第3話 始まりの風が吹く町③
塔の石段を降りきると、町の空気がひときわ熱を帯びて感じられた。
陽はすでに傾き、西の空は深い橙色に染まっている。山の端に沈みかけた太陽が、最後の力で家々の屋根を金色に輝かせ、その光が石畳の道にも、風に揺れる垂れ幕にも、やわらかな陰影を落としていた。
人々の歓声が、風と共に舞っていた。
賑やかな笛の音。太鼓のリズム。湯気の立つ屋台の奥で響く、呼び声と笑い声。香ばしい焼き菓子や果実酒の甘い香りが混ざり合って、空気に溶け込んでいる。
紙でできた仮面をつけた子どもたちが、羽根を手にして駆け回っていた。振り返れば、彼らの笑い声は風鈴のように軽やかで、どこか遠い記憶の底に触れてくるようだった。
ぼくは人混みに身を溶かすようにして、ゆっくりと通りを歩いた。どこかに急ぐわけでもなく、ただ、祭りの残り香のような熱気に身を委ねながら。
大通りの先では、羽根送りの式が終わったばかりなのか、空にはまだいくつもの紙の羽根がふわり、ふわりと舞っていた。上昇気流に乗って高く昇るものもあれば、建物の陰に吸い込まれるように舞い降りるものもあって、そのひとつひとつに、誰かの祈りが込められていることを思うと、胸の奥がふっと温かくなった。
ふと、見知った顔が視界に入った。
──あの少女だ。
今朝、ぼくの話を聞いてくれた、小さな聞き手。
人混みの中で一生懸命に背伸びしながら、両手を広げて風を感じていた。ちいさな足で踏ん張りながら、まるで空そのものを抱きしめようとしているみたいだった。
その手には、紙の羽根がひとつ。
風が通り過ぎるたびに、その羽根はぱたぱたと揺れて、少女の髪も、袖も、いっしょにゆれていた。
見上げるその視線の先には、たくさんの羽根が舞っていた。
ふわり、ふわりと、まるで空に還っていくかのように。
少女は、ぽかんと口を開けたまま、それをじっと見つめていた。目を瞬かせるその表情に、言葉では言い表せないような、まっすぐな気持ちが滲んでいた。
やがて、ほんの少しだけ背伸びをしながら、彼女は羽根を放った。
風に乗った羽根は、ゆるやかに舞い、いくつもの羽根の群れに混ざって、夕空へと消えていった。
その横顔を見ているだけで、ぼくの胸の奥に、またひとつ灯りがともるような気がした。
──願いが、誰かに届きますように。
それは、ただの祈りかもしれない。
だけど、その祈りが集まり、積もって、かたちになったのが夢片だ。
ならば、今ここにある風景そのものが、どれほど豊かなものか、ぼくにはわかる。
ぼくたちは、見えないものに手を伸ばす。
手のひらの中で壊れてしまうものもあるけれど、それでもぼくは、届けたいと願う。どこかにいる誰かにとって、その祈りが救いになるかもしれないから。
……名残惜しさは、ある。
どんな町でも、最後の夜はすこしだけ胸が痛む。灯りのにじむ窓辺。はしゃぎ疲れて眠る子どもたち。手をつないで歩く人々。そうしたすべてに、別れを告げるのは簡単じゃない。
だけど、配達人の旅に終わりはない。
届けるべき夢片は、世界のどこかにまだきっとあって、ぼくはそれを追いかける。
空はすっかり群青に変わりつつあった。提灯の灯りが赤く揺れ、笛と太鼓の音が、今は遠くからでも聞こえる。
坂をひとつ下りたところで、ぼくは足を止め、もう一度、町を振り返った。
風が、吹いた。
ほんの少し前までの熱気は和らぎ、かわりに夜の気配を帯びた風が、裾をそっと揺らしていく。
いつか誰かが言った。
「風は、見えないけれど、確かに触れられる」と。
その通りだと思う。
ぼくはこの町で、確かに触れたのだ。
祈りに。願いに。そして、ほんの少しの、やさしさに。
──ありがとう。
心の中でそう呟くと、ぼくは再び歩き出した。
この町に吹く風が、ぼくの背をそっと押す。
はじまりの風は、もう遠くに。
けれど、ぼくの旅は、これからも続いていく。
さて次は、どこへ行こうかな。
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始まりの風が吹く町について
一年を通して緩やかな風が吹く小さな町。規模は小さいものの活気にあふれ、時折訪れる旅人にも友好。
町の中心には石造りの塔が建っているが、それがどういった理由で建てられたのかは不明。現在では町のシンボルや待ち合わせの為の目印となっている。
一年に一度開かれる風祭りは、知る人ぞ知る催し。時期を合わせて町を訪れる旅人も多い。