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1-05 君と出会った夏~初めて、こんなに人を知りたいと思った~

 大学の長い夏休み。

 暇をもて余していた川嶋慎吾(かわしま しんご)はふとした好奇心で侵入したリフレ店の跡地で、高校生の少女・狭川紗希(さがわ さき)と出会う。

 彼女との出会いをきっかけに、慎吾の毎日には確かな“色”が付き始めて……。


 ひと夏の出会いと、別れの話。

 彼が彼女を知っていく、物語。

 アドトラックから響く聞き馴染みのない歌を疎んで顔を上げれば、ビル郡の隙間から覗く青空の彼方に、作り物のような入道雲が(そび)える真昼。

 大学の長い夏休みを持て余していた川嶋(かわしま)慎吾(しんご)は、炎天下でも変わらず歩道を埋め尽くす雑踏から逃げるように、そのビルへと足を踏み入れた。


 それは理由などない、まったくの好奇心からのこと。今年、慎吾が持て余していたのは夏休みだけではない──同級生たちに先んじて就活を終えてしまった慎吾は、就活が長引いたときに備えて履修するコマ数を減らしていたことも相まって、大学生活そのものを持て余していたのである。

 せっかく自由の身になっても、それが自分ひとりではあまり意味がない。就活や身内の介護など、各々の事情で手一杯な友人たちを遊びに誘うのも忍びなく、今日ははじめからひとりきりで街歩きをしていた。

 その過程で郊外でひっそりと、それでも確かな存在感を漂わせるストリップ劇場に足を運んだり、妙にレトロな佇まいで、知らないながらも想像だけはできる『昭和』の香りが漂うソープランドを訪れてみたり。はたまた評判のよい性感エステを回って“施術”を比べてみたり。決して多くもないバイト代を切り崩し、時間に飽かせて娯楽に溺れた。


 慎吾がその日立ち寄ったビルは少し前──夏と混ざり合った()せ返るような梅雨が明けた頃に、当時営業していたリフレ店が摘発されたばかりらしい。人肌を伴う娯楽に慣れつつあった慎吾は、見るからにいかがわしい看板に惹かれて近付こうとしたが、そのときにくたびれた服装の中年男から聞いたのだ。


「今だから言うけど、ここ相当際どいサービスもやってくれてたんだよ。昔ならそういうのはリピーターたちだけの秘密だったんだけど、今じゃネットとかあるでしょ、誰かが広めちゃったのかねぇ……。急に客が増えたと思ったらあっという間に警察来ちゃってさ」


 いかにも残念そうに言う中年男に適当な相槌を打ちながら、慎吾は何か言い知れぬ好奇心に心を揺さぶられていくのを感じていた。そして中年男が去るのを見届けた後で規制線テープを潜り抜け、無骨なコンクリートの階段を上がって摘発されたという店の跡地に侵入した真正面で、首を吊った制服姿の少女と出くわした。


「わっ……」

 ドラマや漫画であるような叫び声は出なかった。

 恐怖で喉が潰れたわけではなかった。

 ただ、目の前の若々しい肢体に目を奪われていた。 


 少女の着ている学生服は、よくリフレ店であるようなコスプレ用のそれではなかった──よく進学校としてテレビで紹介される、名門高校のそれ。唾液や汗、室内の汚れが付着しているにもかかわらず、どこかいい香りが漂っているようだった。

 一目でよい生地だとわかるスカートから覗く脚は肉感的で、それでいて肥えたようには感じさせない──指でつつけば跳ね返してきそうな若々しいハリがあった。死斑のようなものはまだできていないが、内腿がぐっしょり濡れていた。スカートまで濡らすそれが何であるか、慎吾には判別がつかなかったが、その奇妙な艶かしさにただ見惚れてしまっていた。

 夏の昼間とはとても思えない、薄暗い室内。退廃的な淫靡さすら(まと)わせるその肢体に少し近寄ろうとした慎吾は、靴底にべたりと張り付く不快な感触に気付いた。


「何だ……うっ、何だこれ?」

 思わず、胃液を戻しそうになった口を押さえる。


 踏みつけた瞬間に鼻を刺す、吐き気を催すような臭気。不快なその臭いを嗅いだ瞬間、首吊りをした人間の足下には排泄物が垂れ流されると聞いたことを思い起こした。もしや、今自分が踏んでいるのはこの少女の……?

 そこまで考えた途端、慎吾のなかには理解しがたい感情が芽生えた。普通なら、誰のものであれ排泄物に触れるなんて気分のよくないことだ。もちろん、今の慎吾だってそうした不快感は抱いている。しかし、どうもそれだけではなかった。

 名門校に入るような才覚を持ち、死体となっても思わず惹き付けられてしまうような肢体の少女。彼女がこの制服に袖を通すようになってから今まで、人前で排泄物を晒すなどという醜態を経験してきただろうか。慎吾にはとてもそうは思えなかった。何かの事情があって自死を選んだのだとして、それでもこんな風に見ず知らず、通りすがりに過ぎず、本来ならば一切関わることのなかったような、文字通り別世界を生きているような平々凡々の男子大学生の前で糞尿にまみれた姿を晒すような経験を、こんな少女がしてきたとは到底思えなかった。

