” ”
男の腕に抱かれている女が泣いた。その理由は男には分かるようで分からない。何が悲しいというのだろう?自分はただ単に教えて欲しいと乞われた事を、何の脚色もなしに答えただけではないか?それのどこがこんなにぼろぼろと涙を零すほどに悲しい事だというのか?
それが男には分からない。彼には、なんてことはない普通。不便も何もない。楽しくもつまらなくもない。嬉しくも悲しくもない。特に恵まれても、不幸でもないと思う。
なのに、どうして泣くのだろう?男には、いくら考えても分からなかった。
カンカンカンカン
素材は鉄?それとも銅だろうか、なんとも高いような丸いような音を立てる階段。そこら中が錆びているところを見ると、やはり鉄なのだろうか・・・男はそんなどうでもいい事を考えながらボロアパートの自室へと向かっていた。
彼は仕事を終えたばかりで、髪は乱れており服も適当に着ただけだ。少々眠いな、そんな風に思いポケットに手を突っ込み自室の鍵を握る。
そして角を曲がったところで自分の部屋の前に異常があることを発見した。男は別段気にしない。まともに考えたら異常なことかもしれないが、彼にとって異常は異常であったとしても驚くべき事ではない。
感覚が麻痺している?そうではない。それが彼なのだ、異常は異常であっても普通。なんてことはない、それはただの現実であり間違いないことなのだから。
だから、男はそれ――倒れていた少女――の首根っこを掴んで自分の部屋の中へと投げ込む。
ガチャ
別に泥棒が入ろうが盗むようなものは無い部屋だ、しかし余計な存在に自分の空間を乱されたくは無いのか男は部屋に入ると入り口の扉の鍵を掛けた。
そして再び少女の首根っこを掴むと、ずるずると引きずっていく・・・いや引きずらなくとも、男は力はある方であるし、何より少女はまだ幼く年の頃は5,6歳といった所だ、持ち上げるなり抱きかかえるなりは何の問題も無く出来るだろう。しかし男はそうはせずに少女を引きずる。
ポイッ
そしていつも自分が使っているベッドの上に放り投げた。
ベッドのシーツはたまにしか洗わないのか、少々汗の染みが出来ている。布団は無い、タオルケットだけが掛けられていて、枕は雑誌だ。
そんな酷いベッドの真ん中に少女は転がった。微動だにしない、だが死んでいるわけではないだろう、呼吸をしている。
男は少女が生きている事だけ確認すると、朝食を作ろうと台所へと向かう。相変わらず掃除されておらず殺風景な部屋だ。生活必需品ですら足りていないのでは、そう思えてしまう。事実、台所には包丁が無い。だから男の朝食はトーストとコーヒーだけ。それで十分。
ずず・・・
コーヒーをすすりながら、帰り道で拾ってきた新聞に目を通す。また今日も偉そうな政治家のインタビューが載っていた。教育に抜本的な改革が必要だそうだ。
それで?男には関係ない。そもそも、男は一切の教育を受けていない。識字率100%?嘘をつけ、現にここに義務教育を受けていない自分がいるではないか。自分は幸い独学である程度は知識も素養もあるとはいえど、これは明らかな嘘だ。政治家お得意の数値改ざんだ。
とはいえ、それさえも彼にとってはどうでもいいこと。むしろ男が思うのは、最近の新聞は広告のスペースが増えすぎて内容のレベル低下が酷いということ。なんたらテレビがどうしたのだ?この部屋にはテレビなどというものそのものが無い。パソコンだってない。
だが、男は貧乏という訳ではない。金ならば押入れに溢れるほどつっこまれている。
生きるために必要最低限のものだけあればいい?
そういうわけでもない。ただ、どうでもいいのだ。そう。どうでもいい。
チン
トーストが焼きあがった。男はそれをテーブルの上に直接載せて、塩を袋からそのまま掛ける。美味い?それもどうでもいい。ある程度のエネルギー補給が出来て、塩分を取れるならばそれで。それだけのことだ。食べる事に大量の金を費やす人の気持ちなど分からない。彼等は何がしたいのだろう?
