1-07 魔狼ヴァナルガンド殺人事件
――満月の夜に出歩くな、狼男に食われるぞ。
とある住宅街で、満月の夜に続く連続猟奇殺人事件。犯人は人狼だとまことしやかに囁かれていた。真実を突き止めるべく動いていた「私」こと月島夕理は、第四の殺人現場に居合わせる。襲ってきた人狼を撃退する夕理だったが、相手の正体はなんとクラスメイトで……。なお続く陰惨な事件。犯人こと人狼「ヴァナルガンド」は誰なのか?
――漆黒の天に紅い月。色を喪った影絵の街。人々は昏々と眠りに就き、何もかも見ない振り。
草木もまだ起きている午前零時、世界は痛いほどの静けさに支配されていた。
「世界、はダメだな。主語がでかすぎる」
独り言つ。静謐なのはこの一帯だけで、駅前まで出れば普通に活発だ。交差点向こうの大きな坂を下れば、コンビニだってあるのだから。
人類が夜行性にシフトしてから幾星霜、年号はとっくに令和。深夜なんてものはアフターファイブの延長でしかなく、スマホを覗けばたくさんの配信者が元気に雑談している。視聴者が山ほどいるからこそ成り立つビジネスで、まさしくレッドオーシャンだ。
けれども文明の灯りを点し続けることによって、加速度的に星は――やめよう。私にとって、そういうのは大人の事情に過ぎない。消費社会の代償とか破滅していく環境とか、そういう規模のでかい話はなるべくえらい人にお任せしたい。だってほら、
「……責任だけ押しつけられても、ねぇ」
独りごちる。お前の世界は生まれた時から在庫切れ間近なのだわ、などと訳知り顔で言われても知ったこっちゃない。平成に生を受けた現代っ子にとって、世界とは物心ついた時に見えている全てのことだ。過去の負債まではとても背負いきれない。
まあ、こんな話はどうでもいい。
私は夜の街をそぞろ歩く。
――静かだ。街はおぞましいまでに静かだ。鳥や虫の声すら聞こえない。況んや人の声をや。
ずっと遠くに車の音がして、それも街から離れていく。こんな場所にはいられないとばかりに、生き物の気配が薄れていく。
誰も彼も眠っているのか、家々を見渡しても灯りの点っている部屋すらない。光と言えば古ぼけた街路灯だけ。ぽつぽつぽつ――等間隔に白い光が落ちる。電球に群がる羽虫の群れに、思わず腐肉を連想した。
まるで廃墟だ。生きながら死んでいる。人間だけが忽然と消えたみたい。こういうのをバミューダトライアングル、というのだったか。
「なら、私が残るのは道理だよね」
呟いた。
もちろん、そんな超常現象のわけがない。
街中の防犯意識が極端に上がっていて、みんなカーテンと鎧戸を閉め切っているというだけの話である。
外の世界なんて見たくない、何が起ころうと知ったこっちゃない、頼むから巻き込んでくれるな――そんな集団意識が、この鄙びた住宅街を支配していた。
――月の明るい夜は出歩くな。狼男に食われるぞ。
気付けばそんな言葉が、街中を駆け巡っている。
「ハ」
鼻で笑う。だって笑うしかない。ちゃんちゃらおかしくて、ヘソで茶が沸いてしまう。
「時代錯誤にも程がある。今は公平と男女同権の時代でしょ。この令和にWerewolfとか、そんなそんな」
せめてLycanthropeだ。生物ベースの怪異である以上は雌雄があるんだから、種族名を男性に限定してしまうのはマジでどうかと思うわけです。そこら辺のアップデートが上手く出来ていないと、そう遠くないうちにネットの大海で火刑に遭うことでしょう。くわばらくわばら。
もとい。
角を曲がる。痛いほどの静寂は変わらない。乾ききっていて、何の匂いもしない。
最初の事件は三ヶ月前、満月の夜。
いつものように夜遊びを楽しんでいた不良集団が被害に遭った。
公園でたむろしていたところ、容赦なく殺人鬼に襲われて半数以上が死亡。生き残りも心神喪失状態で、「狼男が出た」などと証言したらしい。
次の事件はその翌月、やはり満月の夜。
夜中に爆音を響かせながら車を走らせていた男性が事故って死亡。改造された高級車が、突如横転したのである。
ドライブレコーダーを確認したところ、謎の怪物が運転席に突っ込んでくるのが映っていた。言われてみれば確かに狼男めいていて、与太話は途端に現実味を帯びてきた。
そして先月、これもまた満月の夜のこと。
夜中遅くに帰路に就いていたサラリーマンが犠牲になった。
遺体はズタズタに引き裂かれ、見るも無惨な有様だったそうだ。野生の獣に襲われたようだ、と鑑識が言ったとかなんとか。
――で、今晩。
空を見上げる。まあるい月がこちらを見ている。
流石にこうなれば肝試しをしようという連中も現れない。満月の夜に出歩けば殺される。油断したら次は自分かもしれないという恐怖は、住民の心をじわじわ蝕んでいた。
