読書の音と間接キス
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世界が、とても穏やか。
リビングに響くのは時計の秒針の音と、本のページを捲る音、それに時折外から聞こえる遠目のエンジン音。
私――音無禊が今滞在している天海家は広い通りに面していないから、社会の喧騒とはあまり関り合いがないらしい。
とってもいいことだ。
家の匂いは住む人に似るのだろうか。どこか温かみのある、お日様のような匂いに気持ちが安らぎ、まどろみを促進させる。
私、音無禊に与えられた任務はあの人の妹――天海木陰の監視。
秘密で外出してるあの人が、部屋で勉強しているという嘘をバレないようにする為の予防線。
けど。
すごい楽な仕事だなぁ。
最初は、私は除け者なのかと少し悲しくなったけれど、よくよく考えると長時間の行動はやっぱり辛いし、あの人達に迷惑を掛けることになっただろうから、これで良かったのかもしれない。
というか、そういうのも思慮した結果、こういう役割を与えられたのかな?
「すー……すー……」
本当、眠るのって気持ちがいい。
いや、別に監視を怠ってるわけではない。
天海木陰は一通りの家事を終えて、今は私に膝枕をしているので、ちゃんと身動きが取れなくなっている。
寝ながら仕事が出来るなんて、最高。
それにしてもこの兄妹は本当に、寝心地がいい。
身体に触れていると何故か気持ちが安らいでぐっすり眠れる。ベッドがわりのソファーも絶妙な柔らかさで、まるで私が眠ることを想定して用意されたのではと思ってしまう。
まあ妄想だけど。
寝返りをうち、横に向けていた身体を仰向ける。
私としては珍しく眠気に抗いながらうっすらと目を開くと、そこには本の表紙が背表紙と一緒に見えた。
天海木陰は、どうやら私の上で読書を嗜んでいたらしい。
そういえば、そんな音が聞こえていたっけ。紙の擦れる音は割と好きだ。
この子読書家なんだなぁ、と何となく思っていると、不意に目の前の本が横にずれて天海木陰の端整な顔が目に入る。
というか、目が合ってしまった。
「あれ、禊ちゃん起きた?」
この子は年下なのだが、気安く“ちゃん付け”で呼んでくる。別に嫌ではないけど。
「うん……ねむいけど」
二度寝……どころではなくもう何度目かは分からず、まだ眠る気満々ではあるけど、膝を貸してもらっている恩もあるので一応答えておく。
「そっか、いいよ、好きなだけ寝てね。あ、けど丁度良いからお手洗いだけ行っていいかな?」
行っていいかなもなにも、行ってほしい。
なんでこの子は自分の家で他人の為に我慢してるのだろうか。
………………。
やっぱり、血筋なのかな……。
「ん、いいよ」
私はのそのそと、といっても私にとっては普通の速度で一旦身体を起こす。
ソファーの背もたれに背中を預け、ひと息。
「ありがと。じゃあちょっと行ってくるね」
「ん」
天海木陰がリビングから出ていく。
ふわぁ……ねむ。
……………………。
ん…………?
あれ……。
行かせちゃって……大丈夫だったかな?
