第1話 優等生は、女神にも遠慮しない
佐藤あやなこと、アヤナは、有名大学の付属高校に通う三年生で、成績優秀な優等生だった。校内ではディベート部に所属し、頭の回転が早く、論理的に物事を判断する性格でもあった。
その日も、放課後の帰り道を一人歩いていた。夕方の空気は穏やかで、いつもと変わらぬはずの道だった。だが、車道を挟んだ向こう側の歩道で、見覚えのない幼い女の子の姿が目に入る。ふわふわの髪を揺らし、楽しそうにスキップするその姿があまりにも愛らしく、アヤナは思わず視線を向けた。
幼女はやがてこちらに気づき、にこりと笑って小さく手を振ってきた。反射的に振り返したその一瞬、胸の奥がふっと温かくなる。だが、次の瞬間だった。幼女は突然こちらへ走り出し、ガードレールの切れ目から車道へ飛び出した。
「危ない!」
考えるよりも早く、アヤナの体は動いていた。迫り来るトラックのエンジン音が耳を打ち、心臓が強く跳ねる。必死に走り、アヤナは幼女を抱き留める。そのまま勢いを殺さず、反対側の歩道――ガードレールの内側へ逃げ込もうとした、その瞬間だった。
視界の端で、人影がふらりと現れる。反対側の歩道から出てきた中年の男性だった。避ける余裕はなく、強い衝撃が走る。幼女を抱えたまま体勢を崩し、二人はもつれるようによろめいた。その拍子に、アヤナは幼女を庇う形でバランスを失い、ガードレールの外側へ弾き出される。
耳を裂くようなブレーキ音が響いた。だが、重い車体は止まりきらない。視界が急速に暗くなり、意識が遠ざかっていった。
次に目を覚ましたとき、アヤナは現実とは思えない空間に立っていた。淡い金色の光に包まれ、足元は雲のように柔らかい。目の前には、スーツを整然と着こなした端正な女性が立っている。
「目が覚めましたか、アヤナさん。私はこの神界を統べる女神です」
彼女は、アヤナが幼い女神を救った功績によって命を落とし、その報いとして新たな世界へ転生する機会を与えられるのだと告げた。ここが現世ではないことを、アヤナは戸惑いながらも静かに理解し始めていた。
アヤナはその世界について根掘り葉掘り女神から聞いた後、はっきりとした声で答えた。
「……危険な世界だっていうなら、全てのダメージから身を守る、絶対のバリアをください」
すると女神は少し考え込み、首をかしげて微笑んだ。
「…残念ですが、貴女の功績でもそのような強力な恩恵を与えることはできません」
アヤナは一瞬眉をひそめると、ふと思い当たった。
「じゃあ、私がぶつかったあの男性…あの人はどうなったんですか?」
女神は少し言いにくそうに答えた。
「彼は貴女と一緒に倒れ込み…同じように命を落としました」
「なら、その人も転生させるべきですよね?だって、彼は幼い女神の救助に巻き込まれて亡くなったんですから」
女神は少しだけ驚いた表情を浮かべ、そしてあきらめたようにうなずいた。
「…確かにそれも一理ありますね。では、その男性も貴女と共に転生させることにしましょう」
アヤナはここぞとばかりに続けた。
「それなら、私が彼のせいで逃げられなかったのだから、彼が受けるはずの力の一部を私に譲渡してもいいはずです。…その分も含めて、私に絶対のバリアをください」
女神は一瞬固まり、肩を落としつつ彼女を見つめた。
「…それは良いのですか?彼が受けるべき恩恵を貴女に分けるというのは…」
アヤナは真っ直ぐな目で、力強くうなずいた。
「彼は私の死に対して賠償責任があるし、私の提案のお陰で転生出来たという恩もあるから問題ないわ。だから、その分もください」
女神は面倒そうに小さくため息をつくと、仕方ないといった表情でうなずく。
「良いならいいのです。では、そのようにしましょう。ついでに異世界でしばらく生活できる物資も用意しておきましたので、それを持っていきなさい」
「そういえば」アヤナは思い出したように言う。
