第百八十四話 少女の小さな背中
取り残された廊下に、ぽたぽたと水滴が滴る音が響く。
すすり泣く声、嗚咽する呼吸。
全員が気まずそうに視線を彷徨わせる。
「うーん、こっちもこっちでどうにかしないと……」
カイムに完膚なきまでに拒絶されて、失恋した頭に羽の生えた少女。
罠の網に絡まったまま、悲しみに体を震わせている少女を、どうしたものかとルドーは眺めていた。
『聖女だっつーんなら、森にももう帰せねぇんじゃねぇか?』
「だよねぇ。訓練しないといけないし……」
「廊下にずっといるってのもなぁ。なぁ、その、立てるか?」
ルドーが声を掛けると、泣いていた少女はビクッと体を震わせる。
しかし、またすぐに思い出したかのように、しくしく泣きだしてしまう。
名前も何もわからないので、ルドーはなんと声を掛ければいいかわからない。
ライアもレイルとロイズがぴったり引っ付いたまま、不安そうに少女の方をじっと眺めていた。
「あぁーもう、まずはいい加減そこから脱出しなさいよ! ほらあんたたち、突っ立ってないで手を貸す!」
「ハイハイハイ手を貸します手を貸します!」
「まぁ、可哀想なのは確かだしね……」
「まるで漁の網だな! 酷い絡まり具合ではないか!」
アリアの鶴の一声で、フランゲル達がわらわらと少女に群がる。
涙に震える少女に、細心の注意を払いながら、絡まった網をそっと少しずつ解いて外していく。
アリア自身も加わって、罠の網を解いていく様子に、ルドーはリリアと顔を見合わせた。
「……アリア、なんか今回はやたら優しいんだな」
「ね、少し意外かも」
「ちょっと! 私の事なんだと思ってるのよ!?」
「さっき俺が罠にかかっても、思いっきり笑い飛ばしてたじゃん。いつもこういうの手を出さず見てたし、なんか新鮮だなって」
ルドーが正直にそう言えば、アリアは手を止め、ジトリとルドーを睨み付ける。
しかしルドーの指摘にも、思う所はあるようだ。
しばらくしてアリアは盛大に溜息を吐き、手を動かしながら続けた。
「まぁ、なんというか……他人事に思えないのよね。必死になって空回ってるところ」
網を少しずつ解きながら、アリアはじっと少女の方を見据える。
「あー、前期のあれ状態の、アリアさんそっくりですもんね?」
「あんたも同じだったでしょうが! 黒歴史掘り返さないでよ!」
茶化すようにヘルシュが言えば、アリアは大声で言い返し始める。
ヘルシュの言う前期のあれ状態。
ニン先生が言っていた、「勇者聖女症候群」状態の事だろうか。
確かニン先生の説明では、前世の記憶も持っている転生者、しかも勇者や聖女は、「中二病」とかいう状態になって、現実が見えなくなるという話だったような。
あの時聞いた説明は、ルドーには結局よく分からなかった。
だがあれ以来、ヘルシュとアリアの態度はガラッと変わった。
確かに前期のアリアは、言っている事の半分もルドーは分からず、常に空回りし続けていた。
少女のカイムに対する、恋慕が空回りしている姿。
アリアから見れば、その時の自分と少女が重なって見えた。
だからアリアは、どうにも少女を無視できないという話だ。
「なるほどなぁ、同じような状態に見えたから、放って置けないと……うん?」
言われてみたら確かにと、ルドーが納得して頷いていたが、何かが引っかかった。
同じような状態。
もしそれに、原因が存在するとしたら。
言葉にした後、ルドーと同じことを、アリアとヘルシュも感じたらしい。
なにか電流でも走ったかのように、二人は急にすっと真顔になる。
「ハイハイハイ解けましたよ!」
「目元が真っ赤ではないか! あいにくハンカチは持ち合わせがないぞ!」
ルドー達が話している間に、ウォポンとフランゲルが少女を網から救出した。
まだ若干泣き晴らし、俯いたままの少女。
ルドーやリリアが動くよりも先に、アリアが少女の顔に、ポンポンとハンカチを当てて涙を拭く。
