夕日の満ちる放課後の廊下で
二階までの道程はあっという間だった。
まあ、階段を上がればそこが二階ではあるのだが、そういうことではなく、逸る気持ちが俺の足を想像よりも速く動かした。
校長の言っていた通り、俺も校内で見掛けたことのある三十代と見える警備員は、俺が来ると「気を付けて下さい」と年下の俺にも敬語を使い、それから空き教室のドアを示した。
別に緊張などはしない。
言いたいことを言うだけだ。
淵堂という元教師と面識は無かったが、そんなことはどうでも良く、ただ単に、そいつは俺の敵というだけだ。
それは厳然たる、分かりやすすぎる事実だった。
引き戸を開ける。
すると部屋の中央で項垂れた男が、銀縁の眼鏡を掛けた顔を上げた。
レンズ越しの目が、一瞬俺を睨んだ――ように見えた。
「君は……誰かな?」
拘束されて尚、二十代後半であろうその教師は落ち着き払っていた。
特に抵抗しようという気も無いらしい。もしくはもう、諦観しているのかもしれない。
「2年E組、天海夕陽。まあ、もうあんたには関係ないことですけどね。淵堂センセ」
「ハハハ……縛られている教師を笑いに来たのかな。だとしたら、性格歪んでるね、君」
「歪んでるのは、お互いさまでしょう」
「歪んでる? 僕が? 何を言ってるんだい、君は」
「自覚がないんですか、可哀想に。生徒に向けて、歪んだ愛情を注いでいたんじゃないですか?」
「ん? ああ、みるくちゃんのことか」
みるくちゃん……確か短冊ちゃんの芸名か。
「何をどう聞いたかは知らないが、君は何か勘違いをしているようだな。僕とみるくちゃんは、教師と生徒である前に、ファンとアイドルなんだよ」
「はい? だからつまり、自分の受け持つクラスの生徒がアイドルだったから、ストーキングしたんでしょう?」
「あーあー、だから、それが違うんだよ。勘違いなんだよ、君の。僕は、星河みるくちゃんが星宮短冊として僕の生徒になる前から、彼女が中学生の頃から、彼女を心から崇拝していたんだ。ライブには何度も通ったし、僕の部屋は彼女のグッズで埋め尽くされている。彼女の言い付けに従って僕の夜のお供は彼女以外に居なかったし、僕は僕の全てを彼女に捧げても良いと、そう思っていたんだ。そんな時、自分が初めて担任として受け持つことになったクラスに彼女が――僕の女神が居たんだ。嗚呼、これが神の定めた運命なんだと、僕は確信した。僕の手で彼女を幸せにしようと、そう心に誓ったんだ」
気持ちが悪い。
心のそこからそう思った。
こんなやつが教師をやっていていい訳がない。
何故ならこいつは。
「間違ってる」
「あ? はぁ? なんだい君、何が……なーにが間違ってるというのかな?」
「お前……お前は、アイドルをなんだと思ってやがる!」
「何って……芸能人かな?」
「そんな簡単な言葉で片付けるんじゃねえよ。崇拝も結構、ライブに行くのもグッズに埋もれるのも結構だ。夜のお供にしたって別に構わない。お前の全てを捧げろ。独占欲だって、普通に抱いていい。ただ……独善的なのは気に食わない」
「あん?」
淵堂が剣呑な目付きで見てくるが、どうでもいい。
「アイドルっていうのはな、ファンの皆を幸せにする為に必死こいて現実と闘ってるんだよ! ダンスが出来ない、歌が歌えない、ダンスも歌も出来るのにルックスで差を付けられる、個性が無くて悩んで挙げ句キャラ作りで迷走したり、頑張って人気が出れば出るほどアンチに叩かれる。……そんな過酷な世界でも、アイドルは自分を応援してくれるファンを笑顔にする為に、世界と闘ってるんだ」
あーあ、もう、自分が何かおかしなことを言おうとしてるような気がしてならない。
