第十七幕 エスメル、一計を案ず
エスメルの動きが急に変わった。
これまで彼女は、できる限り最短距離で俺が拘束しているユニトウモのところまで駆けつけようとしていた。そのため、自分を追い掛けてくる二体目のユニトウモを振り切ろうとする動きも最小限に留めようとしているのが見て取れていたのだ。
しかし、いまはそうではなかった。
俺が拘束しているユニトウモのところに向かっていること自体は同じなのだが──いままで以上に大きく右や左に走るようになったのである。つまり余計な動きを増やして、こちらに辿り着くことは二の次みたいな様相になってしまったのだ。
どういうつもりなんだろう?
エスメルには考えがあるみたいだったけど……口の疲労感から一刻も早く解放されたい俺にしてみれば、正直、彼女の行動は不可解かつ勘弁してほしい類のものだった。
ただ、もはや問い質す余裕もなく、俺はひたすら呪文を唱えつづける。
「ホゲホゲペッ、ホゲホゲペッ、ホゲホゲペッ」
喉はカラカラでひりついている。
「ホゲホゲペッ、ホゲホゲペッ、ホゲホゲペッ」
顎が痛い、痛い、痛い。
「ホゲホゲペッ、ホゲホゲペッ、ホゲホゲペッ……」
あ、あれ、まずいな。だんだんぼうっとしてきたぞ。
魔法陣の蒼白い光に捉われた一体目のユニトウモ。いまだ大きな迂回をくり返しつづけるエスメル。その彼女を追うユニトウモの足止めをすべく魔法を放ちつづけるフレッタとミューズ。それらの光景が何だかひどく遠いもののように思えはじめ──
やがて、俺は夢の中にでもいるような感覚に陥った。
そこでは、不思議と喉の渇きも顎の軋みもなくなっていた。
さっきまでのつらさが嘘のようである。まさか、いつの間にか呪文を唱えるのをやめてしまったのかと少しばかり焦ったが、そんなことはなかった。俺の口は自動的に呪文を唱えつづけていた。
これは……いったいどういうことなんだろう? 極限状態がつづいたために生じた、一種の現実逃避みたいなやつなのだろうか?
まあ、何だっていい。穏やかでありながらも集中できている精神状態は、いまの俺とってとてもありがたいものだった。これなら、まだまだ超拘束魔法を使いつづけることができる。
それにしても──思い返してれば、こんなに落ち着いた気持ちで魔法を発動するのははじめてであった。呪文がアレなせいで、いつもは嫌悪感や羞恥心を抱え込みながらやっているのだが、いまはそういう余計な雑念がなかった。
何だか調子いいな、と思った次の瞬間。
蒼白い光を放つ魔方陣が、ブワッと膨れ上がった。
普段なら、魔法陣の大きさは直径二メートルくらいで、そこから放たれる蒼白い光の高さは一メートルくらいである。それらがいま突然、倍近くになったのだ。ユニトウモの全身を覆い尽くしてなお余りある規模であった。
え、何これ、どういうこと!?
俺は思わず目を剥いた。
すると、夢の中にでもいるような感覚が急速に失われていった。どうやら驚いたことにより、目が覚めたというか正気に返ったというか、とにかく現実へと引き戻されてしまったのである。
気がつけば、一体目を拘束している魔方陣も蒼白い光も、何ごともなかったように元の大きさとなっていた。そのあまりにもあっさりとした変化に、「いまのは錯覚だったのだろうか?」と俺は首を傾げ掛けたが──そんな余裕はすぐに消し飛んだ。
意識が現実に帰還したために、喉の渇きも顎の軋みも復活してしまったのである。しかも、一度楽な気分を味わったものだから、再び襲ってきた口のつらさは先ほどよりも際立っていた。
これホント、マズい……! エスメルはまだか……!?
藁にもすがるような思いで草原を見やる。が──
そこに、エスメルの姿はなかった。
「!?」
俺は慌ただしく視線を左右に動かし、拘束している一体目の周辺を確認してみる。──やはり女剣士の姿は何処にもなかった。彼女を追い掛けているはずの二体目のユニトウモも見当たらない。
どういうことだ……!?
