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1-23 ドゥ・カの函

 悪魔イャッヘムは音を食べて生きている。食べられた音は静寂に置き換わり、多少の混乱を引き起こすこともあるが、僅かばかりも悪魔は気にかけることはない。

よい音は、彼にとって蜜よりも甘く何よりも貴重なもので、ひいてはつまり、そこに住む他の動物の都合など、いちいち考えようとさえ思わなかったのだ。


 ある日、彼の前に別の悪魔が現れる。この悪魔も音を食べる種で、その悪魔は【ドゥ・カの函】を使って悪魔の力を人間に与え、素材を調理するように声をつくることを良しとしていた。


 悪魔は言った。

 人間の中でも特に貧しく何も持たない者に手を加えて極上の音を出してやろう、と。

ありのままの音こそ最上とするイャッヘムはこれに反駁し、【ドゥ・カの函】を壊すと誓った。


 それが悪魔に破滅をもたらすと知らずに。



 この世界は、美しい。

 トァグ地方の地中に生息するググ虫を噛み潰したような顔──つまり人間界で言うところの苦虫を噛み潰した顔で、悪魔イャッヘムはそこにある石レンガ造りの煤けた街並みと、忙しなく行き交う生き物たちを見ていた。この生き物たちは気がつけばうじゃうじゃと増えて所構わず自分たちが暮らすために木を切り倒し、土を抉り、石を焼いてそれらを積み上げて住み着く性質があった。

 自分たちのことを人間と呼び、地を荒らしながら暮らしているその生き物は悪魔イャッヘムにとって何ら興味の対象ではなく、人間界の他の動物よりも少しだけ小器用で傲慢な種族だとしか思っていなかった。人間に対して(もちろん、人間界のその他の動物に関しても)興味がなかったが、あれらが鳴らす音の数々は、悪魔が棲む世界の音とはまったく違うもので、音を食べて生きる悪魔イャッヘムにとって、人間界は実に実に、実に美しいと思えた。石畳にどっかりと座り込み、頬杖をつきながら彼は言う。悪魔の姿は、当然誰にも見えはしない。


「さあさあ、さあ。どの音を飲み込もうか」


 悪魔たちの趣味嗜好や食生活、生活様式はそれぞれ違っており、生物の生き血を啜るような者もいれば、海の底に沈んでわずかに届く薄灰色の日の光だけを食す者もいる。イャッヘムの場合は、音なのだ。それだけの話である。

 だが悪魔の感情表現だけはおおよそ似通っていてこの世の何をも恨むようなしかめっ面は最上級の喜びの表現であり、つまるところこの悪魔はいま、とても上機嫌なのだった。


 ともあれ、音を食べにゆこうと立ち上がり、手近なレンガ造りの民家の木戸を開ける。立てつけの悪い、ぐいぃと鳴る音を手づかみでとって食べる。飲み込んだ音は野鳥についばまれた甲虫のようにばたついて喉に引っかかり、イャッヘムはくしゃくしゃと顔をしかめた。開いた木戸をそのままにして立ち去り広場へ向かえば水売りが腰を下ろして休んでいる。荷台に積まれた水樽はよほど使い込まれているのか、(たが)がところどころ歪んで、オーク材の板目には欠けも目立っていた。水売りは肩で息をしながら曳いてきた荷車に背を向けて休んでいる。その水樽の詮を抜けばごぷりごぷりと、とろみのついた音が滴り落ちたのでイャッヘムは思わず大口をあけて音に喰らいついた。甘ったるいその音は樽からまだまだ溢れてくる。

 水は滔々と零れるが、音は悪魔に吸い込まれていくので水売りが異変に気が付いたのは樽一つがからっぽになった後、二つ目の樽の半分ほど水が流れ落ちてからだった。


「うわぁぁ! 水が! 商売道具の水が! ちくしょう、詮が緩んでやがったのか、このクソ樽め!!」


 イャッヘムはきりきりと口の端を上げて満面の笑みを浮かべる。もちろん水売りに悪魔の姿は見えない。この顔は悪魔の感情を表しているだけで、イャッヘムは実に感情豊かな悪魔なのだ。心底、煩わしく思っている時の表情がこれだった。


「ああ、もう。厭な音を立ててくれるな。呻き、喚きは不味くて不味くて仕方ない」


 水売りの絶望など我関せずの態度で次の食事を探しにゆく。露地売りの店が並ぶ市場を覗いて、ざわついた音を一瞥する。果物売りの呼び込みの声、荷車がきぃりきぃりと轍を進む音。木の棒の先に糸を垂らし、その先に先端が少しくびれた編み籠をつけた奇妙な道具や木彫りの器がごっちゃりとぶちまけられた屋台には、えらく人間があつまってガヤガヤやっていた。不味そうではなかったが、どうにも小粒で雑多なそれらの音を食べる気にはなれなかった。イャッヘムは音を食べることに関して大事な決めごとをしていて、食べる音は徐々に大きくしなければ気が済まない性質だった。

 

「前菜は、ふむ。これくらい。さてさて、さて。もっと人間が集まるところへ行こうか」


 乗り合い馬車の幌の上に陣取り、半身で寝転がる。二頭立ての引き馬、そのうちの一頭が一際高く嘶いたのをありがたくたいらげて、森の木々が近い農村から、石で敷かれた地面しかないような都会へ連れられていく。

