第1話 海神に選ばれた男
――海の中にいた。
知念稀琉が最初に感じたのは、身体を包み込む冷たい水の感触だった。
目を開けても、見えるのはどこまでも続く青。
上も下も分からない。
太陽の光さえ届かない深海にいるはずなのに、不思議と息苦しさはなかった。
稀琉「……ここ、どこだ?」
声を出した。
当然、水の中では声など届かない。
そう思っていた。
だが――。
???『知念稀琉』
突然、頭の中に女性の声が響いた。
稀琉は驚いて周囲を見回した。
稀琉「誰だ?」
???『こちらです』
目の前に、小さな青い光が現れた。
最初は星のように小さかった光が、徐々に大きくなっていく。
やがて光は人の形になった。
現れたのは、一人の少女だった。
銀色の長い髪。
透き通るような青い瞳。
白と青を基調とした衣装。
そして背中には、水でできた巨大な翼が広がっていた。
少女は静かに稀琉を見つめている。
稀琉「……誰?」
???「私はアクアリス」
少女は胸元に手を当てた。
アクアリス「この世界を見守る海神です」
稀琉「海神……?」
稀琉は思わず苦笑した。
稀琉「いやいや。そんなの信じろって言われても無理だろ」
アクアリス「無理もありません」
アクアリスは微笑んだ。
アクアリス「あなたは今まで、自分の世界で生きてきたのですから」
稀琉「……俺の世界?」
アクアリス「そうです」
その言葉を聞いた瞬間、稀琉の脳裏に記憶が蘇る。
いつもの日常。
見慣れた街。
そして――。
最後に見た景色。
だが、その記憶には奇妙な違和感があった。
稀琉「……俺、死んだのか?」
アクアリス「正確には、あなたの世界での人生は終わりました」
稀琉「やっぱり死んだのかよ……」
稀琉は頭を抱えた。
稀琉「それで、俺をどうするつもりなんだ?」
アクアリス「あなたには、お願いしたいことがあります」
アクアリスが手を差し出す。
その瞬間、海底が青く輝いた。
稀琉の目の前に巨大な映像が浮かび上がる。
そこには見たこともない世界が映っていた。
巨大な大陸。
空を飛ぶ魔物。
魔法で動く船。
そして、炎に包まれる街。
稀琉「……これが?」
アクアリス「あなたがこれから行く世界です」
稀琉「異世界ってことか?」
アクアリス「はい」
映像が切り替わる。
今度は海だった。
巨大な黒い船が、無数の軍艦を率いている。
その船から黒い霧が広がっていた。
霧に触れた海は黒く染まり、魚や海の魔物が次々と苦しみ始める。
アクアリス「魔王軍が海を支配しようとしています」
稀琉「魔王軍……」
アクアリス「彼らの目的は、この世界に存在するすべての海を支配すること」
稀琉「なんで海なんだ?」
アクアリス「この世界では、海が最大の魔力源だからです」
アクアリスは稀琉の右手を見つめた。
アクアリス「そして、あなたには海を操る力があります」
稀琉「俺に?」
アクアリス「はい」
その瞬間。
稀琉の右手に激痛が走った。
稀琉「っ……!」
青い光が右手を包み込む。
皮膚の上に、見たことのない紋章が浮かび上がった。
波を思わせる円形の紋章。
その中心には、青い宝石のような光が宿っている。
アクアリス「それは《海神の紋章》」
稀琉「海神の……紋章?」
アクアリス「千年に一人しか現れない、海を統べる者の証です」
稀琉は右手を見つめた。
稀琉「俺なんかに、そんな力を持たせて大丈夫なのか?」
アクアリス「だからこそ、あなたを選びました」
稀琉「理由は?」
アクアリスは少しだけ悲しそうな顔をした。
アクアリス「あなたは、力を持つことよりも、力をどう使うかを考える人だからです」
稀琉「……買いかぶりすぎじゃないか?」
アクアリス「そうでしょうか」
アクアリスが微笑む。
アクアリス「一つだけ、約束してください」
稀琉「何を?」
アクアリス「仲間を、決して見捨てないこと」
稀琉はしばらく黙っていた。
そして――。
稀琉「分かった」
アクアリス「本当に?」
稀琉「ああ」
稀琉は自分の右手を握りしめる。
稀琉「俺にできるかは分からない。でも、見捨てないって約束くらいはできる」
アクアリスは嬉しそうに笑った。
アクアリス「ありがとう」
その瞬間、世界が大きく揺れた。
海底のさらに奥から、巨大な音が響く。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
稀琉が振り返る。
そこには、巨大な黒い船が浮かんでいた。
船体には無数の魔法陣。
黒い帆。
そして船首には、巨大な竜の頭蓋骨が飾られている。
稀琉「あれが魔王軍の船か?」
アクアリス「違います」
アクアリスの表情が険しくなる。
アクアリス「あれは、あなたがいずれ戦うことになる船です」
稀琉「いずれ……?」
アクアリス「あなたには、まず一隻の船を探してもらいます」
稀琉「船?」
アクアリス「《アルカディア》」
その名前を聞いた瞬間、稀琉の紋章が強く輝いた。
アクアリス「千年前、世界を救った伝説の船です」
稀琉「そんな船が残ってるのか?」
アクアリス「眠っています」
稀琉「どこに?」
アクアリスは海の彼方を指差した。
アクアリス「蒼天海域のどこかに」
青い光が稀琉の身体を包み始める。
稀琉「待て! 俺、まだ何も――」
アクアリス「大丈夫です」
稀琉「何が大丈夫なんだよ!」
アクアリス「あなたは一人ではありません」
最後に、アクアリスが微笑んだ。
アクアリス「必ず、仲間と出会います」
光がさらに強くなる。
アクアリス「そしていつか――」
その声が遠ざかっていく。
アクアリス「あなたは、この世界の海王になります」
稀琉「海王……?」
その言葉を最後に、稀琉の意識は途切れた。
⸻
次に目を開けたとき。
稀琉の目の前には、見たこともない港町が広がっていた。
石造りの建物。
魔法で動く馬車。
獣人。
エルフ。
そして港に並ぶ巨大な魔導船。
稀琉はゆっくりと立ち上がった。
稀琉「……本当に異世界に来たんだな」
そのとき――。
???「あなた、そこで何してるの?」
背後から少女の声がした。
稀琉が振り返る。
そこに立っていたのは、青い髪の少女だった。
彼女の視線は、稀琉の右手に向けられている。
???「その紋章……」
稀琉「これ?」
稀琉が右手を見せる。
少女の顔から、笑みが消えた。
???「……まさか」
稀琉「どうした?」
少女は小さく呟いた。
???「海神の使徒……」
そして、その瞬間。
港中に警報が鳴り響いた。
――ゴォォォォン!!
港の兵士「魔物襲来!」
港の兵士「海から巨大な魔物が来るぞ!」
稀琉が海を見る。
水平線の向こうから、巨大な影が迫っていた。
少女が叫ぶ。
???「逃げて!」
だが稀琉は動かなかった。
なぜなら――。
その巨大な魔物の声が、なぜか聞こえた気がしたからだ。
稀琉「……お前」
稀琉の右手が青く輝く。
稀琉「俺に、何か伝えたいのか?」
海が大きく揺れた。
そして稀琉の異世界での物語は――。
ここから始まった。