だがやはりそんなこともどうでもいい。
むくり
不意に、少女が起き上がった。
トーストの匂いに反応したのだろうか、微かに彼女のお腹が鳴った音が聞こえた気がする。だからか、男はトーストを彼女に向かって投げた。いきなりそんな事をされては少女も慌てふためくが、それでもしっかりとその小さな手でそれを受け取って、小さな口で必死になってついばむ。
余程空腹だったのか、その勢いはすさまじく、男が自分のトーストを半分も食べきらないうちに彼女は一枚食べきってしまい、男にもっとくれと言わんばかりのまなざしを向けた。
男は別段表情も変えずに、残っていたトースト半分を先ほどと同じように少女に向かって放り投げる。
今度は彼女も準備が出来ていて、慌てることなく受け取った。そしてやはり勢いよく食べきった。男も食べ終えた。
彼は少女に近付く。
彼女の周りにはトーストの食べかすが酷く散っている。もちろん彼女自身もパンのカスだらけになってしまっている。だが男は気にしない。
彼は少女を少しだけ見る。
彼女も男を見る。
すると彼は何も言わずに身を翻し、シャワーを浴びるために浴室へと足を向けた。
少女もそれに続く。
サアアァァァァ・・・
シャワーが降り注ぐ音だけが響く。
シャンプーとリンスは男が自分で買ったものではない。時折仕事の一環で会うこともある女たちがくれたものだ。少女はそれの香りをくんくん嗅いでいる。
バシャッ!
不意に男が洗面器に溜めたお湯を少女の頭からかぶせる。少女は、ぷるぷるとまるで動物がやるように頭を振った。そしてシャンプーで頭を洗う。男も洗う。
バシャッ!
また男が少女の頭からお湯を掛けた。少女もまた頭を振る。そして今度はリンスをつける。男もつける。
バシャッ!
また男がお湯を掛ける。少女は頭を振った。
バシャッ!
男がまたお湯を掛ける。それによって少女のリンスは注ぎ落とされた。
キュッ
シャワーの栓を閉める。
そしてカラカラと扉を引き、脱衣所へ入り、おもむろに掴んだタオルを一枚、少女の頭に無造作に被せる。少女はそれを使って髪と体を拭く。男も大きなバスタオルで自分の髪と体を拭く。
その間、男は一言も発しなかっただけではなく、表情も変えなかった。
面倒くさそうにも、鬱陶しそうにも。優しい顔も、微笑む事も。
一切無く。
着替え終えたところで、少女が男の事を“パパ”と呼んだ。
はて?男には覚えが無い。
確かに、種の保存のための行為をしたことはいくらでもある。しかしそれはあくまで仕事の一環で、相手は自分のことをほとんど知らないはずだ。住んでいる場所はもちろん、名前も―――いや、名前はもともと無い。
だから、たとえ子孫が誕生していたとしても、自分のところへやって来られるはずが無いのだ。では、この少女は何者―――どうでもいい。
それさえ、男にはどうでもよかった。
だが、一つだけ。男は一つだけ気にした。
少女をなんと呼ぼう?
“おい”だの“おまえ”だのでは、部屋の中では構わないが、この様子では外にもついて来るだろう、そうすると呼び方は必要になる。
だから名前を尋ねた。すると少女は“知らない”と答える。
さすがに驚く?いや、驚かない。
はたからしたらとんでもないことかもしれない。普通ではないかもしれない。
しかし、男には別段異常ではない。自分と同じなだけだ。
名前が無いことは、男にはなんら特別な事ではない普通の事なのだ。だから気にしないし、名付けようとも思わない。
くい
少女が男の服の袖を引っ張った。そしてもう一度パパと呼ぶ。彼女が自分を“父”と呼んだならば“娘”と呼べばよかった。しかしパパと呼ばれたのだ、ではどう呼ぼう?
