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第4話 風の香るスープ

 その日、エアリアル号は、ゆるやかに雲海を渡っていた。


 下を見れば、うす青い霞がかかっていて、山も川も輪郭がぼやけている。今日は晴れているけれど、陽射しは柔らかく、雲がちょうどよく光を和らげていた。

 耳を澄ませば、かすかな風切り音と、木材がきしむ音だけが響く。穏やかな空の時間だ。他の夢舟ではこうはいくまい。エアリアル様々である。




 ぼくはベッドに腰掛け、サイドテーブルの上で手帳をぱらぱらとめくっていた。編纂室からの依頼の控えや、回収した夢片の簡単なメモ。別に急ぎでやることでもないが、こういうときに少し整理しておくと、あとで楽なのだ。


 ......とはいえ、数分もすれば集中は切れる。いつの間にか視線は窓の外に流れ、ぼんやりと雲の形を追ってしまう。


 そして、




 くぅー、




 という小さな、けれど確かに聞こえた音。......まあ、なんだ、ぼくのお腹が抗議したらしかった。


「……お腹、空いたな」


 思わず声に出た。


 人間を半分ほど辞めているのに、ぼくのお腹の虫は大変に素直だ。他の配達人が人間だった頃の習慣に“努めて”いるのに対し、ぼくの場合はこうしてすぐに空腹を覚え、夜になると(たまに夜でなくとも)眠くなり、“溜まる”ものは溜まる。半分ではなく、三分の二くらいは人の割合が占めているのではないだろうか?




 腰を上げ、「シルフィ」と声を掛けると、足元あたりで微かに空気が揺れた気がした。

 目には見えない名操舵手によって、エアリアル号はほんのわずかに速度を落とし、同時に揺れが小さくなった。


 最小限の言葉で、ぼくの意を汲み取ってくれる彼女(彼?)には、本当に頭が上がらない。


「ありがと」


 声にすると、返事の代わりに、空気が少しだけ温かくなった気がした。




ぼくはルア。風読みのルア。


だけど今は、腹ペコのルア。


今からご飯の時間である。




※※※




 エアリアル号の船内はこぢんまりとしている。


 具体的には、ベッドとその横のサイドテーブル。そして仕事道具や保存食などを閉まっておく、小さな棚。置いてあるものといえば、そのくらい。

 ......いや、まあ、他の配達人からすれば、十分に規格外な大きさをしているのだけれども。


 棚を開け、中を確認すると、乾燥させた野菜の袋、塩漬けの小さな肉、布袋に入れた香草、硬いパン。それと、深緑色の小瓶──干し果物を漬けた甘い酒。

 このくらいなら数日はもつし、保存もきく。贅沢はできないが、空の上で腹を満たすには十分だ。

 今日の気分は......スープ、だろうか。あったかいものがほしい。


 ベッド脇の隙間から、折りたたみ式の小型バーナーと金属のカップを引っ張り出す。

 カップの内側には、過去に作ったスープの色がうっすら残っている。洗っても完全には落ちない、空の上での暮らしの跡みたいなものだ。

 少し不衛生かもしれないが、これは仕方ない。いくらエアリアル号でも、食器を洗う設備なんてものはないのである。




 一通りの器具と食材を用意したら、小型バーナーをサイドテーブルに置き、小さな燃料カートリッジを差し込み、火をつける。青白い炎が、金属の底を淡く照らした。


 革製の水袋からカップに水を注ぐと、ちょろちょろと心地よい音が響く。

 温まるまでの間に、干し野菜を袋から取り出す。指で軽くほぐすと、ふわっと土の匂いがした。

 塩漬けの肉は小さく刻む。刃の感触が指先に伝わり、まな板代わりの板に小気味よい音が落ちる。


「これで、うまくいけばいいけど」


 料理は得意じゃない。けれど、空の上で誰かが作ってくれるわけでもない。自分でやるしかないのだ。




 水が小さく泡立ち始めたところで、野菜と肉を放り込む。

 じわじわと、香ばしい匂いが立ちのぼった。塩気のある肉の匂いが、干し野菜の甘みと混ざり合う。

 香草を手に取り、指先で潰す。パリパリと乾いた音とともに、清涼な香りが広がる。




 ──お? これは中々いいのでは?




