師匠と弟子
とりあえず用意された朝食を眠気と戦いながら口に運び胃に流し込み、俺は自室へと戻った。
無論、眠る為だ。
万年寝不足少女の音無は木陰に預けたので、滞りなく学校へと行けるはずだ。
木陰はというと、久しぶりの登校に不安がっているかと思えば、それよりも音無と一緒に登校出来ることが嬉しいらしく、むしろ心を弾ませていた。
俺と後輩たちの通う高校と木陰の通う中学の敷地は、道路を挟んで反対側にあるため、途中で音無が放置されるという心配もないだろう。
というか木陰に限って音無を放置するなんてありえない。
恐らく過保護にも教室まで連れていくだろう。
放任主義の両親を持っておきながら。
木陰からすれば先輩である音無を甲斐甲斐しくお世話するのは、後輩らしいといえばそうなのかもしれないが、あの感情は尊敬というよりも溺愛だからなぁ。
ある意味心配ではあるけれども、しかし俺が音無をお世話できない今の状況ではありがたい。
そんなことを思いながら。
俺は自分のベッドに入った。
シーツからは微かに、音無の匂いがした。
* * * * *
鼓膜が震え、ぼんやりと意識が覚醒した。
まだ眠気を引きずりながらベッドから這い出て、そこでようやくなんの音だったかを考えると、それは玄関のチャイムの音だった。
時計を見れば時刻は12時を回った昼過ぎ。
それを知覚したためなのか空腹を感じながら一階に降りて、玄関へと向かう。
寝巻きのままだと途中で気付いたが、来客を待たせるのも悪いし、着替えている間に去ってしまうかもしれないので、そのまま出ることにした。
「はーい、今出ますよー」
気だるげに声を掛けてからドアの鍵を外し、ノブを回して押し開ける。
と。
「こんにちわ」
その姿を見て、俺の身体は反射的に少し強ばった。
見慣れた低めの身長に、見慣れた綺麗な金髪、そして見慣れない私服の見慣れた少女だったが、今会うのは少し気まずいと、俺の脳は知っているらしい。
羽狩、輪廻。
ゴシック調の黒い服がドレスのように映える。
よく見ればハイヒールを履いているらしく、心なしかいつもよりは身長が高く見える。
「お、おう、こんにちわ。あれ、学校は?」
「お休みしました。話したいことがあったので」
「そ、そうか」
本当なら『そんなことで学校を休むなんて』とお説教したいところだが、実際問題これからお説教されるのは他でもない俺である。
もうさすがに察しているさ。
鈍感と言われがちな俺だとしても。
輪廻の話したいこととは例のあれだろう、パンツ問題。
これは俺が一方的に避難されて然るべき事案なので、昨夜とは違う理由で身体が強張る。
しかし、罪は償わなければならない。
学生とはいえ、未成年とはいえ。
法律で守られてるとはいえ、罪は罪だ。
「まあ上がってくつろいでてくれ。さすがに来客中に寝巻きじゃあ礼を失するからな、着替えてくる」
「あ、別に構いませんけど……」
「俺が構うんだよ」
「……分かりました。あ、じゃあ、ちょっとキッチンをお借りしても?」
「え?」
「お昼まだですよね? パパっと作っちゃいますね。材料買ってきたんで」
言われれば確かに、輪廻の手にはやたら重そうなビニール袋が下がっていた。
「あ、ありがとう。よろしく頼むよ」
これから怒られるであろう相手にご飯を食べさせてもらうというのはなんとも複雑だが、このままでは背中とお腹がくっついてしまいそうなので、背に腹は変えられない。
くっつきそうでも、変えることはできない。背中は背中だし、腹は腹だ。
空腹を満たしてから、覚悟を決めて怒られようじゃないか。それこそ、腹を括って。
輪廻をダイニングキッチンに通して調味料と調理器具の場所を教えてから、俺は自室に上がりラフめな私服に着替えた。そして忘れないように、昨日の夜事情を説明して(これがなかなか理解を得られず大変だった……)木陰に返してもらっておいた輪廻のパンツを、ズボンのポケットに忍ばせた。
