地下迷宮
血相をかいて訪れたのは、一人の女性。酷くやつれ、病的な細さをした彼女は、その体躯からは想像のできない力強さでゼノの腕を掴んだ。
「ちょっ、ちょっと待ってください。まずは詳しく話をお聞かせください」
カウンターに備え付けられている椅子に座らせ、暖かいお茶を差し出す。女性はゆっくり口に運ぶと、短く深呼吸をした後に唇を震わせた。
この状況でもゼノが落ち着いて居られたのは、単に何度も経験があるからだ。時には夫が、時には子供が。まだ安否確認をしてくれる者がいるならいいが、中には独り身で地下迷宮に潜り、そのまま行方知らずになるものも多い。
「まずは、娘さんの名前をお聞かせ願えますか?」
「はい……」
鼻を啜った後に、女性は口開く。
「ナヒール=アルナです」
「ナヒールさんですね」
ナヒールは今日登録した女性だ。
「彼女なら、ですね……」
ゼノは自分が担当している冒険者の事は全員、帳簿を付けている。理由は初心者が多いからだ。帰還が遅ければ、より上位の冒険者に捜索願いも出しやすい。
命懸けではあるが、なるべく命を落とさないように。ゼノが出来る事を精一杯する為だ。
「やはり、帰ってきてます、ね」
ナヒールは夕方になる前にしっかりと帰路についている。ナヒールの母は、ゼノの言葉に合わせていた視線を伏せ、言いにくそうに言葉を発する。
「忘れ物をしたから取りに行くと……」
原則として、初心者の場合は一日に潜れる回数は一度だけ。夜に潜るのも禁止されており、これは注意書きにも書いてある。
「止めたのですが……大した事ないから大丈夫だと言って……」
「……ッ!? 何故、初心者が夜に潜ったりするのは」
と、母親に言っても仕方がない。とは言え、今から救出依頼を出した所で、人がいない状況では余計に時間がかかる。
「忘れ物といってたんですよね」
確かナヒールが潜った階層は二階。今時間帯に出る魔獣の最高位は巨豚。中級魔法を扱える彼女なら大した事のない敵ではあるが、魔力回復もままならない状況だったなら話は別だ。
運がいい事に、魔属適正を持たないゼノだが、三層までなら時間問わずに潜れる。
「分かりました、俺が迎えに行きます。ですが、お母さん、これだけは心に留めといて下さい──必ずしも生きて戻ってくる保証はないと」
その言葉を聞いて、ナヒールの母の目には涙が浮かばせ、口の端を噛み締めると言葉に出さず頷いた。
「では、お母さんは家でお待ちになってください。俺は支度でき次第、救出に向かいます」
ゼノが支度を始める一時間ほど前、ダンジョン【二階層】では、ナヒール=アルナが自分の灯した明かりを頼りに、魔獣達から逃げていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
──助かった。
つい、今しがたの戦闘。魔力が足りず使えない筈の中級魔法が穿てたお陰で魔獣から逃げる事が出来た。あの時、魔法を使えなかったら本当に死んでいたにちがいない。
昼間と夜でこんなにも、魔獣の出現が変わるのか。だから、受付の人──ゼノは口を酸っぱくするまで忠告をしていたのか。
階層を上がるにも、あれだけ魔獣が現れていたら階段に着く前に殺されてしまう。死んでしまっては、母の病気を面倒みる人だって居ない。
アルナには何としてもお金が必要だった。だから、多少の無茶も覚悟の上。血のにじむ鍛錬のお陰で、十七と言う若さで中級魔法も体得した。
全ては病気の母を治すため。
こんな所で死ぬ訳には──
「痛ッ……」
どうやら、さっき逃げる際に足を捻ってしまっていたらしい。これでは舗装もされておらず、道が悪い地下迷宮内を走るのも難しいだろう。
──どうしたら。
夜が明けるまで、身を潜めているべきか。いいや、逃げ切れる保証はない。あのデカイ豚からは逃げれたとしても化物からは絶対に無理だ。
誰かが助けに。そんな甘く淡い期待を抱いて、どれだけ時間が経った事か。今が何時かも分からず、何時間逃げ続けたも分からない。
外の状況も分からず、目の前の現状を一人で解決出来る力を持たないアルナは、精神的にも肉体的にも酷く憔悴しきっていた。
どこからともなく聞こえてくる足音や鳴き声が、アルナの恐怖や焦りに拍車をかける。抑えても抑えても、手は小刻みに震え、恐怖による幻覚が容赦なく蝕んでいた。
助けを求める為に声を荒げる事も出来ず、アルナに許されたのは静寂を保つ事のみ。
──誰か、誰か。
「さあて、行くとしますか」
一方で、ゼノは二階層を踏破する為に必要な装備を整え、地下迷宮前に立っていた。