混乱する俺の耳に、フレッタとミューズの魔法の着弾する音が聞こえてきた。彼女たちは、エスメルのあとを追っている二体目のユニトウモの足止めをしているはずだ。その音が近くに聞こえる──もちろん、フレッタは当てにならないので、この場合はミューズだけを参考にしての話である──ということは、エスメルもまた近くにいるはずだった。
にもかかわらず、女剣士の姿が確認できなかった。フレッタたちには見えているみたいなのに。
どういうことだ……!? と再び思った矢先──
「よし! もういいぞヴァイン、魔法を解除しろ!」
何処からともなく、エスメルの声だけが響いてきた。
「おっ……おう」
状況をよく飲み込めていなかったが、本当にもう限界を超えていたので、俺はエスメルに言われるがまま呪文を唱えるのをやめた。
蒼白い光と魔法陣が瞬く間に消え、一体目のユニトウモが自由になる。その身体がわずかに身じろぎをした、そこへ──
エスメルが突っ込んできた。
突然俺の視界に現れた女剣士は、一体目にぶつからんばかりの勢いであった。しかし、ぎりぎりで常人離れした回避行動を見せ、その脇を走り抜けていった。
一方、彼女につづいて現れた二体目のユニトウモのほうはそうもいかなかった。焦ったように身をよじろうとしたが、まるで間に合わない。すでに俺の超拘束魔法も解除されているので、その凄まじい速度を阻むものもなかった。
ドッシィイイン。
草原を震わせるような衝突音が鳴り響く。
ぶつかったほうも、ぶつかられたほうも悲鳴を上げることすらできず、重々しく倒れ込んだ。
「──ふむ。一か八かというところもあったのだが、思いのほか上手くいったな」
ようやく呪文から解放され、俺は小岩の上にへたり込んでいた。その横にいつの間にか寄ってきていたエスメルが言った。
どうしてこんなことになったのかよく解っていない俺は、もの問いたげな視線を上に向ける。すると、エスメルが肩で息をしつつも、得意そうな顔をした。
「この草原は、一見すると広々としていて如何にも平坦のようだが、実は違う。意外と起伏に富んでいて、死角も多い。そのことをうっかり忘れて、二体目のユニトウモに気づかずひどい目に遭ってしまったわけだが……今度は、それをそのまま返してやったのさ」
「そのまま返した?」
「そう。──さっき、おまえと挟み撃ちうんぬんの話をしただろう? その時、私が最初に思い浮かべたのは、もちろん自分がユニトウモたちに挟み撃ちにされる光景だった。しかし、それからすぐに別の光景が閃いたのだよ。二体目を振り切るのではなく、むしろ拘束されている一体目のユニトウモのところまで連れていき、そしてぶつかる寸前で自分だけ上手い具合に抜け出せたら、二体のユニトウモを同士討ちにできるのではないか、とな」
「なるほど……それで?」
「ただ、ユニトウモもバカではないだろう。動けない同胞の姿が見えたままなら、避けるに決まっている。そこで、一計を案じることにした」
「一計?」
「おまえが拘束してくれていた一体目のユニトウモの間近に迫るまで、私とそれを追う二体目の視界からその姿が見えなくなるように──つまり常に死角になるように、この草原の起伏に富んだ地形を利用して走ることにしたというわけだ」
先ほど、エスメルが何かを探しているような、あるいは確認しているような素振りを見せていたが、あれはそういうことだったのか。たぶん、まず一体目の位置を覚えて、それからそこに辿り着くまでが常に死角になるであろう道順を、この草原の中から選び出したに違いない。急に大きな迂回をくり返しはじめたのは、その結果というわけだ。
そして、そんな彼女の動きがフレッタたちにはずっと見えていて、俺には途中から見えなくなってしまったのは、フレッタたちよりも俺のほうが低い位置にいたので視界が狭かったためだろう。
「すごいな、エスメル……」
正直、俺は感心した。最初に死角を突かれたというきっかけがあったとはいえ、よくもまあ、そんなことを思いつき、そして実践したものである。
「いや、ヴァインが最後までがんばって一体目を拘束しつづけてくれたからこそだよ。──さてと、息も整ったし、そろそろとどめを刺すとしようか。ユニトウモたちよ、我が崇高なる趣味のために散れ」
「……」
いかがわしい本のために散るなんて、嫌すぎる。エスメルに対して芽生えた尊敬の念がたちまち腐った。自分勝手ながら、ユニトウモたちが不憫になる。「ユニトウモの角が無事なら、それだけおまえの趣味に費やせる金が増えるってことだぞ?」なんて言ったことを少しだけ後悔した。
二体のユニトウモは草原に転がったまま、ピクピクと痙攣している。もう逃げることも抵抗することもできない。俺たちが何かする必要はすでになく、エスメルが腰の鞘から木剣を抜き放ちつつ近づいていくのに任せた。
「角には当たらぬように注意して──」
そう呟くと、エスメルは木剣を二度閃かせた。
未来永劫、ユニトウモたちが「ホゲェエェッ」と鳴くことはなくなった。──それを見届けたあと、俺はふと思い出し、少し離れた小岩の上に立っているフレッタに訊いてみた。
「そういえばさっき、俺の魔方陣がブワッと膨れ上がったように見えたんだけど……」
「ん? 何のこと?」