けど仕方ない、もう止まらない。
「言わばアイドルはな、ジャンヌ・ダルクなんだよっ!!」
ほーら言った。話を止めちゃダメだ、引き延ばしてうやむやにして煙に巻かなければ。
「人間だから、独占欲があるのは分かる。好きなアイドルと身近な関係になったら、思い上がるのも仕方ないのかもしれない。けどな――」
元教師の濁った目を、俺は真っ直ぐに見つめた。
「その独占欲が相手に対する“思いやり”を上回ったら、それはもうファンじゃねえんだよ」
「あぁ? ファンじゃなかったら、何だって言うんだい?」
「だから、最初から言ってるだろ。淵堂センセ、あんたはストーカーだ」
「ストーカーかぁ、そうなのかね。僕はみるくちゃんが好きなだけだったんだけどね」
「アイドルってのは偶像だ、手に入れようとしちまった時点で、あんたは道を踏み外したんだ」
「ふむ…………。ていうか、気になってたんだが、君はみるくちゃんの何なわけ?」
何って、そんなの決まってる。
「俺は短冊ちゃんの先輩で、短冊ちゃんは俺の後輩だ。それ以上でもそれ以下でもない。後ついでに言っておくけど、今後俺の後輩に手を出すようなことがあれば、俺があんたをぶち殺すから、そのつもりでよろしく」
そう、そもそもこれだけを言いたかったんだ、俺は。
「最近の若いのは怖いなあ」
全然怖がってなさそうなのがむかつくが、まあいい。言いたいことは言ったのだから長居は無用だ。
退散するとしよう。
「それじゃあ淵堂センセ、良い人生を」
ライブも出禁だろうし、もう教師も出来ないけどね。という淵堂の呟きを無視して、俺は教室を後にした。
すると。
「お疲れ様です、先輩」
廊下の壁に寄り掛かって立っていた短冊ちゃんが、まるで可愛い後輩のように声を掛けてきた。
「なんだよ短冊ちゃん、来ちゃ危ないだろ……」
「大丈夫ですよ、先輩が居ますから。ぶち殺してくれるんでしょう?」
上目遣いの短冊ちゃんは、いたずらっぽく笑った。
「聞いてたのか……」
普通に恥ずかしいんだけど。
「ジャンヌ・ダルクは、ちょっとよく分からなかったですけど……」
普通じゃなく恥ずかしいんだけどっ!
「戻りましょうか」
「そうだな」
俺と短冊ちゃんはゆっくりと歩き始めた。
夕暮れ時の廊下は、西日が射してオレンジに染まっていて、どこか幻想的だった。
部活の時間も終わりが近付いているらしく、校内に人はほとんど残ってないようだった。
「短冊ちゃん、ごめん」
俺は少し前を歩いていた短冊ちゃんの背中に声を掛けた。
短冊ちゃんは足を止めて振り向き、それと同時に俺の足も歩くのをやめた。
「どうして、先輩が謝るんですか?」
「俺が頼りにならなくて、ごめん」
下げた頭を上げると、短冊ちゃんは不思議そうな顔で俺を見ていた。
「そんなこと……」
「あるんだ。短冊ちゃんがやろうとしていた計画を俺は知らなくて、校長は知ってた。それはつまり、そういうことだろ。俺にもっと頼り甲斐があって、前もって相談してもらえてたら短冊ちゃんをあんな怖い目に遭わせなくて済んだかもしれないんだ。だから今回のことは……」
俺のせいでもあるんだ。
「先輩」
「ん?」
「悪いのはストーカー、ですよ?」
「う……まあ、そうなんだけど……」
後輩に一本とられてしまった……。
と、いたたまれないよう感情になっていると、短冊ちゃんが2歩、俺との距離を詰めた。俺と短冊ちゃんの間には30㎝くらいしかない。
「私、感謝していますよ、先輩には」
「なんでだよ、感謝されるようなことなんて俺は何も……」
「しました、沢山。私のパンツを一緒に探してくれたし、私のことも探してくれた。私の為に校長を殴ってくれたし、担任に釘を刺してもくれた。……ほら、今日だけでこんなに」