そのままヘルシュとアリアが、意味深に目を見合わせ頷いた後、慎重に声を掛けた。
「あのー、そのー、きみ……ひょっとして、前世の記憶あったりする?」
「……え?」
悲しみに暮れていた少女は、驚きに顔を上げた。
罠からの救出作業で、同じ目線で座り込んだままのヘルシュの声に、少女は目を向けて固まる。
知らない言葉を言われた反応ではない。
どうしてそれを、という、明らかに意味が分かっている反応だった。
少女の反応に、ヘルシュとアリアが明らかに動揺し始める。
「あ、あるのね? その反応、前世の記憶、持ってるのね?」
「え? なんで……キミラバのマンガに、前世の記憶を持ってるサブキャラは……」
動揺した少女が、呆然と呟いた言葉。
しんと、一瞬空間に重い沈黙が走った。
少女の言葉の意味は、何一つルドーには理解できない。
だがヘルシュとアリアには、思い当たる反応だったらしい。
ルドーとリリアが困惑の声をあげるより先に、二人叫びはじめた。
「うわああああああああ! 確定! 確定だこれ!」
「「勇者聖女症候群!!」」
「戻って! 戻ってきなさい貴方! 現実を直視するのよ!」
そのままアリアは、少女の両肩をがっしりと掴み、ガクガクと揺すり始めた。
余りの狼狽えっぷりに、少女の目から涙が引っ込む。
ルドーは慌てて止めようとアリアに声を掛けた。
「お、おい、急にやったら驚いて怖がるんじゃ……」
「うるさいわよ! 分からない奴は引っ込んでて!」
「えぇ……」
「ど、どうしたんだろう……」
『あー、そいつも前世持ちって事だったって訳か』
困惑するルドーの制止は、アリアに大きく遮られてしまった。
リリアもアリアの反応に困惑して狼狽えている。
アリアとヘルシュの反応に、聖剣が面倒そうにパチッと弾けた。
どうやらこの少女も、前世の記憶持ちらしい。
道理で外界から隔離された中央魔森林育ちの魔人族、しかも基本一人で行動していたのに、カイムや三つ子に比べて、妙にこちらの世界に馴染むのが早かったわけだ。
アリアとヘルシュは必死になって、少女をガクガク揺すり続ける。
「貴方! 今中二病状態なの、分かる!? 自分の世界に浸っちゃってるのよ! 戻ってきてお願い、直視出来ないわ!」
「中二病は見ている方もダメージをくらう……お願い、ちょっと一旦立ち止まって……」
「えっ、えっ?」
必死過ぎるアリアとヘルシュに、完全に困惑状態の少女。
急に必死になったアリアとヘルシュの様子に、よくわかっていないウォポンとフランゲル。
「ハイハイハイさっぱりわかりません!」
「なんか知らんが、冷静になれと言うのなら間違いないな!」
「いや、違うと思うんだけど」
「ま、まぁ、泣いてるよりは、いいんじゃない?」
騒ぎ始めたフランゲル達に困惑しつつも、ルドーとリリアも声をあげた
カイムに失恋し、悲嘆に暮れていた少女を気遣っているというには、何か違う気がする。
しかしこの調子なら、少女は彼らに任せても大丈夫そうだとルドーは感じた。
「あー、そんじゃ、その子はアリアとヘルシュに任せるか」
「え、お兄ちゃんいいの?」
『ま、あの状態じゃほっとけないだろ。色々とフラッシュバックするだろうしな』
ヘルシュとアリアに捲し立てる様に説明され始めて、少女はぽかんと口を開けていた。
とりあえず失恋のショックは紛らわせたようだ。
訳が分からないままだが、嫌がらせ問題は一旦片付いた。
そう思ったとルドーが溜息を吐きながら振り返ると、キャビンの傍に居た三つ子が、まだ不安そうな顔をしている。
「……ルドにぃ。クロねぇ、大丈夫?」
「うん、カイムならきっと、引き留められるって」
「きっと大丈夫だから、もう遅いし、夕ご飯食べに行こう?」
「……うん」
「行ってご飯食べながら、カイにぃ待ってよう。ライア」
「カイにぃちゃんならやってくれるよ、大丈夫だよライア」
