第15話:もう一人の私と、名前のない世界
記録の境界を越えた先に広がっていたのは、奇妙に静かな世界だった。
すべてが灰色で、空も地も時間さえも止まったかのような場所。
足音すら吸い込まれるような沈黙の中――
来夢は、もう一人の“自分”と出会った。
それは確かに「須藤来夢」に似ていた。
だがその瞳には色がなかった。
記録も、記憶も、感情さえも削がれたような“空白の存在”。
「……あなたが、私?」
問いかけに、少女は微笑んだ。
だがそれは、どこか哀しみのにじむものだった。
「違うよ。私は、あなたの中から“零れた可能性”。
“記録されなかった来夢”――記録の影、《ノート》」
来夢は小さく目を見開いた。
「ノート……」
「あなたがここに来たとき、本来のあなたは“記録”に従ってこの世界で消えるはずだった。
でも……あなたは抗った。
“私なんていなかったことにされてたまるか”って、強く叫んだ。
その声が、私を生んだの」
彼女は少し首をかしげる。
「皮肉だよね。記録に抗った結果、私は記録されない“残滓”として生まれたんだから」
アオラが、来夢の背後から身構えるように前に出た。
「来夢に……何をする気?」
ノートはアオラを見ると、目を細めて微笑んだ。
「ボクの名前……。あなたがくれた名前、ちゃんと覚えてる。
“アオ”。記録の始まり。あなたの命名が、すべての扉を開いた」
来夢の中に、ずっと抱えていた想いが込み上げる。
「ノート……あなたを消させたりなんてしない。
記録されてなくたって、あなたは“私の一部”だ。
私がここまで来れたのは……自分の“消えたくない”って気持ちがあったから。
それを形にしてくれたのが、あなただから――」
しかし、ノートは首を振った。
「それじゃあ、前に進めないよ。
私がここに存在する限り、あなたの記録は“確定”しない。
世界が、あなたを受け入れられない」
「……じゃあどうすればいいの?」
ノートの表情が、やさしくも切なげに変わった。
「“私を受け入れて、あなた自身として記録して”。
そうすれば、私はあなたの中に還れる。
名前をもらったまま、あなたの真実の一部として――」
その言葉に、来夢は大きくうなずいた。
「わかった。……名前をあげる。もう一度」
静かに手を伸ばす。
「私の“影”。消えなかった気持ち。抗った証。
その名は……“ノート・ライム”。
私はあなた。あなたは私。ようこそ、わたしの記録へ」
その瞬間、灰色の世界に光が満ちた。
ノートの身体がやわらかく崩れ、光となって来夢の胸元に吸い込まれていく。
そして、彼女の瞳にもう一色、深い紫が混ざった。
「ありがとう……来夢。じゃあ、これでようやく“始められる”ね……」
ノートの最後の声が、記録の空に響き、消えていった。
アオラがぽつりと呟く。
「ボクたちの旅……ここからが“本当の物語”なんだね」
来夢は、微笑んでうなずいた。
「うん。もう、記録に左右されない。
これからは、私が“記す”んだ。自分自身の物語を――」
(つづく)
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次回予告(第16話)
『記録なき神々と、目覚めの図書館』
舞台は“記録の始原”へ。
来夢の存在を許さない“記録なき神々”が、彼女に最後の試練を与える。
記すとは何か?
そしてアオラに秘められた、本当の名前の意味とは――