フレッタは小首を傾げた。その言葉どおり、まったく心当たりがないような顔である。
「ミューズはどう? 見なかった?」
「い、いえ、すみません。二体目のユニトウモの足止めに精いっぱいで、一体目のほうを見ている余裕はありませんでした……」
「言うまでもないと思うが、私も見てないぞ。一体目のユニトウモが視界に入らないように走りつづけていたのだからな」
「そっか……」
どうも間が悪かったようである。──いや、自分以外は誰も目撃していないってことは、あれはやはり錯覚か何かだったのだろうか? あの時は普通の精神状態ではなかったから、その可能性は否定できない。
「で、結局、ヴァインの魔法陣がどうしたって言うのよ?」
「ああ──いや、いいんだ。たぶん、そんなにたいしたことじゃない」
フレッタの問い掛けに、俺は首を振ってこの話題を打ち切った。自分の目に対する信頼が薄れてしまったためである。
「まあそれよりも、とにかくユニトウモを倒せてよかったよ。一時はどうなることかと思ったけど」
「まったくね。エスメルが吹き飛ばされた時はさすがのあたしも焦ったわ」
軽く肩をすくめてフレッタが同意した。
「エスメルさん、本当に大丈夫なんですか?」
ミューズがあらためて心配そうに訊いた。
「ああ、大丈夫だ。──この甲冑がやられてしまったのは痛手ではあるがな」
エスメルが左の脇腹辺りを撫でながら言う。そこの甲冑は見事に壊れてしまっていて、布製の肌着が覗けていた。
「しかしまあ、終わってみれば一体どころか二体のユニトウモを退治できたわけだからな、よしとするさ」
「確かに予想外の成果になったよね。二体分の報酬が手に入ることになるんだから」
フレッタがウキウキとした様子で、ユニトウモたちが倒れている場所へと向かった。すると──
ピキッ。
「あれ? いま変な音が──」
ミューズがすべてを言い終える前に、その音は全員の耳に入るようになった。
ピキッ、ピキピキピキピキッ。
何だ? と思って音のしたほうを見てみると、俺の目に嫌な光景が飛び込んできた。
ユニトウモの角に──それも四本すべての表面に──ひびが走っていくのが確認できたのである。
「……おい。フレッタ、何をした?」
冑の下で、エスメルが眉をひそめた。
「い、いやっ、何もしてない! あたし何もしてないよ!?」
フレッタは突き出した両手を慌ただしく振る。
「おまえの足音で、角にひびが入ったんじゃないのか?」
「あたしの体重、何だと思ってんの!?」
「どうするんだ、高値が付くという角をこんなにしてしまって」
「だから、あたし何もしてないって! あんたもすぐそこで見てたでしょ!?」
「落ち着けよ、二人とも。普通に考えれば角にひびが入った原因は、二体が激しく衝突したせいか、倒れ込んだ時に当たりどころが悪かったせいだろう。ちょっと時間差があったみたいだけど」
「だ、だったら、むしろエスメルほうが悪いんじゃない。もっと上手に同士討ちさせなさいよ!」
「無茶を言うな。第一、それが捨て身でモンスターを倒した人間に対する言葉か?」
落ち着けと言ったのに、むしろぎゃあぎゃあと騒ぎはじめてしまった二人は取り敢えず放っておくことにして、俺はオロオロとしているミューズに話し掛けた。
「角ってさ、やっぱりひび割れた状態だと価値が下がるんだろうか?」
「そ、そうですね。装飾品などに用いるのだとしたら、ひびというのはかなり減額になると思います。ただ、薬として煎じたり粉末にしたりするのであれば、多少ひび割れていてもそれほど問題にならないかと。──ギルドのほうでは何と言ってたんです?」
「いや、使い道までは詳しく聞いてこなかったんだ。──でもどうせなら、いいふうに考えるとしよう」
俺は立ち上がって、ぽんぽんと両手を叩いた。
「二人ともその辺にしないか。まだ角の価値が下がったと決まったわけじゃないんだし。取り敢えずギルドに帰ろう」
そうあらためて宥めると、二人も本気で言い争っていたわけではないので、ふんっと鼻を鳴らしつつも俺の言うことに従ってくれた。
それから四人でモンスター退治の証拠品などを確保したあと、えっちらおっちらアストの町へと帰還した。行きと同様、数が増えているというモンスターに遭遇することもなかった。
そして冒険者ギルドに到着すると、早速運搬してきたものを持ち込んだわけだが──角の状態を見た途端、担当者が「あー……」という非常に残念そうな声を発するのを聞くことになったのである。
尋ねてみたところ、もしも角が万全の状態であったなら、四人全員が一ヶ月くらいは遊んで暮らせたらしい。
それを知ったフレッタが喚き出す。
「ヴァインの嘘つき! 角の価値下がらないって言ったのに。俺は信じろ。黙ってついて来いって言ったのに!」
「いや、後半は明らかに言ってないだろ……」
「嘘つき嘘つき嘘つき!」
……駄々っ子みたいになってしまったフレッタをおとなしくさせるため、俺は仕方なく夕食を奢り機嫌を取ることにした。もちろん彼女だけってわけにもいかず、エスメルとミューズにも声を掛けた。
角の件は残念だったが、それでもユニトウモは希少モンスターなので角以外の部分にも十分に価値があった。なので、相応の報酬を受け取っていたわけだけれど、俺はまったく儲けた気分に浸ることなく、その日を終えたのであった。




