動かない路面電車
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
私は鉄の塊だ。
十八トンの鋼鉄のボディに、吊り掛け式のモーター、そしてパンタグラフの角を生やしている。
路面電車。チンチン電車。
街の人々は親しみを込めて私をそう呼ぶ。
私は街の血管を走る赤血球だった。
道路の真ん中に敷かれた二本のレール。それが私の絶対的な軌道だ。
右にも左にも行けない。
ただ前へ、そして後ろへ。
その不自由さが、私には心地よかった。
迷う必要がないからだ。
決められた道を、決められた時間に、実直に走る。
それが私の職務だった。
早朝。
パンタグラフが架線に触れ、直流六〇〇ボルトの電流が私の体内に奔流する。
モーターが唸りを上げ、コンプレッサーが腹の底で咳き込む。
目覚めだ。
油の染み込んだ床板の匂い。吊り革が触れ合う音。
運転士がマスコンを握り、ブレーキ弁を緩める。
「出発進行」
重たい車輪が転がり出す。
レールの継ぎ目を越えるたび、身体中に小気味よい振動が走る。
私は多くの人を飲み込み、そして吐き出した。
市場へ急ぐおばちゃんたちの、威勢のいい会話とネギの匂い。
通学する学生たちの、眠そうな顔と参考書のページをめくる音。
彼らは私の座席シートに座り、窓枠に肘をつき、流れる街の景色を眺める。
私は知っている。
この街がどのように変わり、どのように年老いていったかを。
木造の商店がコンクリートのビルになり、空き地が駐車場になり、また新しいマンションになる。
私の車窓は、街の歴史を映すスクリーンだった。
雨の日。
車輪が空転しやすい。
運転士が慎重に砂を撒く。
ワイパーが扇形に視界を拭うが、ガラスはすぐに滲む。
湿った傘の匂い。曇ったガラスに指で書かれた文字。
『あいあい傘』
誰かが書いたその落書きを、私は消さずに運んだ。
夜。
酔っ払いたちが乗ってくる。
赤ら顔。酒の臭い。
「おい、運転手! まだ着かねえのか!」
彼らは理不尽に怒鳴り、つり革にぶら下がる。
やれやれ。
私は少しだけブレーキを強めにかけて、彼らをよろめかせる。
ささやかな抵抗だ。
でも、私は彼らを憎めない。
彼らもまた、社会というレールの上で必死に走り、摩擦ですり減っている同類だからだ。
五十年。
私は走り続けた。
私の車体は錆び、塗装は何度も塗り直された。
モーターの音は喘息のように苦しげになり、床板は歩くたびに軋むようになった。
新型車両が導入された。
彼らはスマートだ。
低床式で、静かで、エアコンが効いていて、滑るように走る。
「古い車両はうるさいな」
乗客が呟く。
すまないね。
でも、この振動こそが「生きている」証なのだが。
引退の日。
さよなら運転。
「ありがとう」「お疲れ様」
沿道でカメラを構える鉄道ファンたち。手を振る子供たち。
私は花束をもらったわけではないが、誇らしかった。
私の最後の旅。
車庫への引込線。
電源が落ちる。
パンタグラフが降ろされる。
プシュー……。
エアブレーキの空気が抜ける音が、私の最後のため息となった。
私の魂が途絶えた。
鉄の塊に戻る瞬間。
もう二度と、あのレールを走ることはない。
解体されると思っていた。
バーナーで焼き切られ、溶鉱炉で溶かされ、鉄骨や空き缶になるのだと。
しかし、運命は違った。
私は今、公園にいる。
レールはない。コンクリートの台座の上だ。
車輪は固定され、もう一ミリも動けない。
だが、私は孤独ではない。
「出発しまーす! チンチン!」
運転席に座る男の子が、口で音真似をする。
マスコンをガチャガチャと動かす。
客席には、ぬいぐるみやお菓子の箱が並べられている。
子供たちの秘密基地。
それが私の第二の職場だ。
昼下がり、ママたちが私の座席でお喋りをする。
日向ぼっこをする猫が、私のシートで丸くなる。
動かない。
風を切ることも、街の景色が変わることもない。
けれど、子供たちの想像力の中で、私はどこへでも行ける。
空の彼方へ、宇宙の果てへ、虹の向こうへ。
現役時代よりも遥かに自由な軌道を、私は走っているのだ。
秋。
街路樹の銀杏が、私の屋根に黄色い葉を降らせる。
私はじっと佇む。
錆びつき、塗装が剥げても、私はここにいる。
かつて街を走った記憶を、鉄のボディの隅々に刻み込んで。
「おじいちゃん、この電車、昔乗ったの?」
孫の手を引いた老人が、私を見上げて目を細める。
「ああ、乗ったよ。これで高校に通ったんだ」
老人が私のボディを懐かしそうに撫でる。
その皺だらけの手の温もり。
ああ、覚えている。
君はあの時の、参考書を読んでいた学生か。
立派になって。
生きていてくれて、ありがとう。
また会いに来てくれて、ありがとう。
私は動かない路面電車。
けれど、誰かの思い出を乗せて、今日も静かに時を走っている。




