第2話 始まりの風が吹く町②
その石造りの塔は、町の中心にそびえ立っていた。
周囲の通りは祭り一色で賑やかだったが、この塔の近くにだけは、不思議と人の姿が少なかった。町の中心にあるというのに、無意識のうちに、誰もがこの場所を避けている──夢片が在る場所には、しばしば、そういう“空白”が生まれるのだ。
外壁には風見鶏が据えられており、くるくると、風の流れに合わせて回転していた。
その向きは、今まさに、この塔の上を指している。夢片が風を呼び込んでいるのかもしれなかった。
中は薄暗く、ひんやりとしていて、石を打つ足音が静かに反響した。
階段はぐるぐると螺旋を描き、上へ上へと続いている。途中の小窓から見える空が、ほんのりと茜色に染まりつつあることに気づいた。もうすぐ夕方だ。町はこれからさらに、熱気を帯びてゆくだろう。
──だけど、塔の中は、まるで別の時間が流れているようだった。
石段の一歩ごとに、風の音が遠ざかり、意識が深く沈み込んでいく。
階を上がるたびに、夢片の気配が少しずつ、はっきりとした輪郭を持ちはじめた。
それは、光にも似て、音にも似て、香りのようでもあった。
※※※
塔の最上階にたどり着いたとき、そこはまるで、別の世界だった。
古びた扉を押し開けると、視界がぱっと開け、空が、ただそこに在った。高い天窓から風が吹き抜け、柔らかな光が床を照らしている。外からは相変わらず祭りの熱気が伝わってきたが、どこか遠く感じた。
部屋の中央には、淡く光る小さな結晶が、ぽつりと浮かんでいた。
──やはり、ここにあった。夢片だ。
ぼくはゆっくりと歩み寄り、片手を差し出す。
指先が触れると、夢片はちいさく震え、まるで何かを語るように、ゆっくりと輝きを増していった。
この夢片は、傷ついたものではなかった。
悲しみや怒り、執着といった重たい想いではなく、もっと優しい、静かな願いが込められている。
澄んだ湖の底に、そっと沈められた祈りのような。
ぼくはそっと目を閉じて、夢片の“中身”に意識を向けた。
浮かび上がってきたのは、声にならない想いだった。
それは、町に暮らす人々の記憶──誰かの幸せを願う想い、遠く離れた誰かに届いてほしいと祈る気持ち。
老いた人が、もう会えない誰かに向けて書いた手紙。
子どもが夜空に捧げた、明日も笑えるようにという願い。
それらが、少しずつ堆積し、やがてひとつの形になった。
──風が運びたいと願う、想いの欠片に。
ぼくには夢片に宿る記憶を読む、などということは出来ない。一部のそういう能力をもつ配達人はいるが、少なくともぼくには無理だ。
でも今回は、ぼくの能力と相性が良かったらしい。
その中に秘められた想いは、鮮明にではないにせよ、ちゃんとぼくに届いたのだ。
「きみの想い、確かに受け取った」
誰に聞かせるわけでもなく呟いて、そっと夢片を掌に収め、部屋の縁へと歩を進める。
そこには風見鶏と繋がる天窓があり、手を伸ばせば、空へと開かれていた。
※※※
空はすでに夕映えを帯び、群青と金色のあいだで揺れていた。陽の光が薄くなった塔の中は、既に少し薄暗い。
天窓に目を向けると、無数の“願いの羽”が、ふわりふわりと舞っていた。
祭りの参加者たちが放った、紙の羽根。中にはきっと、あの少女のものもあるだろう。その友達や、パンを売っていた屋台の人のものも。
無数の想いが綴られ、風に乗って、空へと放たれていた。
──ここに還すのが、きっとふさわしいな。
ぼくは手のひらを天に掲げると、夢片はゆっくりと浮かび上がり、柔らかい風に乗って、ふわりと宙へ舞い上がる。
まるで、羽根たちに導かれるように。
羽根と羽根のあいだをすり抜け、やがて夢片は光の尾を引きながら、空へと溶けていった。想いが空へと“還った”のだ。
その瞬間──空が、わずかにきらめいた。
誰も気づかない、ほんの一瞬の光。
でも、それでよかった。
ぼくの仕事は、人々の願いを代わりに運び、そして還すことだから。
塔の上に、静かな風が吹いた。
風見鶏が、かすかに音を立てて回る。
──願いは、風に乗って運ばれる。
それはきっと、誰かの心に届くだろう。
塔を降りる頃には、町のざわめきが再び近づいてきていた。
太陽は西の空へ傾き、風はまた違う色を帯びて吹き始めていた。
もうすぐ、祭りはクライマックスを迎える。
ぼくは、少しだけ余韻に浸りながら、塔の扉を静かに閉じた。
心の奥が、ほんの少しだけ、あたたかくなっていた。
*****
始まりの配達人についてのレポート
「
彼についての詳細は不明である。ただ、大昔に方舟を駆って弟子と共に世界を巡り、夢片を回収したとだけ記録される。その際、彼の方舟をもとに作り出されたのが夢舟である。
彼の死後、高弟の一人が皆をまとめ上げ、組織を作った。今に続く“配達人ギルド”の基礎を作り上げたのである。彼女はその後に姿を消したものの、その功績は師と比肩するとされる。
世界を救った始まりの配達人“方舟のノア”。
組織としての基盤を作り上げた“導きのルルティア”。
二人の名は今も尚、伝承として語り継がれている。
」