* * * * *
お昼ご飯はサンドウィッチとコンソメスープだった。
サンドウィッチはちゃんとパンの耳を切り落としてあり、形も三角と四角が並んでいてそれだけで手が込んでいるように思える。
挟んである具材も豊富で、たまごやツナ、ハムとレタスなど王道なものから、イチゴやパイナップルなどの果物がホイップクリームと一緒に挟めてあるフルーツサンドもある。
コンソメスープもジャガイモ、ニンジン、キャベツにウインナーも入っていて栄養バランスも見るからに良さそうだ。何よりも、沸き立つ湯気と一緒に漂う香りが食欲をそそる。そそり過ぎる。
「おー……」
食卓について、意識せずとも感嘆の声が漏れた。
「すみません、簡単なもので。本当ならもっと手の込んだものを振る舞いたかったのですが……」
「いやいやいや、全然大丈夫だから! 買い置きのカップ麺で済ませようとしていたくらいだからな、俺は。こんなちゃんとしたものが食べられるなんて思ってなかったよ」
「そう言っていただけると助かります。けど、食生活はちゃんとした方がいいかと……あ、すみません、若輩の分際で出過ぎたことを……」
「あーいや、別にそんなことで卑屈にならんでもいいけど……」
うーん、なんだろう、ぎこちないな……お互いに。
まあ仕方ないことか、俺はいつ話を切り出されるのかとビクビクしているわけだし、輪廻としても話しづらい内容ではあるだろう。
うん、とりあえずお昼を食べよう。
腹が減ってはなんとやら、だな。
まあ元より戦うつもりなんてないけど。
全面降伏だけど。
「いただきます!」
「はい、どうぞ。私もいただきます」
食べ始めてみれば、輪廻の作った昼食は本当に美味しかった。
輪廻は手が込んでいないようなことを言っていたけど、シンプルな料理ではあるものの、その中できちんと手を尽くしてあるように思う。
まるで味の深さをどこまでも追求したかのような、そんな美味しさだった。
輪廻らしい料理だな、と思ったら、自然と笑みが溢れた。
「何かいいことがありましたか?」
勝手にニヤニヤしだした俺を不思議に思ったのか、輪廻がサンドウィッチを手にしたまま首を傾げた。
「あ、ああいや……いや、そうだな、良いことがあったよ」
「それは、なんですか?」
「こうして輪廻と、お昼を食べられること」
「へ?」
輪廻は呆気に取られたようで、もともと大きな目が更に見開かれた。
もうここでちゃんと謝ろう。
お昼を食べ始めたばかりだけど。
こんなに良くしてくれている後輩に対して、自分の保身の為に謝罪をしないなんて、罪を認めないなんて、そんなのカッコ悪過ぎる。
「輪廻、俺に話があるって言ってたよな?」
「あ、はい……」
やはり輪廻は気まずそうに目を伏せる。
「けど、話があるのは俺の方だ」
輪廻が顔を上げて俺の目を見てくれる。
こういうのはやっぱり、男からだろう。
「ごめん! 申し訳ない! すまなかった! 俺が悪かった!」
男らしく情けなく、平謝りだ。
ただ幾ら情けなかろうが、俺は俺の罪を認めよう。雪禰初夏にならうわけでは、決してないが。
「あの、えっと……」
そうだよな、戸惑うよな。
急に謝られたって、簡単に許せることじゃないよな。
それでも謝らずにはいられなかったんだ。自己満足でしかないのかもしれない。自分がスッキリしたいだけの身勝手な謝罪かもしれない。
そんなの分かってる、分かってて尚、俺は輪廻に頭を垂れる。
「やめてください、頭を上げてください」
「いやまだだ、まだ足りない。俺のしたことを考えれば、土下座でもしなきゃ……そうだ、土下座だ」
呑気に椅子に座って飯を食っている場合ではなかった。床に額を擦り付けるくらいしなければ、俺が俺を許せない。
俺が椅子を降りて床に座ると、輪廻は急いで立ち上がり俺の前に座り込んだ。
「やめてください! 土下座なんて……というかさっきから、何を謝られているのか分かりません!」
