第5話:記す者の来訪
静かな朝。
スライムの群れが去った森は、かつてないほど穏やかだった。
須藤来夢は、アオと並んで小さな泉に腰掛けていた。
「ねえ、アオ。昨日のこと、全部覚えてる?」
アオは小さく頷く。
「……名前が、私を“私”にしてくれたってこと、忘れないよ」
「でも……少し怖い。名前を持ったら、壊れちゃう気がするの」
そのとき――空間が、音もなく割れた。
まるでページの隙間から、誰かが“物語の外”から入ってきたように。
ひとりの人物が、泉のそばに立っていた。
真っ黒なローブに、目元を隠す仮面。
手には古びたノートと、ペン。
「ようやく、会えたな。“命名者”」
低い声。
だが敵意はない。むしろ……淡々と、記録する者の声。
「私は《記録者》。過去に名を記し、未来の名を奪う者だ」
「そして――お前たちは、観測された“異例”だ」
来夢は身構える。
「異例?」
「私たち、何かおかしなこと……したの?」
《記録者》は頷く。
「“スライムが自我を持つ”だけでも異常だ」
「だが、“外界の者が名前を与える”ことで、進化の起点が生まれた……」
「つまり、お前たちの物語は既に、“観測限界”を越えている」
アオの中で、何かが反応する。
記録されることを拒むように、名前が震えた。
「私は、記録しなければならない」
「この“名前の物語”が、どこへ向かうのかを」
来夢は一歩前に出た。
「じゃあ、記録すればいい。私たちは逃げない」
《記録者》は笑ったような気がした。だが目は見えない。
「いいだろう。だが、観測は一方通行ではない。お前たちの側からも、“記す力”が目覚める」
「名を与える者は、やがて“名を奪う者”ともなる」
そう言って、彼は地面に一本の線を引いた。
「この先に待つのは、“名無き者たち”の国」
「名に依存した者は、名を喰らう者に狙われる。――それでも、進むか?」
アオが、来夢の袖を握った。
「……行こう、来夢」
「私は、もう“名前を持たない自分”には戻れないから」
来夢は笑う。
「じゃあ決まりだね。観測されようと、書き換えられようと――」
「私たちは、“私たちの物語”を生きるよ」
風が吹き抜けた。
物語は、新たな章へと歩き出した。
(続く)
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第6話予告:『名を喰らう者』
“名”を奪い取り、存在を無に還す者が現れる
アオの中の「記録の核」が暴走
来夢の過去――“ある喪失”の記憶が明かされる
名と存在、そして“記されること”の意味