番外編【リオル・アルベルト/レオ】
あの日、商人のうるさい怒鳴り声に耳を塞いだ。獣人の売買か。堂々とこんな街中でやるとはな。
あんなゲスい商売をしている店を潰す方法なんていくらでもある。僕にはそれができる。
けれど、あの時はどうでもよかった。
僕には関係ない。そう思って通り過ぎるつもりだった。
『やめろ……俺を、見るんじゃねぇ!!』
……足が止まった。
かすれた声。
だが、その声は全身から溢れ出すような魂の底の叫びだった。
身体が勝手に動き、気づいた時には店の前へ駆け寄っていた。何年ぶりだろうこんなに胸が動いたのは。
檻の中のあいつを見た瞬間、確信した。
――ああ、見つけた。
きっと僕が探していたものだ。
『てめぇは……誰だ!』
汚れた獣人は睨みをきかせ、僕をゆっくり見下ろした。獲物を狙う獣みたいに琥珀色の瞳をぎらつかせていた。
――いい目だ。まだ腐っていない。
僕はほんの少し身を乗り出して、その獣人に子供らしくにこりと無邪気に笑って見せた。
『じゃあ君はどんな子に懐くの?』
鉄格子を軽く撫でた。その指先に泥の感触が残り、檻からは血の匂いが鼻を刺激する。他の獣人たちが苦しんでいるのが見えた。本当に胸糞悪い場所だ……。
『俺をちゃんと扱ってくれる奴に決まってんだろ? 人間なんかじゃなくて優しい獣人だ』
微かな希望を持った瞳で夢物語を語っていた。甘いな。なんの後ろ盾もない、ただの獣人が助けに来てくれるなんてあるわけないだろう。
だが思った通り――こいつは救いを求めている。
だったら簡単だ。
僕が救いの手を偽ればいい。
笑顔のまま、僕は声を低くして言った。
『……君は、そうやって救いの手が差し伸べられるのを檻の中で待つだけなの?』
そんな確信めいた言葉を囁くと、獣人の顔色が強張った。
そうだ、気付け。
自分が変わらないと状況なんて変えられないんだよ。
僕の手を取れ。
お前を育ててやる。
――僕だけの忠実な駒になるようにな。
♢♢♢
数年の時が過ぎた。
朝の光が薄く差し込む食堂に、私はいつものように執事服に身を包みご主人様に挨拶を送った。
「ご主人様、おはようございます」
静かに席に着き、ご主人様はふと私の顔を見られた。
「ああ」
「本日の朝食は、鮮度の良いトマトとレモン果汁を絞った冷製スープに、焼きたてのパンとベーコン、そして温かく煮込んだオートミールをご用意しております」
ご主人様はナイフへと伸ばしていた手を止めた。
「そういえば……昨日の夜明けに”害虫”が出たみたいだな。処理は済ませたか?」
「はい、始末いたしました。眠りを妨げてしまい申し訳ございません」
私は深く頭を下げた。
……いつからでしょうか。
ご主人様が私の前で本来のお姿をお見せするようになったのは。
信頼されていると申せば聞こえはよいのですが、ご主人様の真意は私には測りかねるものがございます。
食事中もご主人様は、いつものように窓の外へと視線を向けておられました。自然と周囲を警戒なさるそのお姿は、以前と変わらず余裕を感じさせます。
思い返すのはあの日、初めてご主人様の屋敷に連れて来られた夜のこと――。あれから幾つもの季節が巡り、屋敷には絶えず客が訪れ、私は手配に追われる日々を過ごしております。
しかし、ご心配には及びません。私がここにおりますゆえ。
「夜会へ行く準備はできているか?」
「すべて整っております」
背丈はわずかに伸びましたが、声色は相変わらず幼いままにございます。ですが、ご命令の重みはいかなる大人にも引けを取りません。幼さを纏った冷徹さ――それがご主人様でございます。
ふと、目の前でカップを傾けるご主人様を見つめながら思います。私も随分とその掌の上で転がされておりましたが、その小さな手を取ったことを後悔したことは一度もございません。救われたのは紛れもない事実にございます。
そして、流れゆく月日の中で、私はようやく知ったのです。ご主人様に科せられた運命の重さを。そして……私がお仕えできる年月にも限りがあることを。
「レオ、夜会は何が起こるか分からない。いつも通り僕の側にいろ」
「仰せのままに。ご主人様」
私だけはいつか来るその日まで、ただひたすらにご主人様の味方であり続ける所存でございます。