輪廻の手は、俺が頭を下げないように身体を押さえている。力は弱かったが、強い意思を感じた。
何を謝られているか分からない、か。
そうだよな、逃げてたよ。
自分の口で、ハッキリと言うべきだった。
「輪廻、ノーパンで帰らせてすまなかった!」
真っ直ぐに目を見て、俺は渾身の謝意を言葉に込めた。
すぐさま。
俺の左の頬を、輪廻の右手が打ち抜いた。
痛かった。
「あ、すみません、つい反射的に……」
「いや、いいんだ……これでお前の気が済むなら。さあもっと俺を殴ってくれ」
「えっと……いや、あの……」
「遠慮をするな。先輩だろうが師匠だろうが、犯罪者は犯罪者だ。制裁を加えていいんだ」
「あの、私……既に叩いておいて、なんなんですが……」
「ん、なんだ、他に処したい刑罰でもあるのか? いいだろう、甘んじて受けよう」
もうとうに、覚悟は出来ている。
「怒ってません」
「はい?」
「だからその、私は別に、あなたの言うことで怒っていません」
えーと、それはつまり、どういう……
「ああ! 激怒してるってことか! メロスと一緒か!」
「いやですから、怒ってません! 『おこ』でも『激おこ』でもありません! むしろ今怒っています! 怒ってないことを怒っていると勘違いされていることに腹を立てています!」
ん? えっと……なるほどなるほど……つまり……。
「……勘違い?」
「はい、ただの勘違いです、あなたの。大体その件で私が怒るとしたら、私自身に、です」
「え、なんで?」
「当然ではないですか。私はあなたの言い付けを守ることが出来なかった。あなたを信じきることが出来なかった。パンツを穿いていなかった私に、あなたは手を動かすなと、俺を信じろと言いました。けれど私は、羞恥心に負けて手を動かしてしまいました。自分に幻滅しました。あなたのことを信じていたはずなのに、ほんの少しでも疑ってしまった自分を、私は許せなかった」
「輪廻……」
それこそまるで、メロスのエンディングのような物言いだった。
「だからパンツのことなんて、何も気にしていなかったんですよ、私は。穿かないで帰ったことにすら、今まで気付いていませんでした」
「え、マジで!?」
「マジです」
「そ、そうか…………でもじゃあ、なんで様子がおかしかったんだ?」
「他のことを、気にしていたからです。私が話したかったことはそもそもそのことなんです」
「お、おう……なるほど?」
正直なんのことだか、さっぱりだ。
「私は、あなたに破門されてしまったことが、本当にショックだったんです」
ん? 破門?
「破門て?」
「言いましたよね? 『手を後ろで組んで、絶対に動かすな。動かしたら俺はお前を破門する』と。それなのに私は動かしてしまった。破門されて当然です」
あー……ああ、そう言われるとそんなこと言ったような気もするな……。ただあれは脅迫というか、女子の防衛本能をより効果的に調査するためのブラフだったというか……。
まさか、真に受けていたとは……。
「あの、輪廻、ごめん。それこそ謝らないといけないことかもしれないんだけど……それ俺、本気で言ってなかった、んだけど……」
「へ……?」
輪廻は俺の目を見てフリーズした。
表情はない。
氷上に居るように、凍りついていた。
しかし、そんな輪廻の目から。
まるでゆきどけ水のように、雫がこぼれ落ちた。
「ご、ごめん! あの時は真理を探究する為に必要だったというか……。輪廻の俺への忠誠心は良く分かってたんだ。だからそれをもってしても女子がその、大事なところを見られたくないという貞操観念を捨てきれない、ということを証明したかった。だから……あの時はあれで正解だったんだ! 本当にごめん!」
俺は分かりやすく慌てて、捲し立てるように説明をした。
何せ女の子を泣かせたのなんて、俺の記憶が正しければ初めてなのだから、それも仕方ないだろう。
なんてことだ。
また罪を、増やしてしまったのか……?