「校長を殴ったのは余計だったけどな」
「まあ、そうですけど」
俺が苦笑し、短冊ちゃんは微笑む。
「ていうかですね、謝るのは私の方です。先輩を利用する形になってしまって、校長を殴らせてしまって、自分を責めさせてしまって。本当に、ごめんなさい」
そう言って短冊ちゃん深々と頭を下げた。
こうして短冊ちゃんに謝られるというのは初めてのことで、それがこんなに居心地の悪いものだとは思わなかった。
俺は後輩に、頭を下げてほしくないらしい。
「いい、分かった、俺の負けだよ短冊ちゃん。今回の件は、おあいこにしようぜ」
俺の言葉に頭を上げると、短冊ちゃんは満面の笑みで頷いた。
「ありがとうございました、先輩。私の為にいろいろとしてくれて」
「だから、いいってば」
「いえいえ、謝罪では足りなかったので、これは謝礼です。ん、そうだ先輩、私に何かして欲しいことありませんか?」
「して欲しいこと? いや、別にないけど……」
「む……このアイドルの短冊ちゃんからの申し出ですよ? 何かあるはずです! ていうか、何かお礼しないと私の気が済まないので、絞り出してください!」
「えー……うーん……そうだなぁ……」
「あ、エッチなのはダメですよ? あとお金もあまりないので、出来れば金品じゃない方が助かります」
「ああ、じゃあおっぱいを――」
「だからエッチなのはダメです。ていうかもう揉んだじゃないですか!」
おっと、薮蛇だったか。
「つっても、本当に無いんだよなぁ……」
というか、後輩に何かをしてもらうというのが、普通に気が引ける。
んー…………あ、そうだ。
「短冊ちゃん、決まったぜ」
「お、なんですなんです?」
それが短冊ちゃんの望むようなお願いかどうかは分からないが、少なくとも俺の望みであることは間違いない。
「短冊ちゃん、今度からは俺をもっと頼ってくれ。甘えてくれ。俺を、先輩で居させてくれ」
「先輩……」
短冊ちゃんの瞳が揺らぐ。
もう日が大分沈んだのか、外が暗くなってきたようだ。
どこかの窓から吹き込んできた風が、俺達の間を吹き抜け短冊ちゃんの髪を揺らした。
「も、もう! 何を言ってるんですか、先輩は最初から先輩でしょう?」
「まあな」
「でも……うん。…………はい、分かりました」
恭しく頷いたかと思うと、
「う、えっ、短冊ちゃん!?」
短冊ちゃんはあろうことか俺に抱きついてきた。
情けない声を上げながら、否応なしに鼓動が跳ね上がるのを感じた。
「ちょ、な、何してんの?」
短冊ちゃんは俺の胸に顔を埋めたままで答える。
「何って、先輩に言われた通り甘えてるんじゃないですか。私これでも無理してたんですよ。本当はやっぱり、怖かったです……」
「そ、そうか……」
「だから、少しの間胸を貸してください。お願いします、先輩」
俺は何も言えなかった。
短冊ちゃんの柔らかさと匂いと体温とが、俺の血流を促進していくことに、ただただ自己嫌悪を感じていた。
* * * * *
「ああそうそう、先輩に伝言があるんでした」
落ち着いたのか俺から離れてから、短冊ちゃんはそう告げた。
「伝言? 誰から?」
「校長先生ですよ。先輩の処分が決まったらしいので」
うわー、それは別に聞きたくなかった。
退学……てことは校長の口振りからすると無さそうだが……。
「露骨に嫌そうな顔をしますね」
「気が重いだけだよ。さっさと言ってくれ」
「はいはい、では、発表しますね」
なんか短冊ちゃん楽しそうだな……。
「えー、校長の顔面を殴って腫れさせた先輩に下された罰ですが、明日から一週間の自宅謹慎だそうです。まあつまるところ、停学ですね」
