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動かない路面電車

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/02/01

 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。

 私は鉄の塊だ。

 十八トンの鋼鉄のボディに、吊り掛け式のモーター、そしてパンタグラフの角を生やしている。

 路面電車。チンチン電車。

 街の人々は親しみを込めて私をそう呼ぶ。


 私は街の血管を走る赤血球だった。

 道路の真ん中に敷かれた二本のレール。それが私の絶対的な軌道だ。

 右にも左にも行けない。

 ただ前へ、そして後ろへ。

 その不自由さが、私には心地よかった。

 迷う必要がないからだ。

 決められた道を、決められた時間に、実直に走る。

 それが私の職務だった。


 早朝。

 パンタグラフが架線に触れ、直流六〇〇ボルトの電流が私の体内に奔流する。

 モーターが唸りを上げ、コンプレッサーが腹の底で咳き込む。

 目覚めだ。

 油の染み込んだ床板の匂い。吊り革が触れ合う音。

 運転士がマスコンを握り、ブレーキ弁を緩める。

 「出発進行」

 重たい車輪が転がり出す。

 レールの継ぎ目を越えるたび、身体中に小気味よい振動が走る。


 私は多くの人を飲み込み、そして吐き出した。

 市場へ急ぐおばちゃんたちの、威勢のいい会話とネギの匂い。

 通学する学生たちの、眠そうな顔と参考書のページをめくる音。

 彼らは私の座席シートに座り、窓枠に肘をつき、流れる街の景色を眺める。

 私は知っている。

 この街がどのように変わり、どのように年老いていったかを。

 木造の商店がコンクリートのビルになり、空き地が駐車場になり、また新しいマンションになる。

 私の車窓は、街の歴史を映すスクリーンだった。


 雨の日。

 車輪が空転しやすい。

 運転士が慎重に砂を撒く。

 ワイパーが扇形に視界を拭うが、ガラスはすぐに滲む。

 湿った傘の匂い。曇ったガラスに指で書かれた文字。

 『あいあい傘』

 誰かが書いたその落書きを、私は消さずに運んだ。

 

 夜。

 酔っ払いたちが乗ってくる。

 赤ら顔。酒の臭い。

 「おい、運転手! まだ着かねえのか!」

 彼らは理不尽に怒鳴り、つり革にぶら下がる。

 やれやれ。

 私は少しだけブレーキを強めにかけて、彼らをよろめかせる。

 ささやかな抵抗だ。

 でも、私は彼らを憎めない。

 彼らもまた、社会というレールの上で必死に走り、摩擦ですり減っている同類だからだ。


 五十年。

 私は走り続けた。

 私の車体は錆び、塗装は何度も塗り直された。

 モーターの音は喘息のように苦しげになり、床板は歩くたびに軋むようになった。

 新型車両が導入された。

 彼らはスマートだ。

 低床式で、静かで、エアコンが効いていて、滑るように走る。

 「古い車両はうるさいな」

 乗客が呟く。

 すまないね。

 でも、この振動こそが「生きている」証なのだが。


 引退の日。

 さよなら運転。

 「ありがとう」「お疲れ様」

 沿道でカメラを構える鉄道ファンたち。手を振る子供たち。

 私は花束をもらったわけではないが、誇らしかった。

 私の最後の旅。

 車庫への引込線。

 電源が落ちる。

 パンタグラフが降ろされる。

 プシュー……。

 エアブレーキの空気が抜ける音が、私の最後のため息となった。

 私の魂が途絶えた。

 鉄の塊に戻る瞬間。

 もう二度と、あのレールを走ることはない。


 解体されると思っていた。

 バーナーで焼き切られ、溶鉱炉で溶かされ、鉄骨や空き缶になるのだと。

 しかし、運命は違った。


 私は今、公園にいる。

 レールはない。コンクリートの台座の上だ。

 車輪は固定され、もう一ミリも動けない。

 だが、私は孤独ではない。

 

 「出発しまーす! チンチン!」

 

 運転席に座る男の子が、口で音真似をする。

 マスコンをガチャガチャと動かす。

 客席には、ぬいぐるみやお菓子の箱が並べられている。

 子供たちの秘密基地。

 それが私の第二の職場だ。

 昼下がり、ママたちが私の座席でお喋りをする。

 日向ぼっこをする猫が、私のシートで丸くなる。

 

 動かない。

 風を切ることも、街の景色が変わることもない。

 けれど、子供たちの想像力の中で、私はどこへでも行ける。

 空の彼方へ、宇宙の果てへ、虹の向こうへ。

 現役時代よりも遥かに自由な軌道を、私は走っているのだ。


 秋。

 街路樹の銀杏が、私の屋根に黄色い葉を降らせる。

 私はじっと佇む。

 錆びつき、塗装が剥げても、私はここにいる。

 かつて街を走った記憶を、鉄のボディの隅々に刻み込んで。

 

 「おじいちゃん、この電車、昔乗ったの?」

 孫の手を引いた老人が、私を見上げて目を細める。

 「ああ、乗ったよ。これで高校に通ったんだ」

 老人が私のボディを懐かしそうに撫でる。

 その皺だらけの手の温もり。

 ああ、覚えている。

 君はあの時の、参考書を読んでいた学生か。

 立派になって。

 生きていてくれて、ありがとう。

 また会いに来てくれて、ありがとう。


 私は動かない路面電車。

 けれど、誰かの思い出を乗せて、今日も静かに時を走っている。


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