第0話 渡り鳥
空には、名前のない風がある。
東から吹いて、西へ去る風。
北から吹いて、また北へ戻る風。
冷たかったり、甘かったり。
誰かのため息や、遠くの鐘の音、気まぐれに咲いた花の香りなんかも、気づかないうちにさらっていってしまう。
そして時々、風は、ぼくに何かを囁いてくる。
ことばじゃなくて、音でもなくて──ただ、心の奥をそっと撫でるような、あの感じ。
そんな風が、今、また近づいてきている気がする。
すぐそこまで。
ぼくはルア。
風読みのルア。
空を泳ぐ舟に乗って、世界を股に掛ける“配達人”であり、旅人である。
ぼくは現在、まだ訪れたことのない町へ向かっていた。
配達人となり、それなりの年月を生きてきたぼくだけど、世界は広い。まだ訪れたことのない場所など、数え切れないくらいにある。今向かっているのは、そのうちのひとつだ。
誰が言ったか、人呼んで“始まりの風が吹く町”──そんな名前のついた町。
一年に一度、春になると、盛大なお祭りをするらしい。
……うん、実に良い。どうせ旅をするなら、そういう面白い場所じゃないとね。風の吹きすさぶ荒野とか、住民同士がギスギスした村とか、そういうのは勘弁である。心当たりが幾つかあるけれど、ホントもう、二度と行きたくない。
「ただ、どうせなら、アシャも連れてきたかったなあ」
ひと息ついて、冷めかけた風花茶のカップを、ベッド横のサイドテーブルに戻す。
ほんのりミントと蜂蜜が香って、舌に微かなしびれが残った。
この空飛ぶ舟“エアリアル号”に、今はぼくひとりだけ。
数日間一緒に仕事をした同僚は、一月ほど前に既に舟を降りていた。本人はまだ残りたかったようだけど、本来の業務は本部での内勤であり、そちらの仕事もそろそろ溜まっているから、と。
気ままに旅をするぼくと違い、若手ながら役職に就いている彼女は、とても忙しいのであった。合掌。
とまあ、そんなわけで今現在、冷めつつあるお茶の香りとぼくの吐息だけが、のんびりと船内を満たしている。
しばらくそんな感じで、のんびりと空の旅を満喫していたぼくだが、船体の航行速度が下がった感覚を覚え、ようやくベッドから腰を上げた。
甲板へ出て前方を眺める。
雲海の向こう──そのさらに先に、地面が見えてきた。どうやら、もうすぐらしい。
「そろそろ降下準備、と。シルフィ、お願い」
呼びかけると、船体がゆっくりと降下を始めた。風速は安定、視界良好。舟の制御は、この舟の見えない住人がやってくれるから、舵輪に手をかける必要すらない。いや、そんなものはないんだけども。
ただ、ここまで順調すぎて、逆に落ち着かないくらいである。
いつもこうして、静かな時間が訪れるたびに、どこかで「このあと何か来るんじゃ?」って勘ぐってしまう。ただそうやって身構えた時には、死神は来ないものだ。そんなことを誰かが言っていた気がする。
ああ、今更ながら、シルフィとは、この舟に宿る目に見えない存在──精霊のことだ。
姿は見えず声も聞こえないが、気配はある。このエアリアル号を召喚した時からの付き合いで、ぼくの号令にはきちんと従ってくれる、まことありがたいやつである。
どういった理屈や原理かはさっぱりだけど、シルフィはこのエアリアル号と共に存在し、ぼくの航行を全面的にサポートしてくれているのだった。
「そういえば、父さんもこの町に来たことがあったって言ってたな」
脳裏に浮かぶのは、強面の大男。
ぼくの父であり師である男が、一度だけここを訪れたことがあるらしい。
彼は、町のことを何も語らなかった。ただ一言、「一度、あの祭りは見とけ」って、それだけ。
それがただの見ものであるが故か。それとも違う何か、か。多分、あの人のことだ。あまり深くは考えていないんじゃなあないかと思う。
──まあ、それはそれとして。
目を上げると、町の輪郭がはっきりしてきた。
丘の上に、小さな家々。風見鶏のある石の塔。そして広場には、揺れる布の影。
あれは……祭りの飾り? いや、風祭りというのだったか。
「──とても良い風が、吹いてるんだね」
まだ降り立ってもいないのに、空気の匂いが違って感じた。
エアリアル号が、ゆっくりと高度を下げ始める。
旅の始まりは、いつだって穏やかな風に包まれている。
それが嵐の前の静けさなのか、何かを繋ぐ序章なのかは──風だけが、知っている。
ぼくはルア。
風読みのルア。
想いの結晶を探し、空へと届ける配達人。
そして眼下に見えるこの町からは、その欠片の気配を風が運んできていたのだった。
*****
とある村の男性
「
配達人? ああ、この間、随分久しぶりに見たよ。前に見たのは、まだおれがガキの頃だったから、つい驚いちまった。
ああ、知ってるよ。『配達人の妨げになってはならない』だろ? 常識だ。この村の奴ならみぃんな知ってる。小せえ頃から散々聞かされてきたからなあ。
......この間来た配達人かい? 白っぽい髪に外套を羽織った、まだ若そうなのだったよ。ただ、ただよ、配達人てのは歳を取らねえんだろう? てことは、あれでいて、おれよりも年上って可能性もあらぁな。いったいいくつなんだか。
まあ、話してみれば普通の奴だったよ。教会の場所を訊かれたから教えてやったんだが、やり取りと言えばそんなもんだ。特別なことは何もねえ。仕事終わりに酒場に寄ったら、果実酒をいくつか買っていったらしいことを聞いたがな。そんだけだ。
またいつか、会えるかどうかは分からんなあ。
それこそ、“風に”聞いてみな。
」