1-12 伯爵夫人の赤の食卓
呪われた真紅の髪を持つアロイジアは、古城に住まう伯爵夫人に仕えている。赤い色を食べないと生きていけない、という呪いのような奇病、《赤餓症》を患う夫人にとって、アロイジアの髪は良いおやつなのだ。
苺に薔薇、柘榴に林檎。
気難しい貴婦人のもと、四季折々の赤に染まる城に集うのは、頑固で忠実な老料理人、不老不死を求める鴉の錬金術師、勘違い吟遊騎士。
時に騒がしく、時に倦怠感漂う日々の果てに、アロイジアの呪いは解けるだろうか。伯爵夫人の病は癒えるだろうか。
伯爵夫人は今日も偏食でいらっしゃる。
「色々あるわね……」
常に憂いと倦怠の紗を下ろしたような黒い目が食卓を撫で、白い指先が銀のカトラリーをくるくると弄ぶ。行儀の悪さは、食欲のなさの表れだ。
食堂の隅に控えた料理人のゲラルトが、不安げに髭をいじりはじめたのを見て取って、アロイジアは口を挟んだ。
「どれかしらはお気に召すかと思ったので」
「でも、どれも赤いじゃない」
伯爵夫人は、馬鹿じゃないの、と言いたげな目でアロイジアを見た。アロイジアは、馬鹿じゃないですか、と思いながら言い返す。
「奥様のお食事ですよ?」
食卓に並ぶのは、真白いクロスに磨かれた銀の皿。そして赤い料理。
ビーツのスープに、海老と鮭と赤パプリカのマリネ。
血の滴る生々しい切り口を晒した牛のローストは、付け合わせの人参の甘煮と唐辛子のソースによってますます赤い。
皮ごと焼いた林檎は、溶けて飴状になった砂糖とバターに包まれてつやつやと輝き、紅玉のよう。苺のムースには薔薇のジャムを添えて。
赤、赤、赤。多少の濃淡はあっても、並んだ料理はすべて赤い。クロスが染みも皺もひとつもなく輝くからこそ、なお赤い。目が痛くなるほどだ。食欲が失せるのも無理はない。
けれど、伯爵夫人には献立に不平を漏らす権利などない。なぜなら、この御方は《赤餓症》なる奇病を患っている。
赤餓症は、非常に奇妙な症状を患者にもたらす。呪い、と呼んでも良いだろう。すなわち、赤いものしか食べられない──あるいは、赤い色でないと患者の命を繋ぐ栄養とはならない、という。
長年この病に付き合っている伯爵夫人だから、自身の身体のことは誰よりよくご存じだ。アロイジアと睨み合うことしばし──夫人は、投げやりにカトラリーを卓上に放り出した。
「……今日はおやつで済ませるわ」
「はい、奥様」
部屋の隅では、ゲラルトがしょんぼりと顔を歪めている。手を付けられなかった料理に、雑な扱いに傷がついたかもしれない食器とカトラリーに、老いた料理人は胸を痛めているのだろう。
ゲラルトを少し気の毒に思いながらも、アロイジアは伯爵夫人の指先での命令に従って女主人のもとに歩み寄った。食卓に侍るメイドには相応しくなく、彼女の髪は結われることなく背を流れている──その髪のひと房を、伯爵夫人はすくい上げた。
「──いただきます」
アロイジアの髪は、真紅。今しがた人を殺した血を頭から浴びたかのような鮮烈な赤だ。城に迷い込んでから一年ほど、彼女はこの変わった禍々しい色の髪を、しばしば伯爵夫人のおやつとして供している。
夫人の唇がアロイジアの髪に寄せられる……と、吸い取られるように褪色した。老婆のような白に変じたのも一瞬のこと、そのひと房はすぐに血に浸したような真紅に染まり直した。
「何度見ても面白いわ。ずっとこうなのかしら」
アロイジアの髪色の変化をしげしげと眺めていた伯爵夫人は、興味深げに呟いた。なお、彼女自身は、目だけでなく髪も黒檀の色だ。赤餓症は、あくまでも食だけに影響する病なのだ。
「どうでしょう。百万人分の血だと聞くので、当分尽きないはずですが」
「それ、きっと誇張された数字よね……なるべく持ってくれると良いのだけど」
ふたりのやり取りは、この一年の間に何度も交わしたものだ。同じことを繰り返すくらいこの城の生活は単調で、要は暇なのだ。
「ご馳走様。後は皆で食べてちょうだい」
恐らくは必要もないのに口元を拭うと、伯爵夫人はドレスの長い裾を従えて退出していった。今日も偏食でいらっしゃった。
「やれやれ、今日は無駄になったか。どれも美味いのに」
ゲラルトは、嘆きながら赤い料理を平らげている。
「無駄ではありませんよ。私が残さずいただくので。いつもありがとうございます」
老僕を慰める必要を感じて、アロイジアは牛のローストを咀嚼しながらもごもごと言った。ゲラルトの腕に間違いないこと、彼女も自信を持って保証できる。この城に来てからアロイジアの身体には肉がついて、髪もいっそう艶と赤みを増した。
彼の職分を侵す変わり種のおやつをじっとりと睨んで、ゲラルトは溜息を吐いた。
「あんたが来てから奥様の偏食に磨きがかかった。五十年もお好みを研究してきて──」