停学……。
改めってそう聞くと肩にズシリと来るものがあるな……。しれっと言われたけれど。
「そう暗い顔をしないでください。校長を殴って退学にならないだけ良かったじゃないですか」
「まあ、そう言われればそうだが……」
「部活動開始直後に部長が停学というのも中々面白いじゃないですか。数年後には笑い話ですよ」
「客観的には面白いかもしれないが、当事者としてはいつまで経っても笑えそうにねえな……。ていうか、短冊ちゃん元気づける気ある?」
「もちもちですよ。まあ先輩の学歴に傷が着いてしまったわけですが、それだって名誉の負傷です」
短冊ちゃんは前向きだなぁ。他人事のように思えなくもないけど。
「あのなぁ、俺が誰の為に――」
「分かっていますよ」
短冊ちゃんは急に真面目な面持ちになって、静かに言った。
「だから、先輩が負った傷は、私がちゃんと手当てしてあげます。……期待していいですよ?」
「お、おう……」
な、何を期待しろと言うんだ……。
残念ながら煩悩の働きやすい俺の頭に、短冊ちゃんとのちょっとアレな光景が頭にフラッシュする。
「あ、先輩今、エッチなこと考えました?」
「は、はあ? 何言ってんの? 全然全くこれっぽっちも、いやらしいことなんて考えてないけど?」
「目が泳ぎ過ぎですね。まあ、別にいいんですよ? 先輩も、私を夜のお供のしてくれたって。妄想は自由ですし。男性のそういうところに、私は理解がある方ですよ。処女ですけど」
「理解があるのは美徳だけれども。俺が短冊ちゃんを夜のお供にすることはねえよ」
「ふむ。どうしてです? 魅力ないですか? 私」
「いや魅力はあるよ。普通じゃなく可愛い女の子だと思うし」
「おお、素直ですね」
「別に嘘吐いて得することでもないからな」
「先輩のそういうところは、私好きですよ」
「短冊ちゃんこそ、素直じゃねえか。『そういうところ“は”』っていうのが気になるけど」
「まあまあ、細かいことは気にしない方が幸せです」
至言だなぁ。流石は真理探究部員だ。
「で、ズバリ可愛い私を夜のお供にしない理由とは、なんですか?」
「理由ってほどでもないけど、後輩をそういう風な目で見るのは、なんというか……」
罪悪感。
「負けた気がするだけだ」
「………………」
な、なんだろう。
短冊ちゃんに真顔で見つめられている。
リアクションの無い短冊ちゃんに対し、リアクションに困る。
と、急に短冊ちゃんはクスクスと笑った。
「な、なんだよ?」
「いえ、なんでもないですよ。先輩はいい人なんですね。さ、行きましょうか」
そう言って歩き始める短冊ちゃん。数秒遅れて俺も歩き出す。
「『いい人』って最低の褒め言葉だと思うんだが」
「ああ、『“いい人”は“どうでもいい人”』ってやつですか? よく言いますけど、見方が歪んでますよね。普通に良い意味で『いい人』って言うこともあるのに」
「そうかなぁ?」
「じゃあ、もう1回言ってあげますね」
「は?」
下り階段の途中で再び立ち止まると、短冊ちゃんは俺を見上げてくる。
「先輩は、“好い人”ですよ」
俺はぽかんとする。
「何が変わったのか全くわからん」
困惑する俺を見て、短冊ちゃんは楽しそうに笑った。
こんな感じで、俺達真理探究部の長い放課後と初めての活動は、ほんのりと苦味を残しながらも、俺が停学になったということだけを除いては、平和的な幕引きとなった。
少なくともこの時は、のんきにそう思っていた。
まさか、復学してから更に大変なことが待ち構えているなんて、どこの誰が予想出来るというのだろうか――。