「……いや、ここ日本だし。西洋のお伽噺だし、人狼」
そんな中、空気読めてない、読むつもりもない私なのであった。春と秋が消滅して久しいこの熱帯夜に、フード付きパーカーなぞ被って出歩く無軌道な若者スタイル。おまわりさんに見付かったら補導されること請け合い。
「……補導で済めばいいなあ」
もしそうなった場合、問答無用で発砲されても文句は言えないかもしれない。確か、日本の警察官が拳銃を所持するには相応の手続きが必要だったはずだけれど――そのくらい異常な状況である。仕方ない。
うーん、万が一、自衛隊まで出張ってきたらどうしようかしら。
そんな益体もないことを考えながら、私は角を曲がった。
ぷん。
強烈な血の臭いが鼻を突いた。
――赤と、青。
真っ白い街灯の光に照らされた光景に、私は目を奪われた。
「――――」
おぞましいほど真っ白な光の下。
うつくしいほど真っ赤に染まった、清流のように青い毛並み。
犬に似た、しかし確かに造形の違う顔立ち。細く長い鼻面には、やはり赤い染みがいくつも飛んでいる。
その、足下には。
「――――あぁ」
綺麗に腹部をぶち抜かれ、その中身をゴロゴロ零す、ヒトだったものが転がっていた。
ああ、理科室のアレってかなり精巧に模していたんだなあ――一瞬、私はそんな場違いな感想を抱いた。
次の瞬間、
「――■■■■ッ!」
気付かれた。
鮮血に染まった青い怪物が、私目がけて走ってくる。
声にならない唸り声を上げ、目撃者を仕留めんと迫ってくる。
青い弾丸のようだ、と思った。
こんな状況にあってさえ、美しいと思った。
躍動する四肢、こんな住宅街に似合わない野生、この状況に似合いの異常性。
等間隔に並んだ白い光の間を駆けてくる様は、ファッションショーのようですらあった。
――血塗れの青い人狼が、その巨大な爪を振るおうとしている。
このままぼうっとしていれば私も犠牲者の仲間入り。そんな笑えない話もない。
私は反射的に身体を開く。左肩を突き出して、右手で爪を振るった腕を受け止める。勢いを殺さずくるりと回転――イメージは歯車――横の運動を縦に変換する。
ずどん。
容赦なくアスファルトに落とす。人間だったら大問題だが、相手は人狼なので遠慮などいらぬ。
世界が揺れる錯覚と共に、私は相手を投げ飛ばした。
「ふゥ――――」
目がチカチカする。死の恐怖、そして高揚感に支配される。
「――ふゥ――」
息を吐く、吸う。肺が酸素を大量に求め、心臓がばくばく唸り、脳は脳内麻薬に酩酊している。
「…………ふぅ」
落ち着け、落ち着け、落ち着け――私は深く深呼吸して、ようやく我に返った。
街は相変わらず静かだ。
誰も、何も起き出さない。
それでも好奇心の、あるいは正義感の強い誰かが出てくるかもしれない。
なら、いつまでもここにいるわけにはいかない。
無惨な遺体に視線を送る。誰だか知らないが可哀想に――黙祷を捧げる。流石にこれを見過ごすほど、私も捻くれてはいない。
けれども私にとって重要なのは人狼の方。私は用心深く足下に視線をやり、
ジ、ジジ、
「――――は?」
人狼の変身が解ける。まるでSFの演出みたいに、ブロックノイズが身体中に走っている。それはいい、それはまあ、いい。
「……は?」
問題は相手の顔だった。ちょっと待って欲しい。流石にこの展開は想像していない、
「――誰だッ!」
鋭い声。そして眩しい光。私は反射的に足下の相手を引っ掴むと、手近な屋根まで跳ぶ。
「ひッ……!」「ま、まさか、狼男!?」「う、う、嘘だろ……!?」
怯える声を振り切りながら、屋根から屋根へ飛び移る。街を外れて裏の林に飛び込む。影絵だった街はにわかに騒がしくなり、サイレンの音が異常事態を知らせていた。
「……参った。私が殺人鬼扱いされないか、これ」
待ってください冤罪です、なんて言ったところで通るわけもない。殺人現場に人狼がいたのは事実だからだ。後で先生にどやされるかと思うと、途端に憂鬱になった。
腕の中の真犯人は気絶している。人狼だったのが嘘みたいに、綺麗な人間の形をしている。
「おいおい、勘弁してくれよ氷川サン。クラス一の優等生が殺人鬼とか、スキャンダルにも程がある」
まあいい。朝まで時間はたっぷりある。しっかり連れ帰って、先生と一緒に事情聴取するとしよう。
氷川希望。全国模試のランカーにしてクラスの高嶺の花。そんな彼女は、果たしてどのような事情でこのような凶行に及んだのだろうか。
そんなもんどうでもいいと切り捨てたいが、しかしそうも言っていられない事情がある。
「覚悟しろよ。まっとうな人狼として、徹底的に問い詰めてやるからな」
――申し遅れた。私の名前は月島夕理。
先天的な人狼というけったいな設定を持つ、普通でありたい男子高校生である。