年寄りの愚痴が始まりそうな気配を察して、アロイジアは口を噤んで焼き林檎に手を伸ばした。濃厚な肉汁と唐辛子の辛みに、果物の甘みが加わると絶品だ。奥様も召し上がれば良かったのに、と、残りものにありつけて良かった、と。ふたつの想いが相半ばする。
変わり者ではあるけれど寛大な主に、美味しい食事。アロイジアは、この城での暮らしに心から満足していた。
何よりここでは、赤い色が目立たないから、良い。
一年前──アロイジアは、伯爵夫人の城を取り囲む薔薇園のただ中で大の字に寝転んで空を仰いでいた。
彼女は、元はとある国の姫だった。けれど祖国を追放されて、力尽きたところだったのだ。すべては、彼女の髪が血濡れた色だったから。
彼女の祖国は、かつてまた別の国を滅ぼした。百万に及ぶ民が虐殺されたその国の最後のひとりは、自分たちを殺した者に呪いをかけた。すなわち、彼らが流した血は征服者の王族の末裔に宿り、大いなる災いをもたらすであろう……それを言っては台無しだったのでは、とアロイジアは思っている。
復讐の予言を残したばかりに、アロイジアが生まれた瞬間に亡国の呪いは露見し、警戒された。彼女がとりあえず生かされたのは、殺してはより大きな災いが起きるのでは、と親たちが恐れたからに過ぎない。
遠く離れた地で死んでもらえば国は災いを免れるのでは、との結論に達したのは、アロイジアが十六になった時のこと。さ迷った末に辿り着いた薔薇園があまりに赤かったから、ここならひっそりと行き倒れても目立たないかも、と思ったのだ。苺に薔薇、柘榴に林檎。その時の彼女は知らなかったけれど、城では、四季を通じて赤い花や果実が収穫できるように心が配られている。
見渡す限りの赤に包まれて、四肢の力を抜いて目を閉じた──その時だった。目蓋の裏に影が落ち、物憂げな声が降ってきたのは。
『貴女、美味しそうね』
古城に住まうのは人喰いの化物で、薔薇園は獲物をおびき寄せる囮だったのか、と。早合点したアロイジアは、横着に倒れたままで返事をしたものだ。逃げる気力も体力も、とうに尽きていた。
『……召し上がれ?』
『ええ、いただくわ』
頭から食われるのか手足を切り落とされるのか、と思ったら、そうはならなかった。伯爵夫人は、ゲラルトを呼ばわるとアロイジアに食事を与えさせたのだ。
赤餓症について教えられたのは、その時も出された赤い料理をがっつきながらのことで──以来、彼女はこの城に居ついている。
アロイジアが苺のムースの最後のひと匙を口にしたところで、食堂の窓に黒い影が舞い降りた。
「相変わらず目に痛い食卓だ! 赤餓症なんてなるものじゃない!」
小首を傾げて、耳障りな声で嘲るように鳴く──というか喋る鴉を叩き落としてやろうか、とアロイジアは思った……ここは城の三階なのだ。翼あるものに対しては無意味だろうけど。
鴉の言いぐさは、ゲラルトにはいっそう聞き捨てならなかったのだろう。老料理人は、顔を顰めて手を振った。
「お前のための料理じゃないぞ、ランベルト。赤餓症に見切りをつけたなら城から出てけ」
人語を操る鴉は、もちろんただの鳥ではない。ランベルトの中身はれっきとした人間、赤餓症に不老不死の可能性を見出した錬金術師だ。
彼の探求の実現は難航していて、肉体を乗り換えることで疑似的に実現したところ、らしい。鴉の前は、猫の姿をしていたとか……そのほうがまだ可愛げがあっただろうに。
「見切りをつけたわけじゃない」
鴉は、生意気な仕草で逆の方向に首を傾けると、ぶつぶつと鳴いた。
「赤餓症があるなら、青餓症や黄餓症もあるかもしれない……組み合わせればどうにかならないか……?」
不老不死──そう、赤餓症の患者は、赤い色を食べる限り死なないのだ。
少年のころから仕えてきたというゲラルトが老人になるまでの間。ランベルトが動物に乗り移るとかいうたいそうな術を生み出すまでの間。伯爵夫人は老いを知らずに生き続けている。
城のあちこちには、夫人が紳士と並んで微笑んだり、彼女と似た少女たちと花を摘んだりする絵が飾られているけれど、紳士や少女たちはいったいどこに行ったのだろう。夫人は、いったいいつまで生きるのだろう。赤い色を食べ続けて?
ぼんやりと不思議に思いながら、アロイジアは鴉が留まった窓辺に寄った。
「羽根が散るから、用がないなら出てって」
「用なら、ある!」
メイドの役割を思い出して申し渡すと、鴉は言った端から翼を広げてがあがあと喚いた。
「城門にやたら派手な鎧を着た騎士が来てるぞ。馬に乗って! 夫人を人喰いとでも勘違いして、退治しに来たんじゃないか!?」
アロイジアとゲラルトは、顔を見合わせた。伯爵夫人のうんざりしたような溜息が、耳元で聞こえた気がした。