第3話 静かな森に、風が吹く
ゴツゴツした石に腰を下ろし、柴田は紙コップを傾けた。
「……ふぅ、染みるな」
異世界だとか転移だとか、まだ半信半疑ではある。それでも、自分の恩恵で出したコーヒーの湯気を見ていると、ここが現実であることだけは疑いようがなかった。
「初めて出したコーヒーなんですよ? もう少し感想があってもいいと思いますけど」
アヤナは肩をすくめつつも、同じように紙コップを包み、味を確かめている。
「この瞬間が、世界を名作にする……とか?」
「今考えましたよね、それ」
ジト目を向けられ、柴田は苦笑した。
森は昼間でも薄暗く、奥へ目を凝らせば獣の気配が滲んでいた。街へ向かうには進むしかないが、地上からでは方角すら判然としない。
柴田は木に登り、枝越しに広がる森と平原、そのさらに先に、かすかな街影を見つける。
人の手が入った痕跡はどこにもなく、ただ自然だけが果てしなく続いていた。
「……ここが、俺の今いる世界か」
地上へ戻ると、柴田は一度だけ頷き、二人はその方角へ歩き出した。
だが、実際に原生林を進み始めると、その距離は想像よりも重かった。
踏み固められた道などなく、落ち葉と湿った土が足元を不安定にする。枝葉が視界を遮り、進んでいる実感すら曖昧なまま、二人は木々の隙間を縫うように歩き続けた。
やがて空は茜色に染まり、森の影が静かに長く伸びていく。
「……そろそろ限界だな」
柴田が足を止めた先には、岩に囲まれた小さな空間があった。周囲を遮るように転がる岩のおかげで、風も弱く、火を使うにも都合が良さそうだ。
「ここなら、今夜は何とかなりそうですね」
アヤナも周囲を確かめ、静かに頷く。二人は街へ向かう歩みを一旦止め、野営の準備に取りかかった。
荷物から鍋を取り出し、水と干し肉、硬いパンを放り込む。簡素だが、今の二人には十分だった。
焚き火の前で湯気の立つスープを口に含むと、張り詰めていた身体が少しだけ緩む。
「……温かいな」
「ええ。歩き通しでしたから」
短いやり取りのあと、二人は火を挟んで腰を下ろした。
原生林の奥、岩に守られた小さな明かりだけが、静かな夜の始まりを告げていた。
火を挟んで腰を落ち着けると、夜の冷えがじわりと伝わってきた。
「寝る前だけどコーヒーを出そうか?」
柴田の言葉にアヤナが頷く。その時、森の奥で微かな羽音がした。焚き火の明かりに照らされ、闇の中から女の姿――いや、上半身は人、下半身は翼と鉤爪を持つ鳥の魔物が現れる。
その大きな体躯で二人を見下ろし、妖艶な笑みを浮かべていた。
「リーヨリーヨ。こんな所に人間がふたり……いいじゃないの」
甘く響く声に、柴田の思考が鈍り、身体の力が抜けていく。警戒すべきだと分かっているのに、頭が働かない。無意識のまま、手にしたコーヒーを口へ運んだ。
「鳥のようだけど……顔は人間?」
アヤナの警戒した声に重なるように、温かい苦味が舌に広がる。途端、柴田の意識がはっきりと戻った。目の前の存在が、人と獣の境を越えた魔物であることを、ようやく理解する。
魔物は二人の様子を勘違いしたのか、得意げに胸を張る。
「そんなに見とれちまってぇ……私の魅力は無敵なんだからさ」
魔物は、ゆっくりと視線を巡らせ、楽しむように笑った。そしてその視線はアヤナへ向けられる。
「リーヨリーヨ。あんた、鼻が低くて、平べったいお皿みたいな顔ね。手足も細くて、ずいぶん貧相だわ!」
「何ですって!」
怒りに満ちた声が上がった刹那、柴田の意識がはっきりと戻る。(今しかない)足元の杖を掴み、全身の力を込めて振り下ろした。
鈍い衝撃音とともに、ハーピーの翼が不自然に折れ曲がる。
「ぎゃああああっ!!」
魔物は地面に転がり、苦悶の声を上げた。
「やった……?」
一瞬そう思った柴田だったが、ハーピーはすぐに身を起こし、憎悪を剥き出しにして睨みつける。
「リーヨリーヨ。よくもやってくれたね。でもアンタ達に風は吹いて無い。結局アンタ達は、私に縊り殺されて食われる運命に変わりは無いのさ」
折れた翼を引きずりながら、ハーピーは地を蹴って突進する。鉤爪が振り下ろされ、柴田の腕に痛みが走った。
「くそっ……まだ動けるのか!」
「アンタのせいで飛べなくなったんだよぉ! 許さねぇぞ!!」
「柴田さん!」
アヤナは距離を取り、小石を拾って投げつける。
「ちっ!」
石が顔に当たり、魔物がわずかに怯んだ。
「憎たらしい小娘め……」
魔物は鋭い目つきでアヤナを睨む。
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんでこっちに来るの!?」
アヤナは慌てて後ずさるが、魔物の爪が彼女の外套を裂く。
「きゃっ!」
紙一重でかわしながら、アヤナは柴田に叫ぶ。
「早く何とかしなさいよ!!」
「無茶言うな!」
飛べない鳥の魔物と、戦闘経験のない二人──戦いは次第に泥仕合となった。決定打を欠いたまま、互いに息を荒げ、倒れ、起き上がる。やがて柴田は押し倒され、魔物が覆いかぶさる。
「リーヨリーヨ。これで止めさ」
その時、夜の森を風が抜けた。片翼を失ったハーピーの体勢が崩れる。
「風が吹いたぜ!」
柴田は渾身の力で魔物を押し倒した。その背後で、アヤナが杖を振り上げていた。
鈍い衝撃音。ハーピーの身体が跳ね、力が抜けていく。
「リーヨリーヨ。あなたの顔、平べったいどころか歪んで見えるわ。それに鶏ガラみたいに貧相ね。……あら、ハゲワシみたいな鳥だったわね」
冷たく言い放つ声を最後に、魔物は動かなくなった。焚き火の爆ぜる音だけが、再び夜の森に戻っていた。