「全く難儀なものよねぇ」
しょんぼりするライアを励ますレイルとロイズを連れて、ルドーはリリアとキャビンと一緒に、遅い夕食に向かう。
クロノを追いかけたカイムが走っていった方向に、ルドーはまたちらりと視線を向け、小さく溜息を吐いて歩き始めた。
普通に歩き去ったはずなのに、相変わらず恐ろしいほどにクロノの動きは早かった。
見えなくなった姿を追いかけながら、カイムは胃のあたりがムカムカする嫌な気分を、必死に押し殺す。
リンソウの時のように居なくなる。
またあの時の様に、どれだけ探しても見つからなくなってしまったら。
漠然とする不安の中、足を必死に動かし、クロノならこの後どこに向かうか、カイムは混乱する頭を巡らせた。
「ちょっと今虫の居所悪いの。あんま構ってこないでくれる?」
カイムの考えが纏まるより先に、前方から聞き覚えのある声が響く。
安堵するように、カイムは声の方向に急いだ。
「今度こそお前を倒して――――ぐわああああああああ!」
続く少し高い声をした、男の悲鳴と激しい衝撃音。
廊下を曲がったところで、ハイシェンシーが壁に大きくめり込んで、クレーター状態になっていた。
その手前にいるクロノを見つけて、カイムは息を切らしつつ、その姿に近寄る。
「ぐっ……お前、なぜ魔法を使わない。その抑え方、自分で自分を縛っているだろ」
聞こえてきた会話に、カイムは躊躇うように足が止まった。
クロノにも魔力があることは、カイムも知っている。
なぜか魔法が使えないと、頑なに魔法を使わないことも。
最初は魔力がある癖にと、また人間特有の傲慢さかとカイムは苛立ったものだ。
だが圧倒的すぎるクロノの身体能力に、使う必要もないのかと、カイムは一人勝手に納得していた。
しかし聞こえてきた会話に、クロノが自身で魔法を縛っている事を、カイムは初めて知る。
クロノはハイシェンシーに対し、苛立つようにドスッと肩に蹴り入れる。
肩を貫通して、クレーターにまた軽くヒビが入った。
かなり重たい攻撃に、ハイシェンシーからグフッと声が漏れる。
「余計な詮索しないでよ。加減なく殴られてミンチになりたいっての?」
「戦いに全力で応えなければ、相手に失礼だとは思わないのか!」
「いい加減にしてよ。そっちの主人と、その国危険に晒したいわけ?」
自身だけでなく、主人も危険に晒されると聞いて、ハイシェンシーは驚愕に黙り込んだ。
クロノが魔力を抑えている事と、今の話の国に対する危険は、カイムにはどう考えても結びつかない。
しかしクロノはいつも通り詳しく説明しないまま、話は終わったとばかりに、ハイシェンシーを一撃で倒す。
大きくドスッと、ハイシェンシーは首に拳で一撃を入れられ、クレーターの中でガクリと気絶して動かなくなる。
いつもよりずっと、クロノの攻撃の仕方が荒い。
カイムはゆっくりと足を進め始めた。
ペタペタと響く素足の足音から、もう既に、クロノはカイムに気付いているはずだ。
だがクロノは、カイムの方に振り返ろうともしない。
拒絶するかのように、帽子の鍔を握って深く被り直している。
近寄るカイムは、クロノの後ろ姿からそれを見る事が出来た。
「……おい、クロノ」
「なんで追ってきてるわけ? 好きにしろって言ったじゃん」
カイムの声に、クロノは振り返らない。
いつもの平坦な声が、カイムには少し震えて聞こえた。
逃げる癖がついている。
追いかける前に、アリアにそう叫ばれて、カイムは思考がグルグル巡回していた。
臆病者だと言いながら、自分が危険に晒されるような状況に、クロノはいつも平然と飛び込んでいく。
いくら危険だと叫んでも、こちらの声には答えないまま。
つまり、クロノは誰かを頼ることを、極端に恐れている。
腕が千切れても、足が潰れても、クロノは自己再生の力があるせいで、自分の怪我を鑑みない。
恐ろしく頑丈で、カイムもまだ敵わないと思えるほど強い。
