1-15 その聖女、凶暴につき
「聖女リリアンヌよ。神聖なる審議の結果、貴女を聖都アドミラルより追放とする」
かつて聖殿に勤め、一生涯を瘴気の浄化に捧げると誓った聖女リリアンヌ。
宮廷の王侯貴族は彼女の存在を疎ましく思い、追放刑に処した。
だが彼らは知らなかった。
なぜ聖女を安置すべきかを。
なぜ信仰を絶やしてはならぬのかを。
そしてこの国の歴史を──かつて魔王アザゼルが世界を恐怖の底に陥れていた過去を。
一千年にも及ぶ《聖女》の記憶を受け継ぐリリアンヌは、魔王の実在を信じていた。
しかし人々にはそのことは、真偽不明のおとぎ話に過ぎなかったのだ。
ついに今世復活を果たした魔王。
宮廷の裏切り者が正体を明かす時、魔王を斃す可能性──勇者の血筋が絶滅の危機を迎える。はたしてリリアンヌは、未来の勇者ユリウスを救うことができるのか? 絶体絶命の窮地の中、リリアンヌは剣を執る。
ちくしょう、なんでいまになってヤツが──聖女リリアンヌは憤慨した。
ついでにゴブリンを三体薙ぎ払った。
その手に握られたのは聖剣〈血塗れの淑女〉だった。
獰猛な獣のように坂を駆け上がる。
追手はすかさず間合いを詰めた。
「失せろ」
ヘルハウンドが二匹、また餌食になった。
亡き骸散らかる丘の上、たどりついたその場所から見る聖都アドミラルは悲壮の景色だ。炎と怨嗟の声が交互に入り乱れ、魔族国家の旗が色麗しくはためいている。
(遅かった……!)
追放刑に遭ってやれ三年、リリアンヌが必死に組んだ脱出計画もこれでおじゃんだ。かの内通者の魔の手は止められなかった。王宮はまさに火の掌中にあった。
せめて王子が教えた通りの脱出経路で難を逃れていることを期待するしかない。だがこれほどの猛攻では、リリアンヌの前支度も無駄になったと考えるべきだろう。
「くそッ」独語する。
剣は血を求めて、微かに振動した。
手を押さえる。時間に余裕はない。
遠くで角笛の音がした。間違いない。ヤツだ──魔王アザゼルの本陣。一千年前、名もなき聖女と王族の祖先が手を組んで斃したという、あの魔王アザゼルだ。
聖女就任式で受け継いだ記憶に間違いがなければ、その上半身には大きな傷痕がある。聖剣で斬られた箇所だ。おかげで封印の魔法が効いたのだった。
民衆の信仰の象徴であり、同時に歴史の語り部でもある聖女は、その身に備わる力によって、世界の瘴気を浄化していた。
詳しい理屈はわからないが、建国神話にのみ名が知られた大賢者の魔法らしい。
聖女を受け継ぐ人物は、美しき乙女であること。
〈星々の宝冠〉をかぶって、歴代聖女の記憶を受け継ぐこと。
そして代々の王子を養育し、国を正しい方向に導くこと。
この三つを叶えることで、年々レゼル大陸から瘴気が取り除かれてきた。
ところが人々は長きにわたって聖女の恩恵に浴した末、その有り難みを忘れた。
すでに魔法を礎に文明を極め、先進的な発明の栄華に溺れた王侯貴族は、宰相グルドの提案をたやすく受け入れたのだった。
聖女の追放。そして信仰の廃止。
それこそが魔族の罠だというのに──
また角笛が鳴り、リリアンヌを追っていた魔物が一斉に動いた。権威と地位を失った聖女など煩いハエでしかない。そう言うかのようにあっさりと退き下がったのだ。
許せなかった。聖女はふたたび怒りに身を焦がした。黄金の頭髪が風に抗い、逆立った。水晶のごとき透明な青が、射殺すような眼差しを振りまいた。
「来い! 聖女はここだ!」
白刃を振り上げる。〈血塗れの淑女〉がご挨拶を披露した。青白い光が太陽に刃向かい、傲慢のあまり翼を焼かれた天使のように魔物に向かって降り注いだ。
これは、剣の雨だ。
乱打する縦横無尽の刃の数々が、吹き荒れる風とともに敵を切り刻んだ。
断末魔の雄叫びすらも上がらない。死の淑女は、うっとりするほど上品なしぐさで手の甲への接吻を施して回るだけだ。
魅入られたものどもはきっと幸福なことだろう。なぜなら痛みすらないのだ。ただ吹雪の中で眠りに就くように、あっけない死。
崩れ落ちた氷のように、骸は朽ちた。
リリアンヌは丘をくだって走りだす。
城門は半ば崩れかかっている。兵士の死体もたくさんあったが無視をした。踏み台にし、崩れた箇所から中に入った。
火の手は堀すら囲んでいる。石畳みの路地をひた走って、邪魔者を蹴散らした。目指すは城、ただその場所のみ。北の塔は陥落したも同然だったが、この目で見るまでまだ希望は絶えていない。
王子ユリウス──彼女の希望だ。
廃墟と化した城に潜入しつつ、彼女は自分自身の過去に踏み込む。かつて王子の養育を引き受け、歴史を教え、剣を執らせた。戦うことを怖がるほどの優しい少年だった。
『こんなこと、もういいよ』
王子は恨みがましく言っていた。
『それが務めです』
『務め? もう魔王がいなくなって何年経ったと思ってるの?』
『それでも、です。私の務めは、あなたが勇者であるという自覚と信念を、持ってもらわうことなのですよ』