 思い付きで入れた香草だが、肉と野菜の香りに混じって、ちらりと顔を覗かせる。いい感じのアクセントになっていて、随分と食欲を唆ってくれるじゃあないか。成功間違いなしである。


 


 そうして心躍らせてスープをかき混ぜていた時、甲板のほうから「コツン」と小さな音がした。


 何だろうと顔を上げ、小窓からのぞくと、小さな野鳥が欄干にとまっていた。灰色の羽に白い胸。首をかしげて、こちらをじっと見ている。


 おそらく風に乗って舞い上がり過ぎた渡り鳥か。どうやらお仲間もいないようだし。


「悪いけど食べられないよ、きみには」


 そう笑いかけると、鳥はしばらく首を傾げたまま、やがて翼をはためかせて去っていった。


 ──まあ、流石に鳥肉を食べさせるわけにはいかないからなあ。


 ひとりごちて、ぼくは、短時間ではあるが来訪してくれた友を見送った。




 視線を戻すと、スープは少しずつ色を深め、表面に小さな泡が揺れている。

 木のスプーンで軽く混ぜながら、ぼくは甲板のドアを半分だけ開けた。外の風がすっと入り込み、スープの匂いを優しく攫っていく。

 その風が、少し甘いような、遠くの森を思わせる匂いを運んできた気がした。


 湯気に包まれながら、ぼくはふっと息をつく。

 まだ味見もしていないのに、少しだけ心がほぐれていくのがわかる。




 ──これくらいの時間が、空の旅にはちょうどいい。




 スープの香りが船内に満ちていく。


 木のスプーンを動かす音が、静かな空間のなかで心地よく響く。

 ぼくは少し身を乗り出しながら、湯気に目を細めた。


 やがて鍋の中の具材はほどよく柔らかくなり、香りも豊かになった。


「よし、できた」


 完成である。ぼくは火を止め、バーナーを片付け始める。

 小さな金属カップを手に取り、船室のサイドテーブルに置くと、ふうと息を吐いた。


 甲板のドアを開け放ち、淡い風を取り込む。

 それからゆっくりと、スープをすくい口に運ぶ。


「ああ……」


 熱さと、ほんのりとした塩気が喉を通っていく。

 肉と野菜もいい具合に柔らかく、肉から溶けた塩気と旨味が野菜にも絡んで、具が少ないながらも食べ応えは十分。


 味は完璧とは言えない。むしろ、ちょっと濃いくらいかもしれない。

 だけど、それでいい。

 この場所で、この時間を感じるためのものだから。


 隣に置いたパンを手に取り、スープに浸す。

 硬くてぱさぱさしたパンが、ゆっくりと柔らかくなっていく感触は、ちょっとした喜びだった。


 「まあ、十分成功だよね」


 ぼくは小さく笑いながら、最後の一口を飲み干した。


 ふと、カップの底を眺めると、まだ少しだけスープが残っている。もったいないと思い、パンをちぎって底を拭くようにして食べ尽くす。

 いつの間にか、残さず食べることが習慣になっていた。

 もしかすると、遠い昔、孤児院での暮らしがそうさせたのかもしれない。




 食事を終えたら、布の布巾を手に取る。

 当たり前だが、飲み水しかない船の中、洗い物はできない。今度水辺に降りた時に洗浄するとして、今はこのくらいで十分だろう。ズボラとか言ってはいけないよ。


 少し湿らせた布巾で軽くカップを拭き、甲板の風通しの良い場所に置いた。

 自然の風が、乾燥と清浄を助けてくれるだろう。

 シルフィがそっと空気を送り、乾燥を促しているのを感じる。


 満たされたお腹を擦りながら、ぼくは食後の紅茶の準備を始めた。




※※※




 しばらくしてから外に出ると、柔らかな風が頬をなでた。


 遠くの雲はゆっくりと流れ、空は変わらず静かだ。鳥の声が遠くから聞こえ、時折小さな影が空を横切る。




 ──さっきの小さな来訪者は、次の目的地に着いただろうか。


 それとも仲間を見付け、合流しただろうか。


 まあ、どちらにせよ、だ。



 「──やっぱり、今日はいい風が吹いてる」


 ぼくは呟いた。




 船内に戻り、シルフィに自動操縦を頼む。

 ベッドに横になると、ふわりと軽い布団の感触が身体を包み込んだ。小腹が満たされたことで、次は睡眠をと訴える正直な体に、ぼくは逆らうことが出来ない。風の音を子守歌に、瞼がゆっくりと閉じていく。


 淡いスープの香りが鼻腔に残り、遠い記憶の中で誰かが優しく笑っているような気がした。




 エアリアル号は静かに、風の中を漂い続ける。



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