辞書を引いた。どうやらパパとはどこかの国の言葉というよりも、父の幼児語のようだ。
ならばこちらの呼び方は娘でいい。娘、と呼んだ。
少女はそれに返事をした。だから、これ以降彼女のことはそう呼ぶ。
奇妙といえば奇妙。名前の無い男と少女。
“パパ”と“娘”―――ただ、それだけ。
携帯電話が鳴った。男には名前が無い。戸籍などあるわけも無い。だから、この携帯電話は特別なルートで入手したものだ。
ピッ
仕事の電話だった。
男の仕事は“なんでも”。寂しい女性の夜の相手もやれば、麻薬の密売もやる。臓器売買もお手の物だ。なのに、この間は警察の潜入捜査を手伝った。
幼い頃から・・・少女とほとんど変わらない年の頃から一人で生きていた。
名前も持たず、自分は存在していないから。そう、この世にいないとされているのだ。
なれば、重犯罪に加担しようが、幽霊と同じ自分は処罰されようが無い。戸籍が無いから、真っ当な仕事に就くことは出来ない。
だが、それがどうした?金を腐るほど稼ぐ事は出来るし、仕事はいくらでもある。何一つ不自由は無いのだ。
カッカッ
娘が靴のつま先で音を立てる。やはり一緒に来る気なのだろう。別に構わない。
むしろ、少女はかつての自分と同じように、子供である事を利用した仕事を出来るかもしれない。
いや、もうそれはすでに。そう・・・彼女は自分と一緒なのだから。
男は少女と同じように、誰とも知らない大人の部屋に転がり込んだ事があった。
そして名前が無いことを告げ、勝手に居座っては勝手に生きていた。
相手は女性だった。だが母性溢れるというわけではなく、今の自分のように適当に、世話と呼べるものではなく。だが、やはり寝る場所と食べ物を提供してくれていたのだ。まさに今の自分が少女にしているのと同じ。
一人で生きる事は出来ないと思われている、子供という立場を利用して生きる。
そして、ある程度成長したら”何も言わず去る”。
男はそうした。それから女性がどうしているかなど、知らないし気にもならない。
きっとこの少女も同じなのだ。自分を生きるために利用し、いつか去る。
―――どうでもいい。
勝手にすればいい。自分を見て勝手に生きる知恵を身に付ければいい。
勝手に利用すればいい。自分がしてきたように。
勝手に。
仕事の相手は男が少女を連れていた事に少々面を食らったようではあったが、さほど気にはしなかった。
船の汽笛がうるさいほど響く。どうやら今回の仕事は密航者の手引きのようだ。容易いし金になる。
前にやった時は、共に手引きをした者が後で捕まった。だが自分は捕まらなかった。当然だろう、存在していない人間をどう捕まえる?
やはり容易かった。何の問題も無く仕事を終え、現金を受け取った。
少女は、一応は監視役をやった。だから金の一部をやる。少女の年齢からしたら、とてつもない大金。しかし彼女は喜ぶ事も無く、普通に、まるで一般企業の普通の給料であるかのように受け取った。
ああ、やはり、自分と同じなのだ。
男は妙に納得して、夕食を考える。
すると、少女がハンバーグを食べたいなどと言い出した。
構わない。
そういえば、自分も女性に世話になっている時にハンバーグを食べたいと言った気がする。そして彼女もそれに付き合ってくれていた。
だから、男も同じように少女を連れて近くにあったファミリーレストランに入った。
少女と同じようにハンバーグを注文し、食べる。
美味い?
分からない。
昔は、美味かった?
かもしれない。
少女が美味しそうに食べていたからだ、自分もそうだったのだろう。
なんだろう?
彼女の顔を見ていたら、どうしてか自分もそのハンバーグが美味いという気がした。
その理由は、分からなかったけれども。
気が付くと、3年の月日が流れていた。
男と少女は相変わらず必要最低限の会話だけだ。
男は相変わらずかつて女性がしたように、少女の世話をしてやっている。
少女は相変わらず男を利用している?分からない。成長している?分からない。
だが、それは唐突だった。
「じゃあ、行くね」
「そうか」
そのやりとりさえも、男と女性の別れ際と同じ。
だが、少女は背を向けたまま呟く。
「今度は、私がそうするね」
パタン
扉を閉めた音が静寂を呼んだ後、男は気づいた。だけど分からない。
自分は何者?彼女は何者?
ここはどこ?今はいつ?記憶は何?
何も、分からない。
ただ、一つだけ。
「・・・・・・」
頬を伝う涙、一筋。
名も無き男と少女の、名も無き物語。
それは終わらず、始まらず。
どちらも、分からない涙を。
その後は、誰にもわからない。
読んでいただき、ありがとうございます。
初の短編、尻切れトンボになってしまったような・・・それでも少しでも楽しんでいただけたなら励みになります。