『……わかったよ』
利発であった。だが生意気でもあった。
騎士の息子と肩を並べ、城下町での悪戯も少なくない。それもこれも国王のせいだ。未亡人となった王太子妃を宮廷から遠ざけ、貧困のうちに死なせた。その恨み──
『あの子をお願い』と王太子妃は言った。
王太子妃マリーは、まだユリウスに愛する男の面影を見ていた。
そしてそれは図らずも、リリアンヌの懸想したただ一人の男でもあった。
愛していた。
だが使命を優先したのだ。
親友のマリーが婚約したと聞いた時、むしろホッとしたものだった。子供が産まれた時は当の本人たちよりも喜んだ。聖女の任務もあったが、王子に使命を教える役割を担えることが誇らしかったのだ。だから。
どこに出しても恥ずかしくない立派な王にすると約束した。その誓いを、死の床で頼まれた言葉を、踏みにじるわけにはいかない。
たとえ自分の命と引き換えにしてでも。
彼女は守ると固く誓った。
城内の西の翼をつたって、階段を駆け上がる。二つ飛ばし。がむしゃらで、上に落ちる濁流があれば、かくやというほどの勢いだ。
踊るように斬り、血しぶきが舞った。ゴブリンたちは恐れをなして瓦解した。魔物よりもよっぽど鬼気迫る形相だったに違いない。
死屍累々のきざはしの果て──そこに北の塔の個室がある。
王子はそこにはいなかった。
最悪の事態は起こったか? 自問する。答えは否だ。確かに脱出経路は塞がれていたが、人間の血が流された痕跡はない。王子ユリウスは、まだ生きている。
振り向いた。
階段を登る音がする。
ゆっくりと、じっくりと。
靴底が反響するのを愉しむかのように、それはやってくる。
逃げ場はない。ならば待ち伏せだ。
リリアンヌはドアの陰に隠れた。
来訪者を窺う。
初めに見えたのは背中だった。丸く湾曲した背中──だがすぐに肩に担がれた子供の背中だとわかった。
見覚えのある体格だ。両手足をだらんと下げ、持ち上げられている。
続いて大柄な男がいた。燻し銀の髪がチラッと見えたところで身を隠す。魔族か? いや。もし魔族なら王子の首を獲るだろう。野に放り捨て、勝利を宣言するだろう。にもかかわらず、この塔を登る男は何者なのだ?
ドアが開いた。陰から見た。
背中にぶら下がった子供の顔は、まさに王子ユリウスだった。
しかし。リリアンヌは硬直した。
その王子を担いで歩いている存在こそ、最も恐るべき相手、魔王アザゼルだったのだ。あらわな上半身に映る傷痕。間違いない。一千年の記憶を経ても、それはそこにあった。
リリアンヌは絶望に放り込まれた。
「やめろ、やめろ……」
魔王アザゼルが鷹揚に振り向く。
その目は残酷なほど鮮明な赤だった。
「その子を離せッ!」
リリアンヌは〈血塗れの淑女〉とともにあった。剣が乱舞し、魔王を襲う。白刃が残像となり、無数の渦を巻く。切り刻むための大車輪が空気を真空になるまで粉々にした。
だが、魔王は実に優雅に、淑女の手を取ってみせた。一緒に踊りませんか? そう誘うように微笑んで、剣を指二本で受け止める。
「騒ぐな」
動かない。リリアンヌだって歴戦の戦士だ。歴代聖女の戦闘知識と、度重なる訓練が大の男を平気で撃ち倒す力になっている。
それでも、魔王アザゼルには敵わない。
だから勇者が──特殊な血筋のもとで力を承認された人間がいるというのに。
魔王アザゼルはもう一方の手で、槍を持った。伝説に聞く魔槍グングニル──神をも殺す恐るべき刃が、リリアンヌを狙う。
そして。
「避けろ」
言葉の意味がわかる前に、リリアンヌは身を翻した。
瞬間──稲妻のような一閃が、彼女の背後に立った、もうひとりの魔王アザゼルを貫いた。
がつんと衝撃があった。
塔の壁が砕け、煙った空に開かれた。
脳天を貫かれたそれは、次の一振りで投げ捨てられたのだった。
「どうやらおれの偽物が出回ってるらしい」
独語し、魔王は聖女の身を引き寄せた。
そして魔眼がリリアンヌの容体を診た。眉をひそめる。
「貴様……聖剣に魂を売ったな? 剣の精霊と契約したら、三日と寿命が保たんぞ」
アザゼルの痩けた頬が、微かに歪んだ。
「なぜそこまで」
「お前を殺すためだ」
「命が惜しくないのか」
「魔族には一生かけてもわかりゃしないよ」
「…………」
魔王はしばらく沈黙していた。
だがリリアンヌが恐ろしい面持ちで王子の安否を見定めていると、「大丈夫だ。生きている」と答えた。
「グルドという男の仕業だ。まさか憎き勇者の子孫を助ける日が来るとは思わなかったが、魔族殺しにはその血族の力が要る」
魔王は聖女を突き放した。
対等に向かい合う。
「休戦だ。手を組まないか、女」
一瞬の沈黙ののち、リリアンヌは応えた。
「リリアンヌ。お前を殺すものの名前だ」
「ふん。小癪な」
差し出された手を取った。
全てはユリウスを生かすため。
そして使命を果たすために。
†
四日後、魔族絶滅という事件が起こる。その立役者となった三人がこの瞬間に集ったことを、歴史家はまだ知らなかった。