 夕暮れは馬車の後方で赤く燃え尽きようとしていたが、なんの音も立てないそれに、僅かほどの興味をひかれることもない。大きな石造りの尖塔に星がひとつかかるほどになって、馬車は街の馬舎へと到着した。ガス灯の明かりが石畳を照らす中をイャッヘムは歩く。人間の服装は、村と街でずいぶん違う。簡素な草染めの麻布だったものから艶のある真っ赤な絹布のドレスへと変わっており、そういった豪奢な格好をした者たちが吸い込まれるように大きな劇場に流れていく。流れと雑踏のざわめきに逆らわず、けれど無駄な音のつまみ喰いはせず、劇場の舞台、その真ん前に座る。ここに来れば、より大きく、上質な音が鳴ることをイャッヘムは知っていて、メインディッシュに相応しいとばかりに苦虫を噛み潰したような顔をさらにしかめた。


 その日の演目はオペラのひとつだった。喜劇であろうが、悲劇であろうが悪魔にとってはどちらでもよいことなので演目の種類など気にするつもりは毛頭なかった。

 演目がはじまるその直前、劇場中がしんと静まり返るその一瞬。誰も彼も、衣擦れの音一つたてずに、それでも雰囲気だけはじゅうぶんにざわついている無音が、イャッヘムは好きだった。これから食べる音をより引き立てるための無音なのだから。

 そして流れるように始まったオーケストラの透き通るような音楽、流麗な調べの声劇。ざわり、ざわりと悪魔イャッヘムが体を揺らす。すぐに食べては勿体ない。一番良い音を、一番良い時に食べなければ、音に失礼だ。悪魔は紳士的に、クライマックスを待った。


 やがて、その瞬間は来た。

 劇場全体をすっかり満たすような主演の声が、最高潮に達する瞬間。


「さぁて、いただこう」


 ぐんにゃりと体をしならせて、開けた大口は舞台全体を覆うほどに大きく広がる。すべての音は、イャッヘムの腹の中へ。

 舞台上に訪れた突然の無音。悪魔に音を食べられたなど、その場の誰も思いつかず、劇場は困惑の後に騒然としはじめた。


 ごくりと飲み込んだその音は見事に調和のとれた芳醇なもので、抜けるような香りが悪魔の脳天を貫いた。刺激的。実に実に刺激的で、濃厚で、それでいて切れの良い喉ごしは無類のものだった。


 きり、きりきり。

 イャッヘムの口の端が上がる。抑えきれない感情が笑みと共にこぼれそうになるのを、腹を抱えて耐えようとしたが堪えきれずに漏れていく。


「ク。クク……クカ、クカカカ……!」


 満面の笑み。そして笑い声。

 悪魔にとっての、負の感情を表したその表情と声はさらに大きく。


「クカックカカカカッ! 美味い! 美味すぎて(・・・・・)実に不愉快だ!!」


 舞台の眼前。劇場の混乱を背後に高笑いを続けるイャッヘムの後ろで主演の人間がショックのあまり倒れた。悪魔の姿は人間には見えないが、舞台が台無しになったことは倒れるに余りある衝撃を与えたに違いない。それを皮切りに、劇場のざわめきは悲鳴に変わる。


「クカハハッ! 冗談じゃない。この上、断末魔なんて。不味い音は聞くに堪えない」


 張り付けたような満面の笑みのまま劇場を出たところで、イャッヘムの前に立ちはだかる者の姿があった。


「どぉうだい。今宵の音はお気に召したかな?」

「クカカカ……実に実に気に入らない。君の仕業だな。また(はこ)を使ったのか」


 手足がすらりと長々しく、胴体の三倍ほどの四肢を持つ悪魔が慇懃無礼に被っていた縦縞模様のシルクハットをとって礼をする。シルクハットと同じ柄のスーツと合わせて、玉虫色に厭らしくガス灯の光を反射している。

 その悪魔は、苦々しい顔でイャッヘムを睨んでいた。


「そうとも。我が友のために、この悪魔フェベルネブ、あの羽虫のようにしか鳴けぬ人間に【ドゥ・カ

「君の人間好きにはほとほと呆れるばかりだ。いいか、フェベルネブ。君を友だと思ったことはこれっぽっちも無いんだぞ」

「おお、イャッヘム。それがどぉうしたね。私は、君を友だと確信している。それでよろしい。それだけでよろしい」


 フェベルネブは長い手足をぐねりと折りたたんでシルクハットを被りなおす。彼もまた、音を主として食べる悪魔だが、その食事の在り方はイャッヘムと違っていた。

 笑みを崩さずに悪魔が言う。


「いいかい。世界はそのまま在るのが良い。手を加えた音は嫌いなんだ」

「ああ! 素材のまま丸呑みなど野趣を大切にしすぎている。友よ、文明的でありたまえ」

「クカカッ! 勝手に文明でも宗教でも率いていればいいだろう」


 悪魔たちの主張はどこまでいっても平行線をたどる。フェベルネブは一筋の涙を流して指先をしゅっと友に向けた。楽しくて仕方がないのだ。


「よぉろしい。そのようにしよう。人間を飼って函を定期的に使い、いつでも極上の音を提供してやろうとも」

「呆れた! 実に呆れた。神にでも成り下がるつもりか。そんならその函、きっと壊してやる」

「やってみたまえ。できるものなら」


 それだけを言い残して、フェベルネブはしかめた顔のまま闇にすいと消えた。人間たちがざわつく劇場を背に、イャッヘムは金切り声のような高笑いをずぅっと続けていた。

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