「ですから……謝らないでください。失礼します」
「え?」
俺が反応するよりも先に、輪廻は俺に抱きついてきた。
華奢な腕が背中に回され、小さい顔が俺の左の胸に押し付けられていた。
「輪廻?」
「悲しくって泣いてるわけじゃ、ないんです……嬉しくって、私……」
「う、嬉しい?」
「私、破門されて、ないんですよね?」
「あ、ああ、そんなつもりはなかった」
「私はまだ、あなたの弟子でいいんですよね?」
「ああ」
「あなたのことを師匠と呼んでもいいんですよね?」
「ああ」
「本っ当に、嬉しいです!」
俺の顔を見て泣きながら満面の笑みを見せたあとで、輪廻は声を上げて泣いた。
俺も遅ればせながら輪廻の細い身体を抱き締め、子供をあやすように頭を撫でてやる。
「悪かった輪廻。本気じゃなくても言っていいことじゃなかった反省してる。これから先、俺がお前を破門することはない。お前はずっと、俺の自慢の弟子だよ」
* * * * *
ひとしきり泣いた後で。
「そのパンツは、師匠が持っていてください」
と、輪廻はおかしなことを言い出した。
「いや、なんでだよ。返させてくれよ」
知的好奇心はないでもないが、しかしそれよりも後輩女子のパンツを後生大事に持っているような変態に成り下がりたくはない。
差し出した手の上にパンツを乗せながら、俺は懇願した。
「嫌です。別に怒ってはないですけど、師匠に罰を与えます。今後はそれを肌身離さず持って、死んだら棺に入れてください」
「なんで後輩のパンツを携帯しなくちならないんだ……。今後街を歩いていて職質された上に持ち物検査されたらなんて言い訳すればいいんだ……」
「そこは正直に、『可愛い弟子の形見です』と言ってください」
「俺より先に死ぬんじゃない!」
「師匠こそ私より先に死なないでください!」
「いーや先に死ぬのは俺だ! 弟子に看取ってもらってこそ師匠としての本懐だろうが! 弟子は弟子らしく、師匠と自分のパンツが焼かれるのを見届けてくれよ!」
「見届けたい気持ちはありますが、よくよく考えればそれ私のパンツ他の参列者達に晒されてるじゃないですか! 絶対に嫌です! なので私が先に天に召されます!」
「お前が棺に入れろと言ったんじゃねえか!」
「確かに言いました! しかし私は他人に自分のパンツを見せたいような人間ではありません! 星宮短冊さんですか私は! なので師匠は死ぬ前に私のパンツを胃袋に納めてください!」
「お前さりげなく短冊ちゃんディスってるからな? てか師匠にお前の汚いパンツを食わせようとするんじゃない!」
「き、ききき…汚いと言いましたね!? これでも私は女の子なんです! 撤回してください!」
「嫌だね! ていうか死ぬ前に食ったんだとしたらどう考えてもそれが死因だろうが! なんで弟子のパンツ食って死ななきゃならねえんだよ!」
「だから私が先に死ぬと言っているじゃないですか!」
「いやそれは譲れん! 弟子は弟子らしく師匠が死ぬのを看取ってだな……」
「予定調和なんてつまらないです! 弟子の悲劇的な死を乗り越えて師匠は更に大きな人間に成長するんです! そして世界を変えてください!」
「師匠にプレッシャーを掛けるんじゃない! 俺はそんな偉人になろうなんて思っちゃいねーよ!」
「ご自分の可能性をご自分で捨てないでください! あなたは凄い人です! 私が保証します!」
「なんで弟子に保証されなきゃならんのだ!」
「師匠!」
「なんだよ弟子!」
すると、それまでの罵詈雑言の応酬が嘘だったかのように、音が消えた。
目の前では輪廻が目を閉じて、深呼吸をし。
そしてまた、その大きな目で俺の姿を捉えると。
「私、楽しいです」
見たこともないような笑顔で、そう言った。
それに対して俺はたいして考えることもなく、ごく自然にに、それ以外に返す言葉がないという風に、当然のように、言う。
「俺もだよ」
自然に、笑みがこぼれるのが分かる。
「『想いは思ってるだけじゃ伝わらない。伝えたい想いがそこにあるなら、それはぶつけるべきだ』。本当にそうですね」
昨日俺が雪禰初夏に言った言葉を、輪廻は覚えていたようだ。
「また一つ、学ばせていただきました」
「よせよ。そんなたいしたもんじゃない」
「ご謙遜を。師匠は本当に、私の自慢の師匠ですよ」
「それだとどっちが立場上なのか微妙だな……」
「ん、確かにそうですね」
俺と輪廻がお互いの目を見て笑いあったその時。
また玄関のチャイムが鳴った。
俺はこの後、普通にドアを開けることになるのだが、さらに後から思えばそうするべきではなかった。
とはいえ、仕方のないことだ。
こんな真っ昼間に闇が訪れようとは、誰が予測できようか。




