第二十幕 ヴァイン、見てはいけないものを見る
「大丈夫か!?」
俺は腕の中に向かって訊いた。
「は、はい……。あ、ありがとう」
金髪の少女は青ざめたままながら、それでもちゃんと返事をしてくれた。
先ほどの音と衝撃は、馬車が荒野の岩か何かに乗り上げてしまったためのものだろう。そのあとしばらく馬車内は振動に襲われつづけ、床が右に、右が上に──つまり横倒しになった状態でようやく止まった。
あの瞬間、俺は咄嗟に仕切りをまたいで、前部の座席にいた少女をこの腕の中に庇ったのである。
少女にケガがないことを確認した俺は、後部に向かって声を掛ける。
「みんな、無事か!?」
「──私は無事だ」
すぐにそう答えてくれたのは、しかし、エスメルだけだった。そのあとは誰も声を上げない。
俺は慌てて馬車の後部を見やる。フレッタ、ミューズ、護衛の男二人はそれぞれに身体の一部を押さえて苦しそうにしていた。あの衝撃と振動を、エスメルはその卓越した運動神経でどうにかしたのだろうが、他のみんなはそうはいかなかったようである。ちなみに俺が無事なのは、少女を庇った際に自然と身を丸めたのが幸いしたのだろう。
俺とエスメルはみんなの様子を見て回った。すぐに動けそうではなかったが、命に別状はないようだった。
「取り敢えずは一安心……と言いたいところだが、そういうわけにもいかないか」
と呟いたエスメルは、馬車の外を睨んでいた。転倒のせいで両開きの扉が壊れ、直接荒野が望めるようになったそこには──モンスターの影が確認できた。
薄い土煙の向こうから近づいてくるのは、言うまでもなくミッグドーグの群れである。ただ、その数は九体にまで減っていた。ミューズの魔法に混乱させられたやつらは、あらためて追うことをしなかったらしい。しつこいという話だったが、同士討ちにみたいになってやられたのが意外と戦意を萎えさせたのかもしれなかった。
そんな中、いま馬車へと走ってきているミッグドーグたちは真にしつこいと言えるだろう。しかしそんなやつらも、いきなりひっくり返った馬車には驚いたらしく、こちらに近づいてくる速度を注意深いものに変えていた。
怒涛の如く襲われるよりはマシとはいえ、こちらでまともに動けるのは俺とエスメルの二人だけ。数において四倍以上の差があった。
俺たちはかなり大雑把な冒険者パーティーであるが、標的の数が自分たちよりも多いとされる依頼は一度も受けてこなかった。さすがにその辺りは、自分たちの実力というものをわきまえていたのである。もちろんそれはいまも変わらないので、できればこの状況は勘弁してもらいたいのだけれど、そんなことを言ってもどうしようもないことは解っていた。
緊張──いや、恐怖と呼ぶべき冷たいものが全身に絡みつく。そんな俺の服の裾を、金髪の少女がちょこっと引っ張った。
「あの、御者は……」
その呟きに、俺はハッとした。そうだ、彼はどうなったのだ?