うーん……まあ、トイレに行かせないなんて不自然極まりないし、トイレは確か1階にしかなくて、あの人の部屋は2階だから、問題ない……はず。
ん……大丈夫。
私はちゃんと……役に……立てる。
眠い……すごく眠い。
あの子が戻ってくるまで、もたないかも……。
ふわぁ……ふふ。
今日の夜が、楽しみだなぁ。
すー…………すー…………。
* * * * *
何度目かのチャイムが鳴る。
チャイムの数を数えてはいなかったが、スマートフォンの液晶上に表示される時間をみると、恐らく昼休みに入ったのだろう。
命帝大学附属の中学校は、その上位たる高校とは校舎の形状が異なる。高校の校舎が『Ⅲ』なのだとすれば、中学は『凹』だった。
へこんでいる部分が校門や昇降口とは逆方向にあり、そこに校庭がある。だとすれば校舎裏など存在しないように思われるが、しかし生徒間で認識される校舎裏は確かに存在していた。
それがどこかというと、『→凹←』この両サイドである。
体育の授業などで校庭に出るときには、生徒は皆校舎内から隣接する体育館を経由し、その昇降口から出る為、基本的に校舎の両サイドを人が通ることはない。
そのシステムは俺が卒業してからなんら変わりないようで、俺と輪廻は安心して授業中をやり過ごすことができた。
まあはっきり言って、上履きを忘れ校舎に上がることのできない俺は、午前中でなんの情報も得ることはできていないのだが……。
何しに来たんだ、俺は。
はあ、とついつい溜め息を吐いてしまう。
その直後、それに連動したように腹の虫が泣いた。
ああ、昼休みだもんなぁ。
腹も減るわけだ。
しかしまあ……。
なんということか、俺はまんまと弁当も忘れたわけだ。
ぐぎゅるるるる……。
そんな轟音が鳴り響く。
まるで準備の至らない俺を責めているようだ。
しかし仕方ないとも言える。
いつも学校に行くときには木陰が弁当を用意してくれるのだが、今日に限っては俺は家に居ることになってるのだから、弁当なんてあるはずがない。
コンビニとかで買っとくんだったな……。
と思うが、今更遅い。この中学校では給食というものがないため、弁当を持参するか学食を利用する人が大半だった。その上購買もあって品物も豊富なので、昼休みにわざわざコンビニに出掛ける生徒なんてまず居ないのだ。
目立つことができない以上、校門から外へ出るのは避けたい。しかし上履きも無いので、購買や学食へ行くこともできない。
はー……飯抜きかぁ。
自然と肩が落ちる。
そんな風に、落胆に打ちひしがれていると。
「あの……」
アスファルトの段差に腰掛ける俺の隣に並ぶ輪廻が、恐る恐るといった感じで俺の目の前に何かを差し出してくる。
「私のお弁当、良かったら半分こしませんか?」
布に包まれた四角いそれは、どうやらお弁当箱らしい。
「え、いいのか? いや、ていうか、なんで俺が弁当忘れて落ち込んでるって分かったんだ?」
「いや、ししょ……じゃなくて、あなたが手ぶらなのは火を見るより明らかなので」
ああ、そうだな……そりゃ鞄もなにも持ってなけりゃ、弁当なんて持ってるわけないって思うか。…………ん? なんか今おかしかったような……。
「それじゃあ、お言葉に甘えて少しいただくとしようかな」
本当に空腹なので、本当にありがたかった。
輪廻は本当にできた後輩だなぁと、内心で感動する。
「はい。あ、ですが、お箸が一膳しかないので、その……世に言う間接キスのようになってしまいますが……嫌ではないですか?」
包みを広げながら輪廻が聞いてくる。
うーん、『のように』ではなく間接キスだなぁ、それは。
「俺は嫌なわけがないけど、輪廻の方が普通嫌じゃないのか?」
「え? 嫌じゃないです。私は……あなたに身も心も捧げてますから」
不意に、心の奥が疼いた。
うわあ、なんだこの感覚……。
「そ、そういうことを簡単に言うもんじゃないぞ! ほら、そういうのは結婚する相手にとかだな……」
俺は赤くなっているだろう顔を輪廻からちょっと逸らしながら、説教じみたことを言う。
「そう、なんですか。申し訳ないです」
「いや……申し訳ないことはねえよ。むしろ、ありがとうな、輪廻」
そう、しなきゃいけないのは説教じゃなく感謝だった。照れ隠しが過ぎたな。
俺は右手を輪廻の頭に乗せ髪をくしゃっと撫でる。艶やかで肌触りのいい髪が指に絡むことなくスッと抜けた。輪廻はまるで猫みたいに、目を細めていたが、俺の手が離れると上目遣いにこっちを見てくる。
「私は……やっぱりあなたが好きです」
「へ?」
「ふふ……なんでもないです。さあ、食べましょう?」
びっくりした……告白されたのかと思った。輪廻のことだから、師匠としてってことだよな……多分。勘違いしないように気を付けないと。
「あ、私が食べさせてあげますね」
「お、おう」
お箸が一膳しかないのだから、確かにそれが効率的ではある。が、俺はなぜか胸がドキドキしていた。おかしい……輪廻は後輩、ただの後輩だ。よし。
何を意識してるんだろうか、俺は。
輪廻はただ優しいだけなのに、先輩として情けないよな。しっかりしないと。
そして俺達の昼食が始まった。