「あの人も同じ所に転生されるのですか、あの人の名前は」
女神はアヤナの言葉を遮って言った。
「ええ、同じ場所に転生されますよ。彼の名前は柴田修介。もういいですね」
そう言うと女神はこれ以上議論はしたくないという風に手を軽く振り、あたりが明るい光に包まれる。アヤナの視界は再び暗転した。
柴田修介は、かつて技術者として評価されながらも、時代と会社方針の変化に置き去りにされた、五十を過ぎたサラリーマンだった。
その日は発熱と頭痛に悩まされ、集中力の欠けたまま仕事を切り上げ、いつもより早く帰路についていた。ぼんやりと足を運ばせていた。
頭の奥で鈍い痛みが脈打つ中、視界の端を小さな影が横切った気がして、柴田は反射的に顔を上げた。子供……だったかもしれない。こんな時間に、そんな考えが浮かんだ次の瞬間、不意に強い衝撃を受け、体が前へ投げ出された。地面に手をついた拍子に視界が大きく揺れ、夜の街は唐突に闇へと沈んだ。それが、彼にとって最後の現実だった。
次に意識が浮上したとき、柴田は奇妙な光の中に立っていた。まぶしさに目を細めながら、ここがどこなのかを考えようとするが、思考はひどく鈍い。スーパーか、コンビニにでも入ったのだろうか。そんな的外れな感覚のまま、目の前に立つ女性が何かを話しているのを、ただ聞き流していた。
一方その女性――アヤナを転生させた女神は、内心で深いため息をついていた。幼い女神を救った功績に対する転生処理は既に骨が折れる交渉で終えている。そこへ同じ事故に巻き込まれた男まで相手にするのは、正直なところ億劫だった。
本来なら魂は肉体の不調から解放されるが、彼が死亡直前まで思考力を落としていたことを思い出し、女神はあえてその状態を保ったまま話を進めることにした。余計な質問や交渉をされず、さっさと済ませるためである。
女神は告げた。
「あなたは不慮の事故で命を落としました。その功績により、別の世界で新たな人生を始める機会を差し上げます。加えて、希望する恩恵――ギフトも一つ与えましょう」
柴田は少し考える素振りを見せ、曖昧な表情のまま口を開いた。
「ギフト……ですか。ああ、海苔よりはコーヒーがいいですね。ええと、お歳暮でしたっけ、それともお中元でしたか」
どうやら彼は、ギフトをお歳暮か何かのことだと思っているらしい。
女神は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも淡々と決定を下した。
「分かりました。あなたはいつでもコーヒーを飲めるようになります。味も器も自由に選べます。ただし、その器は飲み終えるか零した時点で消えますので、売却はできません」
柴田は深く理解した様子もなく、ぼそりと呟いた。
「若い頃は何杯飲んでも平気だったんですがね……今は二杯で腹を壊す。情けない話です」
その言葉を聞き、女神は眉を寄せたのち、あっさりと付け加えた。
「では、体を気にせず飲めるよう、肉体はあの娘と同じ年頃まで若返らせておきましょう。恩恵の釣り合いも取れますから」
必要最低限の生活物資を与えることだけ告げ、女神は片手を軽く振った。
「それでは、元気で」
次の瞬間、柴田の意識はまばゆい光に包まれ、神界から切り離された。
再び目覚めたとき、彼は自分の体が驚くほど軽いことに気づいた。あれほど苦しめられていた頭痛も倦怠感も消え去っている。目を閉じたまま深く息を吸い込むと、湿った土と草、腐葉土の混じった濃い森の匂いが肺を満たした。
恐る恐る目を開くと、そこには見渡す限りの原生林が広がっていた。苔むした巨木、重なり合う枝葉、木漏れ日が描く光と影。その静けさと生命感に圧倒され、柴田は思わず叫んでいた。
「どこじゃこりゃー!」
その声は森の奥へ吸い込まれていき、彼の新たな人生の始まりを告げるかのように、長く響き続けた。