「見てくる」
少女とエスメルに向けて言うと、俺はすぐ上にあった──もともとは右側にあったはずの扉を押し開いた。足元に転がっていた荷物を踏み台にし、扉の枠に手を掛けて外に出る。俺は馬車の前部のほうにいたので、後部に回るよりはそのほうが早かったのだ。
横倒しになった大型の馬車の上に出た俺の目にまず入ってきたのは、少し先にいったところの荒野で呆然と立ち尽くしている二頭の馬の姿だった。どうやら無事のようである。おそらく馬車が事故を起こした時、かなり早い段階で馬車との連結部が外れるなり壊れるなりして、運よくその転倒に巻き込まれなかったのだろう。
つづいて俺は、馬車の上から御者台のほうを見下ろした。そこには誰も乗っていなかった。慌てて周囲を見回す。二頭の馬とは別方向の、少し離れた荒野に御者の男が仰向けに倒れていた。
「おい、しっかりしろ!」
俺は馬車の上から飛び降り、御者に駆け寄った。彼の右肩辺りの服は破れていて、そこからかなりの血が滲んでいた。
「う……あ……」
御者の表情も言葉も朦朧としている。目に見える負傷は右肩だけだったが、おそらく地面に放り出された際にあちこちぶつけてしまっているのだろう。下手に動かさないほうがいいとは思ったが、ここに置いておくわけにもいかなかった。ミッグドーグたちの影が近づいてきているからだ。
俺は御者を抱きかかえて馬車へと戻り、横倒しになっている車体の脇にもたれさせた。
「御者がケガをしている。馬車の中に止血に使えるものはないか!?」
「う、うん」
俺はエスメルに言ったつもりだったのだが、馬車の中から返事をしたのは幼い少女の声だった。
まもなく金髪の少女が、先ほどの俺と同じように横倒しになっている馬車の上からひょっこりと顔を出した。少し躊躇したあと、思い切ったように俺たちのいるところに飛び降りてくる。
「ありがとう。でも危ないから、お嬢ちゃんは中に戻ったほうがいい」
金髪の少女から清潔そうな布を受け取ると、俺はすぐにそう言ったが、彼女はふるふると首を左右に振った。
どうやら手伝いたいらしい。下手に断るほうが余計に時間を食うかと思い、俺は素直に少女の手を借りることにした。彼女に御者の身体を支えてもらって、俺はその右肩に布を巻きつけた。きつく縛っていると、御者の意識が少しはっきりしたようだった。
「お、お嬢様……ご無事、でしたか。申しわけ、ありません。急ぐあまり……運転を、誤ってしまいました」
御者が苦しそうに途切れ途切れに言葉を発すると、金髪の少女は再びふるふると首を左右に振った。
「ヴァイン、気をつけろ!」
不意に、馬車の後部のほうからエスメルの叫びが聞こえた。
振り返れば、ミッグドーグの群れの中から三体が飛び出し、速度を上げながら迫ってくるところだった。二体は馬車の後部へ、最後の一体は馬車の脇──つまり、俺たちのほうへと向かってきた。
マズい。いまから馬車内に戻るのは明らかに無理だった。馬車の後部も狙われている以上、エスメルの助けも望めない。
ここは、俺が何とかしなければならなかった。
「ホゲホゲペッ!」
少女を後ろに庇い、俺は呪文を唱えた。まだモンスターの観察も十分ではなかったし、できれば見知らぬ人間の前でこの呪文を唱えたくもなかったんだけど、もちろんそんなことを言っていられる状況ではなかった。
蒼白い光を放つ魔方陣は、俺たちに襲い掛からんとしていたミッグドーグの拘束に成功した。
いつもは何だかんだで他の三人がモンスターの相手をしてくれているので、こんなふうに直接自分が狙われるのははじめてだった。緊張感が尋常ではない。ただ俺も、まだ三ヶ月とはいえ、冒険者として実戦経験を積んだ身だ。相手が一体だけなら何とかなった。
俺はホッとしたが、それも束の間であった。
ミッグドーグの群れから、俺たちのほうへと駆けてくる新たな一体の影が見えたのである。
マズいマズい。俺の超拘束魔法は、同時に複数は発動できない。いま駆けてくる二体目を止めるには、すぐそこにいる一体目の拘束を解かねばならなかった。
どうする!?