 それは言うなら、開かずの間。

 見るな行くなと禁じられることで魅力を増し、カリギュラ効果によって人心を捕らえて絡めとる、禁忌の境の向こう側。

 どうしてか、慎吾の胸は高鳴った。間違いなく、自分はこの少女がこれまで必死に秘してきたであろうものを垣間見て、あまつさえ足蹴にしている。その背徳感が慎吾の背筋(せすじ)を震わせ、いつしか靴の汚れすら気にならなくなってきた──むしろ、靴まで汚してしまったからこそ、(かえ)って開き直ったように少女の姿を食い入るように見つめた。


 夏とあって汗の臭いも混じってはいるもののよい香りのシャンプーを使っていることが窺え、キチンと丁寧に扱われてきたらしい艶のある黒髪がダラリと垂れ下がっている。その髪を掻き分けてみれば、そこには鬱血(うっけつ)して膨脹し、赤く濁った眼球が今にも眼窩から溢れんばかりの顔が慎吾を見つめ返していたが、それでもどことなく、元の顔はかなり愛らしかったのだろうと窺わせた。

 さすがに触れようとは思えないが、乾きかけの涙が伝う頬はまだ柔らかさを残しているようだったし、夏の気候によって湿度を保たれていたのか、呼吸を止めて久しいであろう唇は何だか艶やかに見えた。捲れ上がった瞼を縁取る睫毛(まつげ)には涙の名残のような湿気があり、乾ききってひび割れたままだらりと伸びる舌とは対照的にも思えた。

 伸びきった首から視線を落とせば、やはりどことなく上品さの漂う学生服。夏期に入ったこともあって軽装で、一目見ただけでは雑踏の中を歩けば嫌でも目にするそこらのワイシャツやブラウスと変わらないようにも見えたかも知れないが、こう至近距離でまじまじ見つめていれば、なんとなく「違う」とわかる仕立てをしていた。

 制服の下に収まった脱力しきった肢体はまだ変色の類いをしておらず、顔さえ見なければ今にも動き出しそうだった。午睡(ごすい)する麗らかな乙女──元の顔など面影を推測するしか知りようのないその少女の在りし日の姿を、慎吾はいつしか夢想していた。湿気なのか、筋肉の弛緩した身体から溢れ出た体液なのか、やけに濡れた制服にピタリと張り付いて平均よりも豊かそうなボディラインを誇示する肢体は、無性に蠱惑(こわく)的に見えた。

 (がら)まで透けて見える下着に守られたバストから腹部にかけてのなだらかな曲線を、奇妙な感慨と共に見つめる。ほんの少しだけ捲れた(すそ)から(あらわ)になった腹部は決して引き締まっているとは言えなかったが、思春期を通り越すと即座に失われていく肉付きが却って侵しがたい尊さを宿している。これまで性風俗を利用するなかで肌を重ねた相手が皆年上の女性だったこともあって、明らかに自分より若いと確信できる女の身体という“未知”を目の当たりにした慎吾の呼吸は荒くなる一方だった。

 視線は自然と更に下へと吸い寄せられたが、まじまじ見つめれば内腿どころか脚全体が汚物やその他にも恐らく彼女の体内にあるべきであっただろうものにまみれていたため、慎吾の視線はヒップに至るまでのボディラインで行き止まりとなった。スカートを軽く持ち上げるヒップを(じか)に見て、その手触りを想像などではなく実体験として感じておきたかったが、尿だけでなく汚物でも濡れているのだろうことがわかってしまったスカートに触れることは、さすがに躊躇われた。

 肌が白いのは元からか、それとも血が通わなくなったためか。白色灯に誘い寄せられた羽虫のように、慎吾の視線はその柔らかそうな肌に吸い寄せられて離れない。熱に浮かされたような呼吸をしながら、慎吾はまずだらりとぶら下がった腕に触れてみた。


「うぁ、」

 その手触りは、慎吾の想像とは違っていた。若々しくも甘美な感触を想像していたが、実際に触れてみると思いの外一方的で、ただ湿った石膏ボードに手をつけているかのような違和感が込み上げてくる。それは紛れもなく、目の前の少女が生きてなどいないという証左に他ならなかった。

 思わず離した手の勢いで押された身体が、振り子のようにゆらゆらと揺れる。その(たび)に、スカートの中でぶら下がっているらしい何かが地面に落ちる湿った音が聞こえるが、慎吾には直視する勇気はなかった。


 身勝手だが、慎吾の胸にはもう少女に対する淡くも醜い欲望などほぼ残っていなかった。直に触れてしまったことで突きつけられた『死』が、目の前にいるものが少女ではなくその亡骸でしかないことを慎吾に知らしめ、とても己の(たかぶ)りをぶつける対象として見ることなどできなかった。

 いざ恐怖を覚えると、揺れる死体は慎吾の好奇心や欲望を咎めているようにも見えた。その濁った眼球がギロリと慎吾を睨み付けているようにも思えたし、それまで呪いや祟りの存在など信じてこなかった慎吾も思わずそれらを警戒してしまう。


 だから、慎吾がそれを見るのはある意味で必然だった。

 死体の傍ら、受付を済ませた客が座って待つのであろうベンチに置かれていたのは、この少女が使っていたと思しき通学カバン。

 それを目にした慎吾の中で、醜く澱んだ好奇心が息を吹き返した。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 人を選ぶテーマ、テンポですが、文庫を読んでる気分になって個人的にはいいなと思いました。
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