その圧倒的な強さ。
カイムは自分自身の至らなさに不安で、クロノに傍に居てほしいと思っていた。
だがカイム自身が至らなかったから、クロノはリンソウで逃げてしまった。
中央魔森林にいた時の、どこか遠くを見ていた姿。
常に周りに気を配っていたのは、周囲に危険がないかを常に警戒して。
ルドーが縁祈願を倒せなかったと聞いた時の、あの真っ青な表情。
実際のところ、クロノは恐怖に咄嗟に逃げ出してしまう程、本当は恐ろしく脆いのだ。
アリアの叫びで、カイムはようやくそれを理解した。
こちらを振り向こうとしないクロノを、じっと見据えながら、カイムは口を開く。
「好きにしろって、そう言ったのはてめぇだろ」
「……それで追いかけてくる意味がわからないんだけど」
低い声で応えるクロノ。
カイムがじっと観察すれば、その肩と腕が、わずかに震えているのがわかった。
逃げ癖があると聞いて、隣で見続けたその姿をずっと思い起こして。
カイムが考えていたことが、この時確信に変わった。
一体いつからなのだろうか。
クロノは心の大半を、恐怖に支配されている。
カイムとクロノでは、いつも見えているものが違う。
詳しく説明した、女神深教の祈願持ち。
不老不死だと語ったその相手。
クロノはあいつらの襲撃に、常に怯え続けていたのだ。
「……俺だけずっと舞い上がってて、バカみたいじゃねぇか」
「良いじゃん別に、舞い上がったって。平和な証拠なんだから」
「てめぇ、なんでずっとその平和に、てめぇ自身の事勘定に入れねぇんだよ」
顔を隠すように帽子の鍔を握って、こちらを振り向かないクロノの背中に、カイムは話し続ける。
ふとした時に漏れる、自罰的な呟き。
クロノはいつだって、最後にクロノ自身が、カイム達と一緒にいると考えていない。
そう考えているからこそ、クロノの口から、時折その言葉が漏れる。
だがそれは同時に、助けを求めているようにも、カイムには聞こえて。
動かないクロノにカイムは、その背中にゆっくりと近寄る。
強さに大きく見えていた背中が、今はずっとちっぽけに見えた。
そこにいるのは、年相応の小さな少女に、カイムには見えて。
「ほんとは勘定に入りてぇんだろ」
「っ……」
カイムが確信に触れて、クロノの肩が大きく震えた。
恐怖に怯え続けているクロノの本心。
振り返らない背中をじっと見据えながら、カイムは言葉を続ける。
ペタペタと、ゆっくりと、その背後に近寄りながら。
「やろうと思えば、てめぇはリンソウの時みてぇに、いくらでも振り切って逃げられる」
「……」
「でも、そうしねぇのは、戻ってきたのは、本当はこっちにいたいからだろ」
クロノのすぐ真後ろまで近寄ったカイムは、その足を止めた。
堪える様に震え続けるその肩を見ながら、カイムはそっと、帽子の鍔を握っていない左手に触れた。
カイムの髪で縛り付けるのは容易い。
だがそれでは止める事は出来ても、クロノの心情は解決しない。
カイムが握ったクロノの左手に、拒絶するような動きはない。
つまり、それが答えだ。
「怯えたままでいい、怖がったままでいい。ただ、逃げんな」
細い糸を手繰り寄せる様に、カイムはクロノの左手を引いた。
振り返らないままの彼女を、壊れ物を扱うように、そっと、しかし強く後ろから抱きしめた。
「言われた通り好きにする……てめぇがいねぇのは、もう俺が嫌なんだよ、クロノ」
「っ、なんで、いつも……欲しい言葉を、くれるの」
強く抱きしめた腕の中で、クロノは崩れ落ちる様に、震えて泣き出し始めた。
大きかった背中が、どんどん小さく、縮んで見えてくる。
圧倒的な強さに追いつけていないカイムでは、クロノの恐怖を全て拭い去ることは出来ない。
それでも、クロノが自身で抱えきれない恐怖を、吐き出させるように。
カイムは、震えてしがみ付くように泣き始めたクロノを、黙ったまま強く抱きしめ続けた。