──いや、どうするも何も、とにかくこっちに迫ってくるやつを止めなければそのまま襲われてしまうだけだ。
「ホゲホゲペッ!」
俺は狙いを変え、あらためて呪文を唱えた。再び現れた魔法陣は、二体目のミッグドーグを拘束した。
しかし、これで一体目が自由になってしまった。俺は恐怖を覚えながら、間近にいるミッグドーグのほうに視線を向けて、あっ……と少し驚いた。
超拘束魔法を解いたら、その標的はすぐさまこちらに襲い掛かってくる──俺はそう思い込んでいた。しかし、実際には違った。
一体目のミッグドーグは、自分の周囲や足下を慌ただしく見回していた。
……そうか。いきなり身体の自由を奪われて、またいきなり身体の自由を返されたほうにしてみれば、まずは混乱せざるを得ないのだ。攻撃を再開するのはそれが収まってからになるのだろう。
だったら、その間はこのまま二体目を拘束しておけばいいわけだ。そして、一体目が混乱から立ち直りはじめたら──
「ホゲホゲペッ!」
俺は二体目の拘束を解くと、あらためて一体目に対して呪文を唱えた。と同時に、いま解放したばかりのミッグドーグのほうを見る。幸い、二体目もまずは混乱を示し、すぐには襲い掛かってこなかった。
──やった、二体の間に上手い具合に時間差ができている。これなら同時攻撃という最悪の事態だけは免れそうだ。
「ホゲホゲペッ! ホゲホゲペッ! ホゲホゲペッ!」
それから俺は、そのせっかくの時間差がなくなってしまわないよう時機をはかりつつ、一体目と二体目に対して交互に呪文を唱えつづけた。やつらは拘束と解除をくり返され、こちらに思うようには近づけなかった。
これなら、俺一人でも当面の間は二体のミッグドーグの相手ができそうだ──と思った矢先のことだった。
三体目のミッグドーグが、俺たちがいる馬車の脇へと走り寄ってきたのである。
マズいマズいマズい。俺は白目を剥きそうになった。しかし背後には、金髪の少女と負傷した御者がいる。ここで諦めてしまうわけにはいかなかった。
「ホゲホゲペッ!」
とにかく俺は、走ってくる三体目を拘束した。横目で一体目と二体目を見る。一体目はもう動き出しそうで、二体目まだ混乱していた。俺は一体目を拘束する。次は二体目かと思ったが、三体目のほうが立ち直るのが早かった。適応力が高いらしい。二体目を拘束せずに、三体目を拘束した。
「ホゲホゲペッ! ホゲホゲペッ! ホゲホゲペッ!」
そして一体目を拘束して、二体目を拘束しないで、三体目を拘束する。一体目を拘束しないで、二体目を拘束して、三体目を拘束しない。一体目を拘束しないで、二体目を拘束しないで、三体目を拘束する。
……モンスターと戦っているというよりも、何かの遊戯でもしているような気分になってきた。しかし、失敗してしまった場合はすぐに餌にされてしまうので、ちっともおもしろくはなかったが。
にしても、これじゃ埒が明かない。ていうか、ジリ貧だ。ミッグドーグだってバカじゃないだろう。そのうち拘束と解除のくり返しにも慣れてくるはずだ。実際、混乱している時間が段々と短くなってきている。それに、俺のほうもいずれは顎が痛くなってきてしまう。
エスメルのほうはどうなっているんだ……?
角度の問題で、俺の位置からは馬車の後部の様子を直接見ることができなかった。ただ、戦いの物音が聞こえてくるから、エスメルも馬車から降りて奮戦しているのだろう。しかしそれはつまり、彼女の助けはまだ望めないということでもあった。
ミッグドーグは小型のモンスターなので、俺でもがんばれば所持している解体用の短剣で傷を負わせるくらいはできるだろう。ただ、そもそも俺は呪文を唱えながらそれを振るえるような器用さを持ち合わせていなかった。標的が一体の時でさえそうなのだから、標的が三体もいるいまはとてもじゃないが無理だった。
どうすればいい……!?
俺はこの先の展開について考えた。──それ自体は決して悪いことではなく、むしろ必要なことであったはずだ。
しかし俺は間違ってしまった。考えと戦いにおける配分を。
要するに考えすぎて、戦いへの意識をおろそかにしてしまったのである。
三体目の拘束が遅れ、そいつがこちらに向かって襲い掛かってきた。
その瞬間、俺の脳裡によぎるものがあった。
故郷の両親と兄の姿であった。山間の小さな村と、そこでの貧しい少年期も次々と蘇ってくる。
え? あれ? ちょっ、待っ……。これって、いま一番見てはいけないものじゃないの!? 「死の直前に、人はそれまでの人生を思い出す」とかいうやつじゃないの!?
持ち主の混乱をよそに思い出は全力疾走をつづけ、あっという間にアストの町にまで来てしまう。俺はあぶれ者となり、フレッタとエスメルたちに助けられ、その後ミューズとも出会い──
世界は闇に閉ざされた。




