で、これがあまりに単純で馬鹿馬鹿しいので私はとても気に入ってしまった。それは、右の手にあるコインを目に留らないものすごい速さで左手に弾く、というものだった。成功すると本当にコインがふっと消えて見えるのだ。数日の間寝食を忘れてこの訓練に没頭した。このシンプルな手品がようやく様になり、女性と懇意になるための小技として重宝するようになった頃、山が噴火した。
5
翌朝、外は曇りとは違う不自然な薄暗さに包まれていた。火山から吹き出した灰が空を覆っているのだ。妙に煙ったく、空気が汚れている。浜に避難民が流れ着いたというので、野次馬しに行くことにした。ホテルに閉じこもっているよりマシだろう。
最初は、空が暗い以外は街路樹も、商店街も、普段と変わりなく思えた。ところが、忙しなく走り回る住民達をのんびり追いかけて海岸に着いてみると、人だかりを含めいつもとは全く様子が違っているのだった。海水浴客は姿を消し、深刻そうな表情の島民達が集まっていた。
白い砂浜は茶色い海藻に壊れた船やら板切れやら、とにかく大量のゴミに埋め尽くされ、透明なはずの海は泥っぽく濁っている。
「あら、あなた!」
不意に肩を叩かれて振り向くと知らない女性が笑っていた。丸めたドレスを大事そうに腕に抱え、本人は水を吸ったナイトガウンが重そうだ。ぼさぼさに解れたブロンドに、鼻から両頬に広がる盛大なソバカス……避難民の一人だろうか?
「人違いではありませんか?」
戸惑う私に女性は、
「忘れたの? あなたこれ、舐めたでしょう?」
ぐるぐる巻きのドレスをほどいてみせた。
「私は私の塩を舐めた人は全員覚えているのよ」
ドレスの中から桃色の石が現れる。それで、私はハッと思い出した。
「ああ、ソバカスさん!」
「あなた、そんなふうに思っていたの? 失礼だわ」
女性を怒らせると面倒になる。私は失言について平謝りに謝った。
6
「島の人たち、ちゃんと逃げられていればいいのだけど」
今のところ、この浜にたどり着いたボートは一艘。乗っていたのは七人、女性はソバカスさんだけだった。女性をずぶ濡れの夜着姿のままにしておくわけにもいかないので、ひとまず私の滞在している部屋に招き、バスルームに入ってもらった。人心地ついた様子でガウンにくるまったソバカスさんが、湯気の立つコンソメスープ(もちろん彼女は大量の塩を加えていた)をすすりながらあっけらかんと語る。
「地面がそれはもうぐらぐら揺れて、走るのにも一苦労だったわ。真夜中だったし」
「私も寝てたのよ。びっくりしたわ。慌てて衣裳入れからドレスを引っ張りだして」
ソバカスさんがこの恐ろしい経験をまるで気の利いた世間話のように話せば話すほど、鼻の奥がツンとして、私は相づちを打ちながらその感覚に必死に耐えていたのだが、彼女が、
「地面がそれはもうぐらぐら揺れて、走るのにも一苦労だったわ。真夜中だったし」
「私も寝てたのよ。びっくりしたわ。慌てて衣裳入れからドレスを引っ張りだして」
ソバカスさんがこの恐ろしい経験をまるで気の利いた世間話のように話せば話すほど、鼻の奥がツンとして、私は相づちを打ちながらその感覚に必死に耐えていたのだが、彼女が、
「とっさにこの岩塩しか持って出られなかったから、文無しなのよ」
とテーブルの端に置いたピンク色の石に、まるで恋人の髪を撫でるようにそっと触れたので、たまらなくなってしまった。喉から鼻を圧迫するように熱っぽい塊がせり上がってきて、とうとう、私は泣いた。
ソバカスさんは流石にぎょっとしたようで、私を見ない為にか目を泳がせながら黙ってスープに集中しはじめる。
この食べ物の味もろくに判らない女性が、せめて宝石でも引っ掴んで逃げてきたのであれば、私はもっと穏やかな気持ちでいられたのだが。たった一つ塩の塊だけを抱えて、濡れないように自分のドレスまで着せてしまって、それが無事だったことに得意げな顔をして、この人は、もっと他の様にはできなかったのだろうか? それで私は無性に泣けてしまったのだった。彼女に同情しているわけではない。とにかくわけが分らなくって泣いているのだ。
7
素寒貧のソバカスさんに国までの旅費を貸すことになった。
「私の家まで来てくれたらその場で耳を揃えて返すし、もちろんお礼もするわ」
とのことだったので、私も数ヶ月ぶりに故郷の土を踏むことにした。実家のほうではまだ帰ってきて欲しくないに違いないが、家に近づかなければ問題ないだろう。
退屈な船旅の間に例の手品をソバカスさんに見せた。近くにいた太った老紳士はしきりに感心してくれたが、彼女はどうでもよさそうに鼻を鳴らしただけだった。悔しいので今度塩の話をされたら同じことをしてやろうと思う。
「真っ赤だね」
私とソバカスさんは甲板から水平線と空を眺めていた。
「毎日真っ赤だわ」
夕陽鑑賞は私たちの日課になっていた。
「そうそう、これあげるわ」
と、不意にソバカスさんがドレスのポケットから取り出したのは、一枚の金貨だ。
「手品にでも使って」
「? ありがとう」
受け取った金貨は、コインと言うには難ありな代物だった。薄いガタガタの鉄板をどうにか丸く切り抜いて、薄めに薄めた金でメッキした感じで、なんとも素人仕事だ。
「どこの国のお金だい? 使えるのか?」
「アメリカの南の方を旅した時にちょっとね。見たら判るでしょうけど、贋金貨なの。お勘定に混ざっていてね。もちろんどこでも使えないわ」
「君、文無しなのにこんなものばっかり持ってるなぁ」
「持ち出したドレスにたまたま入ってたのよ」
金貨は水平線の向こうから差す赤い光を鈍く反射させていた。
「そのコインを作った現地民のアステカ族は厭世的な世界観を持っていてね、彼らの神話によれば、この世界は大地震で滅んでしまう運命にあるんですって」
「……ふうん」
塩の話ではなかったので、私は鼻で笑ったりしなかった。
それから私たちは、灰色の曇天と反射する海の隙間で輝きながら沈んでいく太陽に没頭した。美しい気もしたし、もしかしたら醜悪なのかもしれなかった。
どちらにしろ、夕日というものは幾度見てもただただ胸が締め付けられるのだった。こんなことを口に出すとソバカスさんは決まって馬鹿にしてくるので、私は黙って雲から赤色が消えるのを待った。
8
この噴火で成層圏まで達した微粒灰の影響により地表に達する日光量は減少、翌年の北半球全体を覆った異常寒冷気候の原因とされている。
山の一二〇〇メートルが吹き飛んだとされ、島東部の半島からはすべての生物が息絶えた。
しかし山が火を噴こうが地面が舗装されていない道を行く馬車のごとく揺すられようが、終末などは訪れなかったのであって、次の年の凍える夏、私、エメット・ランガムとソバカスさんことエリザベス・スターはどういうわけか結婚する運びとなったのだった。