第9話:記録の管理者(マスター)と、アオの進化
第9話:記録の管理者と、アオの進化
塔の第八階層へと続く階段は、淡い光に包まれていた。
その光はまるで、来夢の中に眠る記憶を優しく掘り起こしていくようだった。
「……アオ、私たち、本当にここに来てよかったんだよね?」
少女の問いかけに、隣を歩く小柄な少年――アオラが、少し微笑んだ。
「うん。君が名付けてくれたから、僕はここにいるんだよ。来夢」
階段の先、広がっていたのは空間そのものが記録の図書館のような円形の部屋。
空中に浮かぶ無数の本たちが、静かに軌道を描いて回っていた。
部屋の中心に立つのは、仮面をつけた長衣の人物。
彼の存在が、この場所に異質な“静けさ”をもたらしていた。
「ようこそ、来夢。そして、アオ――いや、今は“アオラ”と呼ばれているようだね」
その声は、まるで来夢の過去をすべて知っているかのようだった。
「あなたが……“記録の管理者”……?」
「そう呼ばれることもある。“マスター”と名乗っておこう」
マスターは手を振り、宙に浮かぶ1冊の本を引き寄せた。
表紙にはこう書かれていた。
――《記録:アオラ》――
「君がこの子に名を与えた瞬間、彼の“記録”は始まった」
その言葉に、来夢は静かにうなずく。あの時の記憶が、胸の奥に甦る。
――異世界で目を覚ました夜。森の中で震える、小さな青いスライム。
――何かに惹かれるように、その存在に近づき、「アオ」と名付けた瞬間。
――その日からスライムは言葉を持ち、彼女に懐いた。
「来夢、覚えている? 僕がまだ“アオ”だったころ」
「……うん。すっごく小さくて、ぷるぷるしてて。
何も言えないのに、何か伝えようとしてくれてたよね」
マスターが口を挟む。
「名とは“存在の定義”だ。来夢が“アオ”と名付けたことで、君は記録として確定された。
そして、塔の第五階層を越えた時――その名に“進化”が起きた。“アオラ”となり、人の姿を得た」
アオラは、来夢の手を握った。
「君が僕を信じてくれたから、僕は変われた。姿も、声も、思考も。
でも、僕の核は変わってないよ。君に名付けられた、あの日の“アオ”のままだ」
来夢の目に、涙が浮かぶ。
「ごめんね、アオ……。私、忘れかけてた。君が、ずっとそばにいてくれた理由」
マスターの声が、静かに響く。
「だが、忘れるな。名を与えるということは、“記録を始める”ことに等しい。
その記録が大きくなるほど、来夢――君の記憶は別の何かに“書き換えられていく”」
「……え?」
「君が記録を残せば残すほど、“来夢”という記録は不安定になる。
それでも――君は進むのか?」
来夢は、アオラの手をぎゅっと握り返した。
「進むよ。アオ……いや、“アオラ”と一緒に。
私が記録を与えたのなら、最後まで見届けたい」
マスターが、微かに笑った。
「ならば進め、“記録者”よ。第九階層が、君を待っている」
光があふれ、試練の門が開かれる。
来夢とアオラの足元を照らす、記録の道が続いていた。
(つづく)
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次回予告(第10話):
『鏡に映らない町と、ひとりぼっちの少年』
忘却の階層に取り残された町。そこで来夢とアオラが出会うのは、“誰にも記録されなかった少年”。彼の願いと、塔に隠された新たな記憶の扉が開く――。